9.1
9.
揺りかごの中で赤ん坊が眠っていた。暖炉が発する暖かな光が赤ん坊の頬を優しく照らす。
私は揺りかごを揺らしながら妻が歌う子守唄に聞き入っていた。
彼女の優しくも澄んだ歌声から紡がれる子守歌は、たとえ赤子で無くても、聞くものを安らかなまどろみの世界へと誘う力があった。
「もう寝たかな」
うとうとと夢の狭間で船を漕いでいた私はその妻の一言で現のみぎわへと引き上げられた。
「ふふ、ごめんね。あなたもおねむだったの」
「いや……すまない」
無理しなくてもいいのにと言いつつ、彼女は静かに笑った。
彼女は控えめで穏やかな性格ながらも良く笑う娘だった。私はそうして控えめに笑う妻の笑顔が好きだった。
「サリアはどんな大人になるかな」
その赤子の名はサリアという名前だった。サリアはサギュリティアの別名だった。
「俺は元気に育って、毎日笑って過ごしてくれるなら何でもいいよ」
「ふふ、あなたがそれをいう?」
確かに私は元気も笑いも人より少ない性質だった。
「でも私も同じ。元気に育って、笑顔がいっぱいのお家なら、他には何もいらない」
彼女は穏やかな笑顔浮かべてそういった。その笑顔は彼女の本来の笑顔とは違う、子供を暖かく見守る母親のものだった。彼女は変わった。しかし私はその変化を好ましく思っていた。
でもそれは炎と共に全て燃え尽きてしまった。
燃え盛る炎が屋敷の至る所を燃やし、耐え切れなくなった柱が崩れ落ちてさらなる炎をまき散らしていく。赤子を優しく照らしていた炎は今や身も焼き尽くさんばかりに荒れ狂っていた。
囚われた妻の元へたどり着いた時には全てが終わりを告げていた。
エルフの助力を受けた我々に敗れた魔術師は、置き土産として、目に付く限り全ての物に憎悪の炎をまき散らし、去っていった。
まだ妻が生きているうちにたどり着けたのは奇跡に近かっただろう。しかし妻は息があった代わりに他の全てを失っていた。
その部屋には頭が潰れた、まだ幼かっただろう子供の遺体が転がっていた。私は何も考えないようにした。暴力の証が至る所に残る妻を炎の中で必死に抱え、部屋を脱出しようとしたとき、妻はその子供の遺体を見て、ごめんねといった。
私は耐えられなかった。炎で崩れ落ちた柱がその赤子のいた場所に落下して、全てを炎で包み込んだ。私は走りながら、炎で焼ける喉に構わず泣き叫んだ。その自分の声は今も耳に残っている。それは人ならざる者の慟哭だった。
「トマスさんそいつから離れて!!」
過去の慟哭に交じって聞こえる何者かの叫び声に、私は悪夢からたたき起こされた。かすむ視界の中で三つの人影がぼうと陽炎のように浮かぶ。
状況が理解できない。未だに過去と現在の狭間にあった魂は、ずきずきと警告音を鳴らす頭部の痛みも相まって、平衡感覚を失い、目の前の光景を現実だと受け止められずにいた。
なぜ大熊の爪に貫かれた旅人が生きているのか、なぜカロルがここにいて、更にその旅人に矢を番えているのか。
「そいつは確かに死んでた!!遠くからしか見れなかったけど一瞬で傷が無くなってたんだ!!人間じゃない!!」
トマスはカロルと旅人の間に立って、旅人をかばっていた。
「ああ!!俺も見たさ!!心臓の半分は無くなってた!!」
「じゃあ、なんで!!」
「人間じゃなくても恩人だからだ!!娘のな!!」
「だからって――」
言葉の途中でその手に番えていた矢は放たれた。その後のカロルの表情を見るに故意ではなかったようだが、不幸にもその矢は標的である旅人目掛けて真っすぐ進んで行った。もちろんそれはその手前に立ちふさがるトマスに直撃する軌道だった。
「トマスさん避けて!!」
「――――」
その動きは一瞬だった。旅人は手前でかばって立ちふさがるトマスの腕を押して押しのけると、飛んできた矢を自らの左肩で受けた。
旅人の端正な口元から苦悶の呻き声が上がる。だがしかし、しっかりと急所は外しているようで、その後またさらに痛々しい呻き声を上げながらも、逆側の腕で左肩に刺さった矢を引き抜いた。
旅人を除く全員はそれを呆気に取られながら眺めていた。旅人がまたしても人をかばってその身を差し出したことも、それを可能にした旅人による熟練の戦士の技も、その後に発せられた旅人の予期していたよりずっと人間らしい呻き声も、その全てを理解し処理するのは少し時間が足りなかった。
どた、と人が倒れこむ音が聞こえた。カロルだった。どうやらカロルも何か別の要因でひどく手傷を追っているようだった。
旅人がカロルの方に駆け寄っていく。それに一呼吸遅れてトマスがついて行った。
あまりに急すぎる展開に、起き抜けの体では理解も感情も追いついていなかったが、このまま寝転がって静観している状況でない事は間違いなさそうだった。
手足に力を込める。幸いなことに、先ほどと違って自分の意志通りに動いた。膝をつき、身を起こす。立ち上がった瞬間視界が黒く染まり、頭の傷がずきずきと痛んだが、視界はすぐに正常となり、何とか彼らに合流できそうではあった。
少しぎこちない足取りで、二人と同じようにカロルが倒れた場所まで向かう。二人は屈みこんでカロルの容体を診療していた。
「腫れと感触から、頭部と左腕に強い衝撃を受けた形跡があります。矢を番えられていたところから骨折はしていないようですが、ひびは入っているかもしれません。頭部も出血こそしていますが、大事に至る傷ではないでしょう。糸と針はありますか」
「あ、ああ。それならさっきの小屋にあったはずだ。添え木に使える救急用の包帯も確かある」
「あとできれば清潔な水もお願いします。私は添え木に使えそうな木の枝を探しますので」
「ああ、分かった」
トマスは立ち上がってこちらを振り向いた。
「イオ!!お前、頭は大丈夫か?」
「ああ、それよりお前は早く言われたものを取ってこい」
状況を考えればそういった意図はないのだろうが、何か悪口を言われたような気がして、少しとげとげしい言い方になってしまった。
「おう……わかった。あまり無理すんなよ」
トマスは思うところがあったのか、私と旅人の顔を何回か往復し見比べたが。そのまま狩猟小屋の方へと走り去っていった。
少し沈黙を設け、トマスが走り去ったのを眺めた後、私は旅人の方に向き直って口を開いた。
「添え木が必要ならこれを使うといい。水も少しだが手持ちがある」
私は胸中に渦巻く疑問や、入り乱れて複雑に絡まった感情をひとまず脇に置いて、懐から、鉈が収まっていた木製の鞘と、飲みかけの水袋を差し出した。
「……ありがとうございます」
旅人のあの濁った、だけど清澄な二つの瞳が私を捉えた。再び見舞われた既視感と、解読不可能な感情を腹の底に切って捨てる。幸いなことにその視線はすぐに外された。
「これは痛み止めです。私のことは信用できないかもしれませんが、今は見逃してください」
そういいながら旅人は、再びカロルに向き合うと、懐から薬であるらしい白い粉を取り出して、カロルの頭を少し起こし、無理やりそれをねじ込んで、先ほど受け取った水で流し込んだ。
カロルの喉がゆっくり上限に揺れ、水と粉が少しずつカロルの胃に流し込まれる。手慣れた手つきでカロルに薬を処方する彼女を、私は黙って見守っていた。
やがて全ての粉を飲み下させた旅人は、丁重にカロルの頭を戻して、静かにその顔を見守っていた。カロルの額には傷による影響で大粒の汗が浮かんでいた。恐らく熱が出て、意識も朦朧として身動きもとれないのだろう。そうでなければ彼が仇敵の治療を素直に受け入れるはずがなかった。
私はしなくてはならない質問をするために、もう一度旅人の横顔に向き合った。
しかしすぐに口を開くことが出来なかった。質問に躊躇ったからではない。その横顔にまたしても強烈な既視感を得たからだった。
――サリアはどんな大人になるかな
顔から血の気が引くのを感じた。妻はまだ生きている。まだ生きているのだ。あの村の粗末なぼろ小屋で私の帰りを待っているはずだ――
「あの大熊はお前が呼び寄せたのか」
私は何かから逃げるように、用意していた質問を彼女に投げつけた。
「――いいえ、違います」
「ならば何故、ここにエレナがいる?何故、お前は間髪入れずにここにたどり着くことが出来た?何故、迷わず身を投げ出すことが出来た?そして何故――お前は生きている」
質問も思考も滅茶苦茶だった。旅人は静かに答えた。
「――私もエレナがここにいる理由はわかりません。ですがここに迷わずたどり着けたのは私だけではないはずです。あなたも彼女が助けを呼ぶ声が聞こえたでしょう?そして恐らく彼が」旅人は先ほど自らが治療していた少年の方に顔を向けた。「私たちが到着する時間を稼いでくれた……ですが私は私の無実を証明することが出来ません。そしてこの私の体の事についても、私自身説明する術を持っていません。私がこの状況を作り出すために大熊を呼び出したにせよ、大熊を使ってあなた方に危害を加えようとしたにせよ、私はそれらを否定する証拠はなく、そしてそれ以前に私の身体的特異性から、あなた方が私の居住を否定する権利は十分にあります」
彼女の横顔は相変わらず完全な美を表現していて、表情も底が知れない無表情を保っているが、心なしか打ち捨てられ、泥にまみれた路地裏の少女のような、そんな真逆の印象もなぜか感じていた。
「もしあなたが望むなら、今この場でその鉈を用いて、私の頭部を切り落として下さい。頭部を切り落とした場合復活に時間が掛かるようなので、その間にあなた方は立ち去ってください。もしそれでも不安であるならば、私の復活に合わせて首を切り落とし続けてください。そうすれば私を無力化することが出来ます。しかしお互いそれでは大変ですので、私を信用し、この場に放置してくれたのなら、私はもう二度とこの村に立ち入らないことを誓いましょう」
私は絶句し、彼女が淡々と語るそれらの提案を、思わず引きつりそうになる口元を抑えながら聞いていた。確かに人の理は人以外には適応されない。彼女は間違いなく化け物で、村を危険に陥れる可能性を考えれば今すぐ首を切り落とし、一時的にでも安全を確保するべきだろう。それが曲がりなりにも村を纏める首領の役割であり、被るべき泥だった。鞘を渡していたために自然と手にしていた、抜身の鉈を握りしめる。
――ごめんね
妻の最後の言葉がなぜか頭に鳴り響いた。
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