6.1

6. 

 人の道とも獣の道とも見られる道なき道を、木に括りつけられた布を目印に進む。

 狩猟小屋へと続く道は、一年と経たずに森の生命力によって、そのほとんどを木々や草花に覆われて姿をくらませていた。

 手に持った鉈で道を切り開きながら進む。

 我々の教えでは地上は悪魔(サタン)によって悪で満たされている、もしくはその寸前だとされていた。これらの教えは妄言に思われるかもしれないが、我々は実際にそれらによって、さまざまな苦痛を経験し、虐げられてきた。エシェフにおける奴隷時代、ファリオン捕囚時代、そして現在におけるトーラス帝国による迫害の時代──これら私たちを苦しめ、虐げてきた者たちの裏に何者かが潜んでいると考えるのは、人間の思考的には当然の帰着であり、ましてや全知全能の神が創り、さまざまな試練を与えるこの地上で、意味のない理不尽など認められるはずがなかった。

 太めの蔓が長年の使用によって切れ味の悪くなった鉈の刃を食い止める。

 私はその蔓を切断するのを諦め、それを避けて進む。

 エルフの強大な力によって辛くも保たれていたと思われていた平穏もまやかしだったと判明した今、まさに我々にとっては悪の勢力によって満たされた時代といえるだろう。

 ちらりと後ろを振り向き、警戒心を持った目で後方を確認する。

 そんな世界でも我々には救いがあるとされてきた。救世主(メシア)の存在である。悪魔に満ちたこの世界をやがて救い、我々の住むこの地上を楽園へと導く役割を持って神に遣わされる。そう預言されているのが救世主である。

 トマスの前を歩く、フードを目深に被った大柄な男、いや子供たちの言葉を信じるのなら女性。彼女にとっては苦でもないのか、足場の悪い獣道も、丈が少し長いトマスの衣服を身にまといながらも、悠々と歩いている。

 彼女は救世主か悪魔か──

 やはり異様だった。体格は大柄といっていい部類の大きさで、背はトマスよりかは低いが、私より高い。全体のシルエットは外套に包まれ顔もフードを目深に被っているため、判然とはしないものの、子供たちの証言では女性であるということで、言われてみれば女性らしい体格の線を描いているようには見える。いずれにせよ帝国の魔術師である可能性を考えるのであれば、性差はあまり重要ではなく、どちらだったにせよ最大限の警戒が必要である。

 ──そして何より、この空気だ。

 かつての故郷で魔術師と対峙した時、同じような空気を身に感じたことがある。重く、体に纏わりつく泥濘のような妖しく、魔力に満ちた空気──

 前を向き、先ほどと同じく鉈で草木をなぎ倒しながら進む。生きた心地がしなかった。この鉈で道を切り開きながらの進行は、出来るだけ移動距離を縮め且つ移動速度を落とし、更に自然に武器を手にすることが出来るよう施した策であったが、じりじりとした進行は自らに永遠に続くかとも思える錯覚を与えさせ、私の精神と体力を想像以上に消耗させていた。

 たまらずもう一度振り返る。視界の端にほんの微かに動く草陰を認める。意識してなければ気付かない変化だ。もし、気が付いたとしても野生動物か何かの息遣いだと思うだろう。

 この狩猟小屋へと続く道のりには私とトマスと自称旅人、そのほかにもう一人同行者がいた。トマスの妻であり、エレナの母であるカレンである。

 トマスはもちろんこの同行には反対した。彼はこの任務で自らの命を捧げる覚悟をしていたし、その覚悟も彼自身にとっては妻と娘を守るためのものだったため、まさに本末転倒であることは間違いなかったのだが、対するカレンも一歩も譲らなかった。彼女も同じ気持ちだったからだ。

 母は強しというように、彼女の覚悟もまた頑なであり、またそれ以外でも彼女は強かった。具体的に言えばこの任務で彼女以上の適役は存在しないと村人全員に言わしめたほどである。

 その任務の役割は我々の後方で見つからない様に尾行し、道中で自称旅人が敵意を見せ、戦闘になった場合の交渉決裂の合図の発信を行うことである。そしてあわよくば死角からの狙撃により魔術師の暗殺を狙う役割もあった。

 彼女は村一番の弓の名手であり、特別大柄なわけでも無いわりに腕っぷしも強く、身体能力も並外れた才能を持ち合わせていた。単純な力比べであればさすがにトマスの方が上だろうが、狩猟の腕や戦闘においては恐らくこの村では右に出るものはいないだろう。もちろん魔術師の力は強大であり、それらの能力が通じるとは考えづらいが、不意打ち且つカレンの弓の腕前ならあるいはといった、淡い希望も皆の心に芽生えたことは間違いなかった


 「駄目だ。絶対行かせん」


 「いや!あんたこそ留守番してなさいよ。私より弱いくせに!」


 カレンは私と私の妻であるアイリスと彼女の夫であるトマスとは違い、一般の農民の出だった。彼女にとってはそれが負い目になっていたのだろう。彼女は私たちと対等の存在になるため、具体的な方策として“誰よりも強くなる”という解決策を取ることにした。正直なところたとえ誰よりも強くなったところで、身分の差は埋まらないし、そもそも私やアイリス、特にアイリスは友人として彼女を必要としていたし、トマスに至っては最初からカレンに惚れていたので、見当違いの努力だったのだが、彼女自身はそれに気づくことはなく、驚いたことに本当に成し遂げてしまった。

 戦闘と狩りの技術、そして自らの体を鍛え、村一番の戦士となってアイデンティティーを獲得した彼女はこうして度々トマスと“対等に話し合う”ことが出来ていた。

 かつて行われたやり取りを彷彿とさせる光景に、私は当時の郷愁とあまりにも苦すぎる記憶が混じりあう複雑な感情で眺めていたが、状況が状況なだけに私はトマスの意志を無視せざる負えなかった。いや、本当はあの日の自分と重ねて、たとえ命を落とす可能性があったとしても、二人は一緒にいて欲しいと思っただけかもしれないし、ただ私自身も道連れが一人でも多く欲しかっただけかもしれない。そういった気持ちがひとかけらもなかったとは言えないが、ともかく私はこの判断を下し、それを知ってか知らずか、最終的にはトマスは私の決定に同意し、カレンの同行を許可した。

 そしてこの人選にはもう一つ理由があった。

 もし、本気で魔術師の暗殺を行う必要があるのならばカレン以外にも伏兵を忍ばせておくのが理想だろう。実際にカレン以外にも戦える者はいるし、それに立候補するものも大勢いた。

 前を向き、進路を阻む草木を鉈で薙ぎ倒す。手の平が痛い。鉈を強く握りしめすぎて、豆が出来ているかもしれない。

 出発前の会議で自分自身を同行させてくれと強く要請していた少年──カロルの顔を思い出す。

 彼はかつての災禍を生き延びた者の中で最も年の若い少年だった。とりわけ、最も被害の大きかった村の中心地で生き延びた者は非常に少数であり、家という家が燃やされ、蹂躙の限りを尽くされたあの場所で幼い命が助かったのは、奇跡という他なかっただろう。

 しかし他の者から見れば彼は幸運だっただろうが、彼自身はそうは思っていないだろう。なぜなら、最も被害の大きかった場所で生き残ったのならばその分、どんなことが起こったのかも克明に見えていたということになるからである。

 恐らく彼が発狂しなかったのは当時はまだ幼くものの分別があまりついていなかったからだろう。彼の証言を聞く限り、彼の家族の内男は拷問まがいの残虐な殺され方をし、女は兵士たちの慰み者となった後にそのまま殺されたか、どこかに連れていかれたという。恐らく抵抗した者は殺され、それ以外の者は奴隷となって連れていかれたのだろう。

 彼は言いつけ通り、狭い隠し倉庫の冷たい石の間で声を出さない様に口を押えながらただそれをじっと見ていた。

 その後彼は、運よく崩れた瓦礫の中で子供の泣く微かな声を聞いた私たちによって救出された。瓦礫の間に幼い子人一人入れる隙間が出来ていて、助かったのは正に奇跡というよりなかった。

 成長したカロルは後悔していた。彼は成長していくにあたって、あの時何があったのか理解するようになった。あの時なぜ倉庫を飛び出し母親の元に行かなかったのか。

 しかし、その臆病さこそが彼が最も大切にするべきものだろう。彼の本能があの異常な状況で自らの声と四肢の神経を殺し、その体を助けた。それが彼の両親が我が子に送った最後の贈り物だろう。

 しかし彼がそれを理解出来るようになるにはもっと時間が掛かるのかもしれない。

 出発前の会議の中でこの、訪問者と直接対面をし、もし魔術師だったとしたならばこちらの全面的な降伏を前提とした交渉を行うといった内容の方針をカロルは最後まで認めなかった。

 徹底抗戦。それが彼の──いや、村人のほぼ半数の意見だった。

 私はあまり驚かなかった。むしろ私のこの決定に一番驚いていたのは、村人たちの方だったであろう。

 今回はカロルを筆頭にして、悲惨な過去を綴ってきたが被害者はもちろん彼だけではない。カロルと同じく親を見殺しにして為すすべもなく逃げるしかなかった者、狩りに出かけている間に家族を殺され、奴隷として連れていかれた者、戦いに赴いた恋人が、その意趣返しとして帝国兵に遺体をさらされ、帰らぬ者となった者──どの顔も隠し切れぬ復讐の怨嗟を抱えていた。そして他ならぬ私も。

 この村はそういった、立ち上がる気力さえ奪われた者たちが帝国への復讐心のみを原動力に生き延びてきた村である。私もその力を持ってして生き延びてきていたし、その情けない生き様が私を村の指導者として擁立させていた。

 村のなけなしの希望である私の及び腰の意見を前に場は怒りと絶望感に包まれていた。私は改めて訪問者が魔術師で無い可能性を強調し、──絶対あり得ないことであるし、誰も納得しないと思うが──エルフが出した使者である可能性なども考えられると発言したりなどして、半ば強引に狩猟小屋での交渉の機会を獲得したが、恐らく一部の村人の認識としては交渉の場は魔術師を油断させるただの陽動であり、依然として徹底抗戦の構えであることは間違いないと考えている事だろう。

 私としては当初の予定通りたとえ相手が魔術師で交渉が失敗したとしても、私たちがおとりになっているうちに、微かな希望を辿って戦闘員を最小限にし、山に逃げ込んで欲しかったところであるが、それは叶わず、もしかすると今日中にほとんどの村人が心中することになるかもしれない。

 自分自身の読みの甘さと無力さを痛感する。村の指導者といえど、ただ一度仮初めの力で魔術師を撃退したその功績と血筋で祭り上げられたただのお飾りに過ぎなかったというわけだ。

 村全体が復讐の怨嗟に囚われている。この鳥かごのような閉鎖された空間はそれを育てる場所としてはどうしようもなく適していた──

 またしても後ろを振り返り、トマスとカレンの存在を確認する。この二人も、そして私自身も、その中にいる。二人も私と同じならば、その感情は他の村人と同じかそれ以上だろう。

 私は議会の場で狩猟小屋を包囲するのが最適だろうとする案を、戦闘の準備を村で十分に整え、木の塀がある村で迎撃した方が勝率も上がるはずだとか、負けを悟ったとしてもできる限りの人命を山に逃がすための遅滞戦術としてはそちらの方がいいだろうとか、それらしい言葉を並べて撥ね退けた。さらに同行者を交渉に必要なトマスと戦闘力が最も高く、狩りも上手く隠密行動も得意だと思われるカレンに限定し、その他合図役として狩猟小屋へと立たせる人員を除いて、村に閉じこもるようにする案を提案し、何とかそれに同意させた。

 トマスが発案し至ったこの状況ながらも、決定したのは私だ。二人とも目の前で連れ立っているこの女が親友の仇であるかもしれないことを考えると、今すぐにでも背後から襲い掛かりたい衝動に駆られている事だろう。

 しかし私はこの二人の事をよく知っている。

 かつて四人で共有した秘密を思いだす。裏山の秘密基地の中で育った子犬は成長し、やがて森に帰っていった。

 共に過ごした長い時間と思い出がお互いの信頼の担保となっていた。

 私たちはまたしても同じような状況で同じ罪を共有し、同じものを守ろうとしていた。違うのは私たちは歳を取りその責任を自らが取らなくてはいけなくなってしまったことだった。

 ──苦しかった。過去は美しい思い出だけを残して全て壊されてしまった。一歩進むごとの足が鉛のように重い。

 帝国では政治犯には磔刑が処されるという。罪人は鞭で打たれたのち、自らが磔にされる十字架の横木を背負って町中を歩かされる。帝国に侵略された我が祖国では恐らく罪の有無を問わずそれが日常的になされている事だろう。

 罪のある私もまたそれを逃れることは出来なかったのかもしれない。背中に掛かる罪と責任が、重く十字架のようにのしかかる。

 なけなしの力を振り絞って目の前の草を掃うと視界が開け、ようやく狩猟小屋が見えてきた。あんなに到着を待ち望んでいたのに、今では躊躇う気持ちの方が強くなっている。しかしそれを後ろにいる自称旅人に悟られるわけにはいかなかった。なるべく速度を落とさない様に重い足に鞭を打って進む。今の私に出来ることはあの小屋が本当に処刑台にならない事を祈る他なかった。

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