7.

7.

 妻と大熊の戦いを地面に這いつくばりながら呆然と見ていた俺は、森から出てきて娘に駆け寄った妻の姿を見てようやく我を取り戻した。

 ──情けねえ

 そう俺は心の中で呟いてから、妻と同じように娘に駆け寄った。駆け寄った俺に妻は困ったように視線を投げかけ、また心配そうに、エレナとつぶやきながら娘に視線を戻した。

 

 「私はこんなの知らない……違う……ごめんサロア……こんな……こんなの……私知らない……」


 娘は呆然とした表情でよくわからないうわ言を繰り返していた。どうやら旅人の死が娘に相当なショックを与えてしまったようだ、息が浅く顔の血が引いて蒼白になっている。精神的な負担からくる典型的な貧血の症状だ。


 「エレナ、大丈夫だ。これは夢だ。寝て起きたら全て元に戻ってる」


 俺は蒼白になった娘の顔の額を撫でながら、なだめる様にそう暗示をかけた。


 「お、父さん……?そうだよね。夢だよね。だってこんなの知らないもん……」


 娘は縋るように私に視線をよこした。その目には微かだが生気を感じる。


 「ああ、大丈夫だ。だから今はお眠り」


 俺は普段以上に繊細に娘の額を撫でてそのまま手を目元に持って行って、目隠しをした。娘は寝るときに妻か俺にそうしてもらうのが好きだった。

 娘はうんと言って、俺の手に自らの手を重ねた。娘自身も今は自分を騙すしかないことを理解しているのかもしれない。

 しばらくして未だ浅い呼吸ながら規則正しい寝息が聞こえてきた。無事眠りにつけたようだ。俺は慎重に自らに重なった娘の手をどかし、出来る限り動かさない様に服の下を確認して致命的な外傷がないか確認した。小さな切り傷や転んだ際の痣はいくつか認められたものの、これといった外傷はなく頭を強く打っていいる様子もなかったため、特に命に別状はないだろう。


 「エレナは無事だ。だけど俺は少しやることがある。このままだとその、良くないからエレナを連れて狩猟小屋に戻っていてくれないか」


 俺は引き続き心配そうに見守っているカレンにそう告げて、立ち上がった。良くないと濁したのは大熊の返り血が散乱して血の匂いが漂っている事以外に娘の精神にとって致命的な打撃が加わるかもしれない対象がすぐ近くにあるからでもあった。 


 「……うん、わかったわ」


 カレンはそういって慎重にエレナの体を両腕で抱き上げると、狩猟小屋の方へ向かっていった。

 まずは──

 俺はすぐ近くにあるもう一方に一瞬目線を向けたがそこではなく、少し遠くの木の幹の下で力なく横たわっている親友の元に向かった。イオリアは大熊に振り払われた拍子にかなりの勢いで吹き飛ばされていた。本来であれば意識のあった娘より、何も声を上げないこちらを優先すべきではあった。

 駆け寄って、まずは楽な体制に体を動かし、先ほどの娘と同じように服の下を確認して他に外傷がないかざっくりと確認した。見た感じこちらも大きな外傷は無いが、頭を何かにぶつけたのか前頭部にこぶが出来ている。しかしながら触診したところ頭蓋骨に異常もなく呼吸や脈も正常なため、一時的な失神であると判断し、無事なにごともなく目を覚ますことを祈りつつそのまま動かさず安静にしておくことにした。

 そして先ほど目線を向けたもう一人──恐らく普通に考えれば命は無いだろうもう一人。

 倒れてうつ伏せになっている旅人に近づいていく。辺りは大熊の返り血によって鉄くさい匂いが覆いつくしていた。倒れている人影もその範囲の例外ではなく、あんなに輝きを放っていた銀は、もはや誰のかもわからないどす黒い血液の色に染まっていた。

 無残な姿になった旅人の傍らに立って、見下ろす様に様子を見る。血によって染まった長い髪によって、大熊の尖爪に貫かれた患部は良く見えなかったが、位置的に胴体の中心、心臓の真下かそれをかすめるようにして貫かれており、通常の人間であればまず間違いなく命は無いだろう

 しゃがんで膝立ちになり、更に患部を観察するため、その長い髪をかき分けようとしたものの、それに意味はないだろうことを察して手を引っ込め、その代わりに遺体を仰向けにするために肩に手を掛けた。もし娘が求めれば最後の別れに亡骸を見せる可能性もあり、せめて顔だけは綺麗にしておく必要があった。

 手に力を入れる。俺はその時強烈な違和感を覚えた。いや、元から不自然なところは多分にあったがそれを目撃し、認めることを俺は恐れていたのかもしれない。俺は今、それを視覚以外の感覚から取得して、ついに認めざる負えなくなっていた。

 少し乱暴に遺体の肩と胴体に力を入れ、仰向けにする。反動で動いた首がこちらを向いてうつろな目が俺を捕える。俺は恐る恐る視線を、大熊に貫かれた胴体に持っていった。

 そう、それは綺麗なピンク色だった。人の臓物が持っている本来の色。そのあまりの美しさに人は本能的に畏怖の念を抱いてしまうのかもしれない。鋭く凶悪な爪に裂かれた白い皮膚も、無残に貫かれた筋繊維の一つ一つも、粉々に砕かれた脊椎も、衝撃によって抉り出された臓物も全てが美しく、そして――血液が一滴も流れていなかった。

 有り得なかった。人というものは、いや、地上の生きとし生けるもの全ては体中を流れる血潮によって生かされているはずである。人は体内の血液の循環によって生命を維持し、それが断たれれば死ぬ。だから人は心臓の鼓動を生命の証とする。これは医者でない物であっても知る当然の理である。だが――

 貫かれた旅人の損傷個所を見る。大熊の凶爪は旅人の胸部から腹部までを一直線に貫いていた。貫かれた心臓は一部が欠損しており、衝撃によって脊髄と背骨は粉々に打ち砕かれ、爪が引き抜かれた際にはいくつかの臓器が体外に引きずり出され、大きな穴となっていた。

 一部分が抉られ、欠損した心臓を見る。本来であれば血液が充填されていることによって真っ赤に染まっているはずのそれは、斑一つない綺麗なピンク色で、そして何より――


 「――生きてる」


 そう、それは未だ脈を打っていた。


 俺は限界を感じて急いでそれから顔を逸らした。後ろ手で地面に手を付き、湧き上がる吐き気を必死でこらえる。グロテスクさは一欠けらもなくむしろ美しいとさえ思うそれは、医者の心得がある自分自身であっても、いや、むしろそれがあるからこそ、恐ろしかった。血液を一滴も流さず、作り物のようでいて、しかしあまりにも生々しく脈動を打つそれは――むしろ全知全能の神が自らに似せて創り給うたとされる、人という種別に最も近い存在なのではないだろうか――


 「トマスさんそいつから離れて!!」


 鋭い警告の声に俺はぎょっとして振り返った。

 むくりと起き上がる影が一つ。俺は尻もちをついて後退った。

 うなだれた頭が少しずつ持ち上がっていき、片膝をついて体を支えるとそのまま足の裏を地面について立ち上がった。背筋が伸び、完全に頭が上がる。太陽の光を一身に受けたそれは、あまりに神々しく、先ほどまで大熊の返り血を受けてどす黒く染まっていた銀色の髪は全てが浄化されたかの如く、日の光を浴びてきらきらと輝き、そして何より、大熊に貫かれたはずの胸部は完全に塞がっていた。

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