6.2
村のはずれにある狩猟小屋は木造の三角屋根の二階建てで、それなりの大きさのある建物だった。向かって右側に狩人たちの宿泊するための母屋があり、左側には捕まえてきた獲物を解体するための小屋が併設されていた。
「ここだ」
私はそういって後ろを振り向き、自称旅人の様子を窺った。私の言葉に旅人はただ首を縦に振るのみの返事をした。私はこの旅人が発する声をまだ聞いたことが無い。もしかしたら言葉が通じぬのかそれとも口が聞けないのかもしれないと思ったものの、子供たちの話によればそんなことは無いはずである。
──何を考えている
不可解であり、不気味だった。その後ろに控えているトマスの顔も緊張からか、険しく額にしわが寄っている。
私たちはしばし沈黙の中にあったが、後ろ手にカレンの気配を察知し、私は意を決して交渉の場である狩猟小屋の扉まで歩を進めた。
扉を開ける。鍵は掛かっていない。なぜならこの隔絶された森の中でそんなちっぽけな抵抗はほぼ意味が無いからである。それは今の私たちの状況に似ているのかもしれない。
中に踏み入れるとぎいという音を立てて足元の木製の床板が我々を歓迎した。閉じられた空間の中に外の風が舞い込み、降り積もった埃が舞い上がる。中は比較的広々とした空間ながらも、壁に隣接された棚には狩猟につかう植物の蔓や木材、生活に使う諸々の食器などが所狭しと置かれていて、雑多で少々息苦しい雰囲気を醸し出していた。右手側には二階に続く階段、左手側の奥には更に他の部屋に通じる扉がある。
私は更に床板を鳴らしながら部屋の中央に主役のように居座っている長机に近づいて行った。この長机は我々が主に食事の時に使用していたものだった。それは巨木を適当に梳ってそれらしく見立て作られたもので、出来も粗悪で天板もごつごつとして使いづらく、その出来は仲間内でも不評だった。まさか村の生死が掛かっているこんな重要な交渉の場でこれが使われるなどと誰が思っただろうか。
私は奥に進んで部屋の隅に雑多に置かれている椅子を二つ掴んで、机をはさむように並べていき、それと同時にトマスは徐に窓の近くに行ってそれを開けた。私たちは淀みなく、かつ何気ない風を装って一連の作業を行っていたが、実はこの瞬間が私たちにとっては最も危険な状況だった。家の中なのでカレンの弓は届かないし、トマスが窓を開けるまでカレンには状況を伝える術がない。もし相手が攻撃を行うなら今が適切だろう。しかし旅人はその気配をおくびにも出さずに私が用意した椅子にそのまま素直に腰かけた。それを見届けた私は内心安堵しつつも同じく対面に用意した椅子に腰かけた。私が部屋の奥側で旅人が手前側である。トマスはそのまま窓際に立ったままだ。少々不自然な構図ではあるが別に意図がばれたところでもうこうなってしまったら腹をくくるしかないだろう。
「我々はあなたを歓迎します」
私は机の上に、組んだ手を置きそう第一声を投じた。汗ばんだ手に机に降り積もった埃がこびりつく。今回は余裕がなかったとはいえ、本来ならこんな状況で賓客と交渉しようものなら即決裂だろうなと心の中で苦笑した。
「しかし我々の村には宿屋などの設備もなく、また現在は使用できる空き家のようなものもないため、このような場所に案内させていただきました。まずは長旅でお疲れの中このような場所までご足労いただくことになってしまったことを謝罪させていただきたく存じます」
私は相手の主張に合わせて、旅人を歓迎する村長を演じることにした。この女が何を考え、その設定を主張しているかはわからないが、一先ずはこの要求を呑み、その素性を明かしていくよりなかった。
旅人は頷いたような気配を感じたものの大きくは動かず、そして無言だった。私は話を続ける。
「私の名はイオリオ・レーヴェン。この村の代表を務めている者でございます。私共にはあなたの訪問を拒絶する意図はありませんが、規則によりあなたにいくつかの簡単な質問をさせていただきますがよろしいでしょうか」
本来であれば規則のところには神々との盟約による何々という定型文が何個か入るはずであったが、私はかつて父親が旅人に対して行っていたそれらの決まり事をすっかり忘れてしまっていたし、何より異教徒であるだろう旅人にそれらの言質はそぐわないものはずだった。
しかし、私の言葉を受けてもなお旅人は無言だった。出来るだけ自然にふるまったつもりではあるが形だけを真似たそれではやはり無理があったのだろうか。
更に沈黙が流れる。
ふと空気の流れが変わったような気がした。
最初私はそれが人の声だとは認識できなかった。それほどにその音は澄み切っていて大気の流れに溶け込んでいた。
「ええ、その前に私も最低限の礼儀を示しましょう」
旅人のその声を脳内で認識するころには、目の前の人影は別のモノに変わっていた。
眩いばかりの銀、白く透き通る肌、灰色に濁る双眸。
私は身動き一つとれなかった。
旅人の後ろでぎいと鳴る音が聞こえる。トマスがたたらを踏んだ音だった。旅人が反射的に振り返る。その双眸に射られたトマスは何を思っただろうか。トマスも私と同じく身動きが取れなくなってしまった。
私はこの異常事態に対して、早く村人全員に避難指示を送らなければという理性とこのままこの輝きの中で溺れていたいという、本能にも似た感情がせめぎ合っていた。それほどまでにそれは美しかった。
フードを取って素顔をさらした旅人は、たったそれだけの行為でこの場の全てを支配していた。これは恐らく何らかの妖術に違いなかったが、旅人が素顔をさらしてから何らかの行動を起こせるような時間はあったはずであるのに、私たちは身動き一つできなかった。
時間が引き延ばされているような感覚に陥る。それは旅人が一度も瞬きをしていないからだと私はしばらくして気付いた。あるいは本当に時間が引き延ばされているのかもしれない。灰色の瞳が私を捕える。私にはそれから逃れられる術はない。ないのは間違いなかったのだが──
また時間が流れたような気がする。
私はいつしかその時間の中に安らぎを感じていた。その理由は私がその瞳に捕らえられた瞬間に私自身の中にあって、しかし私にはそれを認識できず、そして自らの理性がそれに気づいてはいけないと警告していた。
──認めてはいけない
少しずつ糸と糸が繋がって、形になっていく。そう。それは今は失われ遥か遠くに行ってしまった大切なもの。
──これは妖術に決まっている。
これは輝かしき在りし日の、一欠けら。
──姿かたちだって全然違うじゃないか。こんなんじゃない。
脳裏に浮かぶサギュリティアの花とその香り。
────
私はその濁った灰色の双眸に、在りし日の妻の、アイリスの一欠けらを見た。
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