8.1

8.


 昨日サロアと出遭った、滝つぼへと向かう道は、主役が退場した舞台上のように、ひっそりと静まり返り、昨日の華々しさを忘れ、すでに日常の見慣れた風景へと戻っていた。

 俺があの厳戒態勢の村を抜け出して、ここへやってきた理由は一つ。もちろんサロアに会いに行くため……ではない。

 村の皆の様子や父親を観察して確信したことだが、恐らく父さんやおじさん(エレナのお父さん)は村の人たちと違ってサロアに危害を加えるつもりは無い。そう思った理由はいくつかあるが、一つずつ上げていくならば、昨日のおじさんの様子、それと薬とそれが投与されただろう子牛の存在、そして俺自身の父親に対する信頼……だろうか。今日の子牛をみれば、サロアの薬が尋常のものではないことがわかるし、昨日からの状況を鑑みればそれを投与したのは十中八九おじさんであることは間違いない。昨日の父さんの様子じゃあ少し心配だったけど、村の優秀な戦士を残して――村で一番強いカレンおばさんも一緒に付いて行ったのは気になるけど――サロアの元へ向かっているらしいから、とりあえずは村側が強硬手段を使ってサロアを追い払うことは無いと俺は思っている。

 でも少し気になることとすれば村の皆のよそ者に対しての過剰な反応だけど、村が過去危険な目にあって、なおも現在危険な目にあっているのは間違いないと思う。頑ななこの村の閉鎖環境を見るに、ともすれば今が最も危険な状況であることは察するに余りあるところではあって、サロアの存在とそれによって発生するリスクは受け入れがたいものであることは間違いなかった。しかし――

 サロアの何かに縋るような目、活発に厩舎の小部屋を走り回る子牛、冷静さと厳格さの権家のように刻まれた父親の額のしわ。

 父さんならどんな状況であっても物事の真実を見抜いて、最適で冷静な判断を下せるだろうし、何より自分自身サロアのあの目の色を忘れられずにいた。

 手当たり次第に草をかき分け地面をくまなく探索する。早朝、村を抜け出してから今までずっとこの滝つぼ周辺を散策しているのに、手掛かり一つ見つからない。もう日は昼時を指す位置にまで到達しているのに、進捗は一向に芳しくなかった。肩掛けのかばんに、探索で有用と思われるいくつかの道具と共に、携帯食料もいくつかくすねてきて長期戦も視野には入れていたが、何一つ得られていないこの状況は精神的にはつらいものがあった。ひょっとしたら、父さんはサロアとの交渉をすでに終え、今頃行方不明となっている自分を捜索している頃かもしれない。

 行方不明といえば恐らく抜け穴の状況を鑑みて、カロルもあの脱出口を使っているのは間違いなく、少し不安がよぎる。あのただでさえ何をしでかすかもわからないカロルが、今朝の様子を見るにいつにもまして精神が昂っていたようだから、もしかすると取り返しのつかないことになるかも知れなかったが、自分がそれに駆けつけたところで何か出来るわけでもないし、何よりカレンおばさんが一行について行っているらしいから、滅多なことではカロルも何かしでかすことは出来ないだろう。

 そう思い直した俺は、探索の続きを急ぐことにした。今の自分に出来る最大限をする。今最も必要なことは何か。地面を這いずるように歩きながらそれを探す。

 俺の目的はサロアの“元々身に着けていた”衣服もしくはサロアが隠したがっていた何かを誰よりも先に捜索し発見することだった。それがもしあったとしたならば恐らくサロアの致命的な弱点となるだろう。もしサロアを救いたいのなら、自分がそれを誰よりも先に見つけるより他ないと思う。そしてそれは行えるのは、恐らくこのタイミング、今しかない。なぜなら、父さんならば俺と同じ思考に辿り着き同じことをするはずだからだ。

 父さんならばサロアが何一つ身に着けずに、息子たちの前に現れたことを疑問に思い、それがなぜかを予想するだろう。表向きにはサロアは衣服は盗難にあって奪われたと言っていたが、それは村の状況を考えれば誰が考えても嘘だとわかる。そしてなぜ嘘をついたのかを考えた結果、可能性の一つに身に着けていた衣服、もしくはそれに付随するものが、我々に見せられないものであるという可能性に思い至るだろう。

 汚れや傷が何一つないサロアの完璧な裸体を思い出す。やはり何らかの事情で元から全裸であったとは考えられないだろう。父さんもこの閉鎖された村に何も装備をせずに辿り着くのは現実的ではないと考えるに違いない。衣服だけであるならば燃やせば済むことであるが、燃やすにしても燃やした証拠が残るだろうし、小規模の焚火では燃やしきれないものもあるだろう。少なくとも俺はそう思ったし父さんもそう思うだろう。

 一応念のため、サロアと出会った場所についてはまるっきり別の場所を伝えてあるが状況を考えれば特定されないとも言い切れない。だから今しかない。サロアが喫緊の脅威ではないと判断すればサロアが隠したがった弱点を探るため、人を使って捜索を行うだろう。そうなれば俺が先回りしてそれらを隠蔽するチャンスはほぼ皆無となる。

 サロアの事は良く知らないけど、とても粗雑な性格には見えなかったし、その程度の事は考えて策は打ってあると思うが、さすがに全裸の状態で長い距離歩くのは抵抗があるだろうし、出会った時の状態も全裸で長く歩いた様子ではなかったから、近くを探索されれば万が一ということもある。

 ――それに何より

 良く知らないからこそ俺は誰よりも先にサロアの事を知りたかった。それはサロアを信頼して手を差し伸べてしまい、村を混乱に陥れた責任を感じた面もあるし、

 ――脳裏にサロアを見る、エレナの見たこともない顔が浮かぶ

 根源的な欲求として俺はサロアのことを誰よりも先に理解したかった。

 心の奥底に眠る何かに突き動かされるようにして、一心不乱に辺りを探索する。こんなことは初めてだった。

 ――表面上は明るく振舞いながらも何かが欠落している村の人々の顔、魂が抜けて体だけ残してここではないどこかに行ってしまった母、冷静で常に正しい父、あらゆる言葉を失ってしまった血のつながらない妹

 俺は今まで何かに怯えながら過ごしてきた。俺はそれらに見捨てられない様に、その中で生きていくために、小賢しい知恵と屁理屈をこねて過ごしてきた。大人しくしていること、知恵があると思われるようにそれらしく見せること、聞き分け良くすること。それが自分なりの生存戦略だった。そうしなければ俺は生き残れなかっただろう。なぜなら恐らく自分は――

 俺の人知れない独白は、臓物が浮き上がるような浮遊感と共に、そこで唐突に終わりを告げた。突然視界がぐらつき自らを囲っていた木々が消える。状況を理解するまでもなく、一瞬青空が映し出された後にまた木々の牢獄に囚われた。今度は地面が近くに、そしてそれらが急激に移り変わっていく。空、地面、木々、空、地面、木々。口の中が土の味に染まっていく。それがしばらく起こって、体のいくつかの場所に痛みを感じた後にそれらは収まった。

 痛みを我慢しながら身を起こし、自らがやってきた方向を見上げた。どうやら低い崖から落ちたのち、その下の急斜面を転がり落ちたようだった。回る視界の中、目の前には角度のきつい斜面と、その上には大人一人分ほどの段差が見える。

 うかつだった。崖は木々や草むらで隠れて視認性が悪かったとはいえ、きちんと周りを見ていれば気付けないものではなかったはずだ。きっと自らの正体不明の感情に振り回されていなければ、たぶんこんな事にはならなかっただろう。ただでさえリスクを冒してここまで来ているのに、これらの傷まで見られたらいよいよ言い訳がつかない。最悪ここで野垂れ死んでしまう可能性だってある。

 恐る恐る痛みをこらえながら立ち上がる。そこかしこに痛みはあったが、どうやら不幸中の幸いで、崖も低く、やわらかな土の上に着地できたようで、致命的な傷は負っておらず、歩行に支障は無さそうだった。

 ふうと安堵のため息を吐く。先ほどまで回っていた視界も回復して、少し気持ちに余裕が出来てきた。

 もう一度落ちてきた方を見上げて状況を確認する。正直なところ今いる場所がどこなのか、さっぱりわからなくなっていた。方向感覚すらわからない。焦りが募る。痛みによる不快感や孤独に伴う不安、朝から抱いているサロアに対する正体不明の感情などがごちゃ混ぜになって一気に襲い掛かってくる。勝手に胸のあたりから湧き上がってくる、もやもやとするどす黒い霧をを頭を振って無理やり追い出した。今はそんな事どうだっていい。まずは帰る方法を探さないと。

 空を見上げ方角を確認し、とりあえず歩を進める。サロアと出遭った滝つぼ周辺の位置関係を考えれば、村に帰ることはそれほど難しいことではないはずではあったが、何かがおかしい。方角も分かっているし、森の中ではそれなりの経験もあって、まっずぐ歩くことは出来ているはずなのに、太陽が木々に隠れた瞬間に方角を見失ったり、気づけば全く見当違いの方角に足を向けている。

 そして俺はそれと同時に何か強烈な違和感も感じていた。崖から転げ落ちた影響だろうか。平衡感覚が曖昧で、真昼で霧も出ていないのに何か視界も霞が掛かったように感じる。

 ついに太陽が自らの寝床の方角へと傾きだして、俺の焦りと不安は頂点に達しようとしていた。このままではまずい。目的も果たせず、やみくもに歩き回ったせいで救助が来る可能性も少なくなってしまった。何とかしなくてはと策を巡らすが、どれも役に立ちそうなものが無い。ここにきて己の無力を痛感する。所詮俺は年端の行かないちっぽけな子供で、知識もなければエレナやサロアが持つような輝きもない、ただのそこらの小石に過ぎないのだと。

 足を止め、上を見上げる。鬱蒼とした木々の影が全てを覆いつくしていた。さっき転げ落ちたときの痛みがぶり返してじくじくと痛む。息も少し上がっている。限界が来ていた。俺はたまらずに近くにあった大木に背を預けそのままずるずると座り込んだ。

 目を閉じるとエレナの後ろ姿が脳裏に浮かんだ。それはそのまま振り返り、あの神々しくそして恐ろしくもあるような眼光をこちらに向けた。

 俺は彼女が言葉を無くしたとき、正直安堵した。当時幼かった俺には彼女が怖かったのかもしれない。エレナは行き場を失っていた。誰もが彼女の特殊な事情に触れたくないと思っていたし、当事者であるエレナの両親は罪悪感から、エレナには腫れ物を触るかのような、接し方しか出来ていなかった。

 当時の俺はそれを見て、何を思っていたのだろうか。哀れみ?同情?警戒?どれも違うようで正しい気がする。理由はともあれ俺は彼女に触れようと手を伸ばし、そして彼女はそれ受け入れた。

 それから俺たちは今までずっと一緒だった。時折、カロルやその他の大人たちが混ざって、そして通り過ぎていった。俺はエレナと共に時を過ごしながら少しずつ彼女を理解していった。彼女は本物だった。今では影を潜めているが、時折見せるあの眼光に、その都度俺は恐怖し、そして魅せられていた。

 エレナ自身は気付いていないだろうがその力は圧倒的だった。むしろ気付いていないことがその力の強さを証明していた。俺の勝手な推測ではあるが、一見エレナは自らの力を拒絶しているように見えてそうではない。彼女は、いや、彼女の能力は選択しているのだ、現在の状況を。

 彼女は俺の背中に隠れ、家族や村の皆と同じ速度で歩むことを望み、そしてその力はそれを叶えた。エレナの本当の姿はどこにあるのだろうか。あのすべてを見通す眼光も、俺に向ける柔らかな微笑みも、困ったようにこちらを見上げる眼差しも、機嫌が悪い時のむすとした表情も……俺には正解がわからなかった。

 でもそれも終わってしまうのかもしれない。

 もう一度エレナの横顔が脳裏に浮かんだ。素朴で控えめがちながらも整ったその横顔はこちらを向くことはなく、その視線は別の人物へと注がれていた。

 サロア――彼女は間違いなく特別で、そして恐らく同じように孤独だった。エレナを変えられるのは間違いなく彼女で、そして俺自身も恐らく……そうなることを望んでいた。

 目を開ける。何かが一瞬輝いた気がする。俺は無意識に手を伸ばし、歩を進めていた。草をかき分け、衝動に任せ進む。相変わらず平衡感覚は滅茶苦茶で、足元はふらふらしていたもののなぜか正解に向かっている確信があった。途中顔の横を枝がかすめ、一本の血の跡が頬を伝ったが俺には気にならなかった。

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