4.2

 なんてことだ……

 さすがに私でもこの目の前にいる旧友の裏切りは予想出来ていなかった。

 胸中には様々な疑惑や感情が渦巻いていたが、しかしながら──


 「あ、おい!イオ!どうした、どこに行く!」


 「決まっているだろ!子牛がいる農場だ!」


 気が付けば足が動いていた。

 やりきれない思いが胸の内を占めていたが、こうなってしまっては一刻も早く現状を把握するより他に手はないだろう。

 走りながら、追ってきたトマスにその旨を伝える。


 「おい落ち着け。子牛の餌に薬を混ぜたのは昨晩だ。今から焦っても遅い」


 「うるさい。どうしてお前がこんなことをしたのかは知らんが、あそこの農場には世話係のギグスじいさんもいる。人の命が掛かってるかもしれないんだ!」


 「まあ、それはそうだが、それは今に始まったことじゃないし…第一、家畜に薬を一つやって村を壊滅できる毒薬なんて考えられん」


 「片田舎の薬師の言うことなんて当てに出来るか。それに相手は魔術師だぞ。疫病を作り出す毒薬だって作れるかもしれないじゃないか!」


 動物や人の死体などの不浄の物から悪霊が憑り付き、疫病を発生させ、それが村はおろか大きな町さえも壊滅させることは広く知られていた。魔術師ならばあるいはその悪霊と手を結ぶことも可能で無いとは言えなかった。


 「まあ、それはそうかもしれないが……そんなことが出来るならそもそも俺たちに勝ち目なんて──」


 後ろから聞こえてくる言い訳じみた声を聞きながら、疲労によってうまく回らない頭と足に鞭を打って走る。この後起こりうる最悪の事態にも具体的な対策が必要だったが上手く考えをまとめることは出来なかった。


 「よし……ここまでは、特に、異常はないな」


 私は上がってしまった息と心を落ち着かせるためにそういって立ち止まり、周りを見渡す。

 私たちは言い合いをするうちに、農場がある外壁近くまでたどり着いていた。目的地である農場は、塀に遮られて姿を見ることができない。

 この村の農場は塀の外に、山間であるこの土地のわずかな平地を占領するように造られていた。もちろん農場自体も塀で囲う方が安全性が高く、野生生物の妨害も受けづらいため、そうするのが理想ではあったが、少人数で常に人手不足である我々には農場を丸々塀で囲う余力は残されていなかった。

 私たちは農場にある厩舎に向かう前に、村と農場を隔てる塀の内側をまず異変が無いか見渡した。私にとっては問題の厩舎より、むしろこの場所こそが憂慮すべき場所であった。

 塀にはしっかりと閉じられた作物の搬入用の門があり、その隣にはギグスじいさんの暮らす、こじんまりとした木製の小屋が建てられていた。

 この木製の小屋は元々は門を監視する守衛のための駐屯小屋として建設されたものだったが、変わり者のギグスじいさんは、この駐屯小屋を母屋として暮らしていた。理由は彼が愛してやまない家畜のためである。

 当然のことながら家畜は、我々の生活に無くてはならない存在でありながらも、その管理にはあらゆる苦労が伴う。わかりやすいところで言えば臭いである。彼らが生活する上で発する生活臭は普通に暮らす住民にとっては耐え難いものであり、通常の生活では隔離されているべきものであった。

 しかしながら、ギグスじいさんはそれを許容しなかった。もっと正確に言えば、彼は家畜と共に塀の外で暮らすと言って聞かなかった。

 確かに先の襲撃では、彼と彼の家畜の居住区は村の中心地から離れていたために難を逃れたのだが、それは敵の侵入ルートとは真逆の位置に存在していたからである。もし位置関係が逆でそれらが単独で襲撃されていたらひとたまりもなかっただろう。

 意見は対立したが、私としても家畜の世話を彼より上手くできる人は存在しないと思っていたし、何より彼自身の仕事に対する高い意識と、家畜への愛を無碍にはしたくなかった。

 その結果生まれたが、この小麦畑に隣接する塀一帯の、倉庫および十分なスペースを有する搬入口である。

 それは村の規模に対して、通常より少々大きめに作られており、村のすべての食糧および備品などは全てこのスペースを利用して保管されている。さらには大きくとったスペースのおかげで、収穫した小麦などに行う脱穀などの作業をまとめて行うことが出来るようになっており、結果的に狙った以上の成果が、良好な作業効率として表れていた。

 また、それに伴って家畜小屋はギグスじいさんの要望通り、彼の暮らす予定である駐屯小屋に隣接して造られた。厩舎は、臭いなど様々な問題や効率面を考慮して、塀の外側に造られたが、駐屯小屋からは厩舎まで直通の裏口が作られており、ギグスじいさんはいつでも牛たちの様子を見に行くことが可能となっていた。

 そして、当初不安視されていた臭いの問題についても──これはあとから分かったことだが──奇跡的に立地場所が村の居住区に対して風下に位置していたこともあり、さほど問題にはならなかった。

 これらは非常に少数規模の我々の村だからこそ成立した事柄だったが、この村が作られて以来唯一といっていいほどの“良かった”といえる出来事だったために、これから起きるかもしれない“良くない”出来事がここから始まるかもしれないことを考えると、また憂鬱な気持ちにならざるを得なかった。

 そんな気持ちを抱えながら、何か異変が無いか警戒しながら駐屯小屋に足を向ける。

 幸いなことにこの一帯ではギグスじいさん以外は住んでおらず、他の村人はまだ誰もここを訪れていないようだった。

 駐屯小屋の扉の前に立ち、気持ちを落ち着かせる。

 ここには遠征用の装備や食糧も集められている。さらには自称旅人がやってきた方面とはちょうど反対方面に位置しているため、もし万が一の時にはここを出立の起点とする予定だった。

 しかしながら、この結果次第では全ての準備が水泡に帰す──

 小屋の薄っぺらい木のドアを叩く。いつも通りの家畜の生物的な臭いがした。


 程なくしてドアが開かれた。いつも通りのギグスじいさんだった。

 

 「ああ……何ともなかったか……」


 事を起こした張本人ながらも、やはり責任を感じていたのだろうか、トマスが心底安堵したようにそういった。


 「何ともないことあるめえよ。あんた、来てんだろ例の奴が。わしは逃げんぞ。もう子を置いて自分だけ逃げるのはこりごりだ」


 歳と恐らくこの非常事態の疲れからか、翁の声はしわがれていた。しかし、注意深く観察したところで異変といえばそれくらいで、今のところ特には変わった様子はなさそうだった。


 「……いや今回はそのことじゃないんだ。昨日こいつがここに来ただろ?」


 何ともない風を装って、私は親指の先で隣の男を指しながら尋ねた。


 「ああ、来たな。どうだ、お前さん何とかなりそうか。頼むよ、病気はわしでも何ともならん……まったく、生まれてくる子がすぐにいなくなるのは、いつになってもかなわん」

 

 「そんなことより、じいさんは本当に何ともないか?」


 私が取り乱してしまったせいかトマスは、過剰に罪の意識を感じてしまっているようだった。


 「おめえ、そんな事とはなんだ!このやぶ医者め、あのかわいそうな子牛よりわしの方が病気に見えるってえのか。」


 「いや……そういうわけじゃないが……」


 「じゃあ、なんだっていうんだ。お前の親父も大抵やぶだったがな──」


 「なあ、ギグスじいさん、少し牛の様子を見させてもらっていいか。今日は牛たちを使うかもしれん。それにトマスも昨日診た子牛が気になるようだからな」


 どうやらじいさんも本当に体に異常はなさそうだったし、正直なところこんなところで無駄話をしている時間の余裕などなかったため、わきから口をはさんで単刀直入に目的を告げる。


 「ああ、そういうことかい……そういうことなら使ってくれてもいいがあまり酷使させんでやってくれな。──お前さんもあの子を頼むぞ」


 「ありがとうじいさん」


 「……ああ」


 そういって私を見るじいさんの目は、いつものような頑なな意思を感じさせつつも、少し諦めのような色が見て取れた。

 子牛を託されたトマスも、その信頼をもうすでに裏切ってしまっているため、あまり歯切れのいい返事を出来ていなった。


 「よしわしも行くから待っとれ。鍵をとってくる」


 「いや、先に鍵だけ渡してくれ──まだ朝食の途中だろ?」


 私はこの扉が開いたとき、じいさんの肩越しに食べかけのパンがテーブルの上に置いてあるのを発見していた。


 「ああ、そうか。すまんな、じゃあ先に行っといてくれ」


 じいさんはそういって一旦家に引っ込むと、鍵を持ってきて私に手渡した。


 「ああ、わかった。でも朝食は急がず食ってくれ──ゆっくり食事が出来るのは今だけかもしれんからな」


 私が神妙な顔でそう告げると、彼は短くうんと言って扉を閉めた。

 建付けの悪いドアがぎいぎい音を鳴らせながら閉じる。


 私たちはそれを見届けると、無言で門の隣にある守衛用の出入り口に向かった。

 それはほぼ、ギグスじいさん専用の出入り口だった。人一人通れるくらいの小さな扉で、老体には少々骨が折れるだろう大きな門を開けずとも、いつでも家畜小屋の様子を見に行けるように設置されたものだった。

 私は一歩前に出て鍵を開ける。

 鍵は主に子供たちが勝手に村の外に行かないように拵えられたものだったが、結局この村は子供にはあの二人しか恵まれなかったので、ほとんど不要のものだったが、じいさんは律儀に毎回仕事をこなしていた。

 私は扉をくぐり、塀の外に出て周りを見渡す。

 収穫には程遠い青々とした麦穂が、決して広大とは言えないなだらかな傾斜の丘に横たわり、未だ山の陰に潜む朝の光をひっそりと待ちわびていた。

 続いて扉をくぐってきたトマスが、扉をしっかりと閉じたのちに口を開く。


 「やっぱ俺、あのじいさん苦手だわ……」


 「その割には随分と心配してたみたいだが」


 「まあ、そりゃあそうだろうがよ。じいさんは俺の親父と仲が良かったから小さいころから世話になってたし、何よりこっちは子牛のことでいろいろと負い目があるんだ。薬のこともそうだし、病気になった子牛を何も出来ずに見殺しにするしかなったこともそうだ──」

 

 「……そうか、だがあまり薬のことを悟られるようなことはするなよ。もし万が一このことが明るみになれば、ギグスじいさんより前に俺自身がお前を処断しなければならん」


 「ああ、分かったよ。だからお前もこれ以上俺を脅すのはやめてくれ。このままじゃいずれぼろが出る」


 彼は先ほど娘を守るためなら何を犠牲にしてもかまわないといったが、彼の言う通り何かを犠牲にしたからといって、何かを助けられるわけではない。何もかも失うことも、どちらも失わずに済むこともある。

 何もかも割り切って強い意志を持つことが正しいのか、割り切れず掬えるべきものを見逃さぬように生きるのが正しいのか、私自身も惑いの中にいることを彼の表情から自覚せざるを得なかった。


 私はトマスに返事ともつかない気の抜けたああ、という返事をしたのち厩舎に向かった。そろそろ歩を進めなければじいさんが朝食を食べ終わってしまうかもしれなかった。

 厩舎は木造の平屋でお世辞にも立派とは言えない代物だった。資材や労働力の不足から掘っ立て小屋のような風貌になってしまった厩舎は、ギグスじいさんの頑張りで、何とか厩舎としての体裁は保っていたが、冬は雪の重みで軋み、雨の日は雨漏りが絶ず、干し草も乾かないような状態では、劣化はさすがにいかんともしがたく、朽ちていくに任せる、そんな状況であった。

 まあ、最もそれは牛たちの暮らす厩舎のみならず、人が暮らす塀の中の建物であっても同じではあったのだが。


 「──開けるぞ」


 厩舎の両開きの扉は、一本閂がおろされているのみで、他に鍵などは掛けられてはいなかった。私たちが想定している侵入者は牛などには興味はないだろう。

 私の問いに後ろで頷くような気配を感じた。私は閂が外された扉を手のひらで押し開けていく。

 またか、と思わず私は心の中で嘆息した。たちの悪いびっくり箱を永遠に開けさせられているかのようだ。箱の中身が怖い。もう結果は決まっているはずなのに、得体のしれないものが後出しで結果を左右しているような気がして、私はその得体のしれないものに、知らぬうちに祈りを捧げていた。

 

 私は扉を完全に押し開け、恐る恐る内部を確認する──

 

 山の陰から日が覗き、建付けの悪い木の板の隙間から日が漏れ、牛小屋を照らす。

 果たしてその結果は、祈りが通じたのか、申し訳程度の柵で区分けされた部屋の中で、いつものように干し草を食み、のんびりと時を過ごす牛たちの姿があった。

 その景色ははあまりにも平凡で牧歌的な光景であり、むしろこの状況ではその光景こそが異常で、浮いた空間に見えた。

 その光景に呆気に取られている私を追い抜き、トマスはずんずんと奥に進んで行く。恐らく昨日の子牛を診に行ったのだろう。それに気づいて私も数歩遅れて後を追う。

 冷静になった途端急に、牛たちの独特の生活臭と息遣いが聞こえ始めた。やはり浮いていたのはこちらの方だったらしい。

 先に進んだトマスの後を追い、病気のため隔離された子牛の部屋に入る。

 

 「これは──驚いたな」


 トマスは屈んで触診をしていたが、彼の声は驚きで震えていた。


 「──どうした、トマス」

 

 私は診察の様子をしばらく見守っていたが、ついに耐え切れなくなって声をかけた。


 「ああ……治ってるんだ──完全に。ちょっと良くなったとかそんなんじゃない。完全に治ってる。それどころか多分この牛小屋の中でこの子が一番調子が良い」


 「なんだと……それは──そういったことは通常の薬でも起こりうることなのか」


 「起こらない」


 トマスは診察をやめ、立ち上がった。


 「俺の知る限り、そんな薬は存在しない。親父の作った薬でもここまで効果があったのはなかった」


 「そうか……」


 「これは間違いなく俺たちの知らない技術だ──恐らく魔術師の……」


 トマスの表情には恐れと同時に何か確信的な、計画したいたずらが上手くいったときのような少し興奮した表情が表れていた。嫌な予感がする。


 「お前何を企んでいる」


 「なあ、イオ、お前ちゃんと息子の話を聞いたのか」


 「──ああ、昨日あの子たちがどんな状況だったのかは想像がつく。とても危険な状況だった」


 言われて気が付いた。確かに私は息子の言葉を話半分で聞いていたのかもしれない。私は息子が連れ帰ってきた事柄の重大さに気を取られ、その行動に違和感を覚えながらも、当の本人がどんな意図をもって、どんな顔をして、それを伝えていたのか、とっさに思い出すことが出来なかった。


 「俺は驚いたよ。娘が話した出来事もそうだけど、俺はあの内気な子があんな風に誰かを説得しようとしているのは見たことなかった」


 「エレナが……?」


 トマスの言葉に私も少々驚きを感じていた。他所の家の子に言うのは失礼かももしれないが、トマスの娘は──彼自身とその妻のカレンの性格をよく知る私から言わせてもらえば──彼らから生まれて来たとは思えない程おとなしく、少し悪い言い方になってしまうが、自分自身の意志が薄弱だった。故に──


 「それは……あまりそんなことは考えたくないが魔術師に何かされた可能性があるんじゃないか」


 「ああ、俺もそう思って、いくつか関係のない話題の質問をして、いつもと違うところが無いか確認をした。──特に違和感を覚えることはなかった」


 「そんなこと言ったって、魔術師に何かされたのだったら、そんなことしたくらいで分かるもんではないだろう」


 「ああ、それはそうだな。だからお前の息子にも話を聞きにいった」


 「いつの間に……」


 「すまん。こっそり裏の窓から──」


 とっさに私は文句を言おうとしたが、思えば昨日の夜は自分の事ながら、とても冷静に話が出来るとは言いづらい状況で、トマスが全てを詳らかに語っていたのなら、事態はさらに拗れていたことだろう。


 「いや、こちらこそすまない。続けてくれ」


 「おう──率直に言って、ロビンもいつもと同じではなかった」


 「何だと!」


 私はその言葉を聞いて急に不安に駆られ、今すぐにでも家に足を向けたくなった。

 しかし、トマスは食い掛るような私の詰問を受けても未だ冷静だった。


 「まあ、落ち着け。いつもと同じではなかったというのは、なんというか、いつものあの子らしくなかったてことだ……まあ、その、あの子はいつも冷静で理路整然としているだろ?」

 

 私は頷いた。話が見えてこない。


 「だがあの時は、普通の子供だった。普通の子供のように上手くまとまらない感情や考えがあって、それであの子自身途方に暮れていたように見えた」


 「…………」


 私は昨日確かに息子と言葉を交わした。しかし私はまともに取り合わなかった、それはなぜか。

 それはあの子の説明があまりにも胡乱だったからだ。

 私の立場からみれば、息子の言う、着るものも無い流浪の旅人だとか、薬がどうとかいう話は聞く価値の無い、ほら話だった。

 私は昨日の夜を思い出す。

 ……息子自身もそれを理解していたように思える。


 「それが、俺にとっては至極まともに見えた。あの子はお前の反応を見て、何かいけないことをしたと思っていて、でも感情として自分とエレナのわがままを通したいと思っているようにみえた。実際にエレナが自分に素直になってこんなことを言うのは珍しいから、叶えてやって欲しいともお願いされた」


 「──それではまるで、野良犬を拾ってきた子供みたいな……」


 「ああ、俺たちも昔同じことをしたよな」


 過去の記憶にあるそれは、薄汚れた灰色の子犬で、額には生えかけの角が生えていた。その犬種は一般には人に懐かないものとされていて、結局飼うことは許されなかったが、その子犬のいたいけな瞳と、それを見つけてきたカレンとアイリスの期待と不安のこもった目は今でも思い出すことが出来た。


 「──だからと言って、それが魔術師が仕組んだことではないとは言い切れないだろう」


 「まあ、そうだな……」


 トマス自身も少し困っているようだった。

 私自身もそれと同様な感情に行き会っていた。理論的な思考は警告音をしきりに鳴らしているのに、空気はひどく緩慢で日常的だった。

 牛の鳴き声と、それが発する生物的な臭いが鼻についた。

 

 「正直に言うと、根拠はない。勘だ。俺から見て二人とも正常に見えた。それだけだ」


 トマスは開き直ったようにそういって、膝元で、口さみしかったのか、ズボンを甘噛みしている子牛を、たしなめるように手のひらで撫でた。


 「それに魔術師はどうやら、この薬をちゃんと親に届けるように言い聞かせたらしい。薬を子牛に飲ませたいだけなら子供にそのまま飲ませるようにいうべきだろ?」


 ここに至ってようやくトマスの行動に合点がいった。いや、根拠は勘だし浅はかな行動であることは間違いないのだが、それにはやはりもう一つ重要なファクターがあった。


 「──エレナはやはり、あの訪問者を信頼しているのか?」


 私の問いに、トマスは浮かない顔でううむと唸るように肯定した。


 「ああ、そりゃ熱心に。まあ、元がああ大人しいから、他人が見たらわからんが、俺とカレンが見る限り相当だ」


 「……そうか」


 私はしかめ面でそういうトマスを少し気の毒に思った。


 「まあ、そうなると、本当に魔術師では無い可能性も出てきたな……」


 「それは──どうなんだろうな」


 トマスは子牛を視線を送り、引き続き撫でながらそういった。確かにこんなことが出来る存在は、魔術師以外他にないだろう。


 「──外の世界から来た存在である可能性は」


 「はは、お前がそんな事言うとはな。相当焼きが回ってるな」


 遥か最果ての海の向こうには神々が暮らす理想郷があるとされていた。もちろんそれは神話というより、おとぎ話に近いもので、何より我々の教義にはそぐわないものでもあった。


 「ああ、すまない忘れてくれ。そうかエレナがか……」


 これには子供の戯言の一言で切って捨てられない、少々変わった事情があった。

 エレナには少し変わった、いや特別な能力といっていいものを神から授かっていた。

 彼女がもっと幼く、ようやく読み書きが出来るようになったころ。彼女は神童と呼ばれていた。そう、ロビンではなくエレナが。

 今では信じられないが、エレナは当時どんな難しい論理の問題も、複雑な大人ですら間違える算術の問題も瞬時に答えを出すことが出来た。

 ロビンも優秀ではあったが、エレナは次元が違っていた。恐らく彼女は元から答えを知っていたのだ。神が与えたギフト──そうとしか言えなかった。

 しかし、ある時事件が起こった。

 その日は安息日で、私たち家族とトマスの家族は、ともに私の家で休暇を過ごしていた。──トマスとカレンは私の妻であるアイリスの件でロビンに寂しい思いをさせないよう、出来る限り共にいようとしてくれていた──その中でエレナは唐突にこう言い始めたのである。


 「どうしてロビンのお父さんはお父さんじゃないのにお父さんなの?」


 端から見れば幼児特有の、意味不明な発言であるが、それは真実だった。

 

 「ううん、ロビンのお父さんはこいつだよ。イオリア、イオリアおじちゃん」

 

 焦ったトマスはエレナをなだめるようにそういった。だが──


 「ううん違うよ。だってねロビンのお父さんはね──」


 「エレナ!!」


 トマスがものすごい剣幕でエレナに迫り、しかりつけるように声を張り上げた。

 普段娘に対しては少々甘すぎるほど温厚な彼が、このように声を上げるのは初めてのことだったのだろう。しかし、彼は娘が言わんとしたその後の取り返しのつかない言葉と、娘の尋常ならざる力を直観的に予期し、それを無理やり止めた。

 場が一瞬凍り付いた。

 その場にいる誰もが、一瞬前の団欒がもう二度と帰ってこないことを理解していた。

 耐え切れなくなったエレナが、ぎゃんぎゃんと声を上げて泣き出した。

 取り乱して必死で娘をなだめるトマスと、複雑な顔をしながら同様に娘をあやすカレン、そんなトマスからエレナをかばうように寄り添うロビン、そしてそれを別の世界を眺めるように見る私──

 絵画の一枚のようなそんな光景を見ながら、私の疑惑は確信に変わった。

 彼女は全ての真実を見通しているのだと──


 それからエレナは少しずつ変わっていった。

 彼女は全ての真実を見通す能力を持っていたとしても、ただの一人の女の子だったのだろう。

 まず、彼女は言葉を話さなくなった。

 後日トマスは、悔いていた。彼はあの事件の後娘に、あのことは他の人にはしゃべらないように厳命した。

 エレナはわからなかったのかもしれない。何が言っていいことか、何を言ってはいけないことか。それは全てを見通す彼女でもわからないことのようだった。


 言葉を話さなくなったエレナをロビンは事あるごとついて回って助けた。

 エレナもそれを受け入れているようで、見ているこちらとしては、その姿に欠けたものが元に戻る希望を抱かずにはいられなかった。

 しばらくして、その希望が叶い、またエレナが口を利くようになった。

 しかしながらその代償として、驚異的な演算能力や物事の真理を見通すあの底知れない雰囲気は失われていたようだった。そして、内気で滅多に自分の意見を言わない大人しい子に育っていった。

 それに伴って、エレナはますますロビンに依存的になっていった。

 最初はロビンがエレナについて回っていたのに、今では逆にどこに行くにもエレナがロビンについて回っていた。

 それを私たちは歓迎するべきか、否かは答えは出ていなかったが、実の母であるカレンが言う通り「こっちの方が安心はする」という意見には同意だった。


 「──消えてない」

 

 しかしながらとある夜、実の父であるトマスはしかめ面でそう漏らした。やはり実の両親には分かるのだろう、カレンもそれに同意し、現在でもエレナが真実を言い当てる場面に遭遇するといっていたが、それと同時に、普通の女の子のように本当に知らないと思われることや、気の抜けたミスも多くあることから、以前より鳴りを潜めているのは間違いないようだった。しかし──


 「ああ、だから俺は今回はあの娘の願いを叶えるべきだと思う。わからんがこいつを見てそう思ったよ」


 木の板の隙間から漏れ出た太陽の光に反射した埃が、雪のように舞い散る牛小屋の中でトマスはそういった。彼は娘の能力と己の勘を信じるようだった。

 トマスはもう一度子牛を頭を撫でた後に、また膝に食いつこうとするそれを引きはがして出口に向かった。


 私にはわからなかった。

 トマスは彼なりのやり方と手順、そして勘でそれを確かめ、決断を下し私に迷いを与えた。

 それは破滅へと一直線に向かうこの村から娘を救うために彼が起こした謀だろう。そしてその第一段階は見事に成功していた。

 ──私は迷っていた。

 彼はあえて、薬について多くを語らなかった。恐らく本当に未知の薬品なのだろう。

 この先、この子牛がどのような結末を迎えるのかは、現状それを知り得るのはこの薬を渡してきた自称旅人のみである。

 彼女は何者だろうか。

 少なくとも魔術師かその手先、もしくはそれに近しい特別な力を持った存在であることには違いないだろう。そうでなければこの厳しい環境に囲まれたこの村に辿り着くことはできない──

 ただひたすらに可能性だけがあった。

 魔術師内部で分裂があった?そうであったとして、それは味方になり得るか?そもそもこの一連の出来事が私たちを苦しめる為だけに仕組まれた余興に過ぎないものである可能性は?やはり今からでも全てを捨てて、山に入り、新たな道を探した方が生存率が高いのでは?

 私にはわからなかった。しかし決断は私が下すしかない。


 「おう、じいさん……」


 「──話は終わったかの」


 部屋の外でトマスとギグスじいさんの声がした。どうやら時間を掛けすぎてしまったようだ。

 ギグスじいさんはその後何も言わずに部屋に入ってくると、元気になった子牛に近づき、腰をかがめるとその額を愛おしそうに撫でた。


 「じいさん……その……」


 「トマス」


 私は言い訳がましく声を上げたトマスの次の言葉を止めた。


 「ふむ、元気になっておるな。さすがアサフの息子だわい」


 「ああ」


 トマスは絞り出すように返事をした。


 「それとイオリア。他の牛たちは元気そうだったろ、お前に任せるぞ」


 「ああ、任せてくれ」


 じいさんはどこから話を聞いていたのだろうか。私の喉からはトマスと同じような声が出ていた。


 「とりあえずわしは牛たちの飯と掃除をやるからの、一旦出て行ってくれ」


 そういって、私たちは牛小屋から追い出された。

 

 厩舎の扉の前でぽつねんと取り残された私たちは、どちらからともなく歩き出し、お互い無言のまま帰りの路についた。

 両者ともその路を得も知れぬ罪の意識と、重くのしかかる責任を抱えながら歩いた。

 もし、トマスとその娘の勘を信じるのであれば、訪問者は我々を破滅の未来から救う一筋の光であり、私たちはその光によって、子供たちの未来を紡ぐことが出来る。しかしそうでなければ、村は終焉を迎え、私はみすみす魔術師から逃れられる、本当に細い最後のチャンスをふいにし、あまつさえそれの手引きをした大犯罪人となる。

 あまりにもリスクのある賭けだった。

 厩舎からの道のりは、大きな重圧を抱えながら歩くには、長すぎる道のりではあったものの、私はその道が永遠に終わらぬようにと願わずにはいられなかった。

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