第4話 手のひらの稲作
ヴィオレッタの部屋の窓際に、大きなドライフラワーが吊るされて飾られる。
異国の風を感じさせるドライフラワーの中から、ヴィオレッタは黄金に輝く稲の実だけを丁寧に採取する。
片手に乗るだけの、わずかな種籾。
小さな粒の中に眠る無限の可能性に、ヴィオレッタは胸を躍らせた。
これを発芽させ、苗にして、育てるのだ。
(成功すれば、ご飯が食べられる……!)
秋が終わり、冬が過ぎて、そして春が来る。
十一歳になったヴィオレッタは、ついに決行することにした。
失敗して全滅してしまうと目も当てられないので、まずは三分の一を使用することにする。
(思い出すのよ、ヴィオレッタ……前世のわたくしには稲作の経験があったはず。小さなバケツで、でしたけれど……)
ヴィオレッタはまず用意した鉢に浅く水を張って、種籾を浸す。
毎日様子を見て、きれいな水に交換して、一週間後に細い芽が出てきたときには世界の創生に立ち会ったような気持ちになった。
芽が出れば、今度は土に植えることになる。
ヴィオレッタが庭に出て、土の準備をしようとしていると、兄オスカーがやってきた。
「なにやってるんだ、ヴィオ」
「土づくりです。バケツに土と水を入れて、苗床をつくるんです」
「ふーん」
小さなスコップで庭の土を掘り返し、ブリキのバケツに入れていく。
そのとき、黒々とした土の中にいる虫を見つけてヴィオレッタは思わず後ろに引いた。
よい土の中には必ずいるという、うねうねとした細長い虫――土虫。
硬直しているヴィオレッタの前で、オスカーがその土虫を素手で摘まんだ。
(え? このお兄様、本気?)
土虫を手づかみするなんて。
呆然としているヴィオレッタに向けて、オスカーがにいっと笑う。
そしてヴィオレッタに向けて、ぽいっと土虫を投げた。
「きゃああああああ!!」
ヴィオレッタはスコップを投げ捨てて、悲鳴を上げて逃げる。
オスカーの愉快そうな笑い声が後ろから聞こえる。
「お兄様のいじわる!」
充分距離を取って、倉庫の影に隠れながら、ヴィオレッタは叫ぶ。
「虫嫌いを克服しないと農業なんてできないぞ」
「うっ……」
悔しいがそのとおりだ。
植物に虫は付きものだ。
怖い、嫌だ、と言っていても何も解決しない。
「まあ、虫はそのうちなんとかなるさ」
「本当ですか?」
ヴィオレッタは身を乗り出す。
植物と虫の好きな兄のことだ。虫がこない方法を編み出してくれるのだろうか。
「山ほど湧いてくる敵から、大事な苗を守らなきゃならないんだ。嫌でも慣れる」
「やだー!」
「黒鋼鴉(レイブン)に乗りたいなら、エサも直接やらないとダメだし。こいつをバケツ一杯に詰めてだな――」
「やだー!」
土虫に耐えながらバケツに土を入れて、水を張ってよく混ぜて、ひたひたの土ができたところに芽の出た種を植えていく。
オスカーも興味津々のようで、ヴィオレッタの隣でそれをずっと見ていた。
準備がすべて終わると、網をかけて小鳥に食べられないようにする。
そして祈る。
(ちゃんと育ちますように)
それからは毎日何度も確認し、水が減っていたら水を足した。
植えた中の三割は無事根付いたようで、ヴィオレッタは心の底からほっとした。
緑色の葉が出て、すくすくと伸び始めると、あとは順調だった。
毎日何度も見て、虫がついていたら二本の棒で摘んで必死に取った。
オスカーは稲の様子を毎日記録し、スケッチしていた。
新しい植物――それも妹がやけに執着している植物、というのはオスカーにとっても興味深かったらしい。
そうしているうちに夏が訪れ、稲はどんどん伸びていく。
やがて小さな花が咲き、ヴィオレッタは感動に打ち震えた。
毎日毎日せっせと水をやった。
花は無事に受粉し、実がつき始めた。
実はどんどん膨らんで、少しずつ穂先が垂れていく。
季節が進むたびに穂先と葉の色が黄金色に染まっていき、柔らかかった実が硬くなっていく。
――ブリキバケツ稲は、成功した。
光を受けながら風に揺れる稲穂の姿を、ヴィオレッタはオスカーと共に見つめた。
「お兄様のおかげです」
「いや、ヴィオががんばったんだろ。やるな、お前」
実の様子を確認して、問題なさそうだったので鎌で切って収穫する。
その後は乾燥させる必要がある。
量が少ないので、藁をいくつかまとめてドライフラワーのようにして、ヴィオレッタの部屋の異国土産のドライフラワーの横に吊るした。
充分乾燥したところで、今度は穂先から実を取り外していく。脱穀という作業だ。これは古い櫛を使い、髪を梳かすようにして藁から実を外した。
全部で両手いっぱいほどの実が取れた。
――少ない。けれど、最初よりはずっと増えた。これは大きな第一歩だ。栽培して増やせることが実証されたのだから。
(ついに、お米が食べられるのね!)
次は籾殻を取らなければならない。
すり鉢とすり棒を厨房から借りてきて、テーブルの上でゴリゴリと擦っていく。
ある程度擦り終わって息を吹きかけると、外れた殻がふわりと浮いて飛んでいった。
(ここまできて、やっと玄米……)
道のりが遠い。
小麦然り、穀物を食べられるようにするのには手間がいる。
米を量産化するときには、効率よく作業ができる道具も考えなければ。
――次は精米だ。
米を瓶の中に入れ、すり棒でつく。つく。ひたすらつく。
しかしいつまでたっても白米にはなりそうにない。
糠は少しずつ出てきている気がするが。
ヴィオレッタは疲れ切って、机に突っ伏して大きく息をする。
「これ以上やると割れてしまいそう……とりあえずはこのくらいでいいか……」
白米には全然届かないけれど、ひとまずここまでにしておく。
「さあ、いよいよ炊飯よ」
片手に乗るくらいの量の米を握りしめ、ヴィオレッタは厨房へ向かう。
――ここで、非常に重大な問題が出てくる。
こんな少量の米を炊くような調理道具がない。
仕方ないので料理長に一番小さな鍋を借り、米をよく洗ってから水を張って吸水させる。
一晩水につけると、かなり膨らんできた。
(焦がしてしまうより、ポリッジ……いえ、お粥にしましょう)
ミルクで茹でるポリッジではなく、水で茹でるシンプルなお粥にすることにする。
流石にかまどを使うのはヴィオレッタには無理だった。
料理長に頼み、焦がさないようにだけ気をつけて茹でてもらう。
――そうして、一時間後。
「できましたよ、ヴィオレッタお嬢様」
「ありがとう!」
白い皿に、白く濁ったスープが注がれる。そこでは茹った米がふよふよと浮いていた。
やさしい香りは、稲穂と同じ香りだ。
ほんの少しだけ塩を振り、スプーンですくって食べる。
じんわりと、じんわりと、あたたかいスープを味わう。
「おいしい……」
感動の涙が零れ落ちる。
この一皿のお粥が、ヴィオレッタの人生を切り開いていく――それほどの衝撃だった。
「ヴィオレッタお嬢様……よかったですね……」
何故か、料理長も感動しているようだった。この家の人間はみんな、ヴィオレッタが奇妙な植物を熱心に育てていたことを知っている。
「お、できたのか」
匂いに引かれたのか、オスカーも厨房にやってくる。
そしてヴィオレッタに一言の断りもなく、お粥を一口食べた。
「……なんだこれ? 味がないし、粘り気が気持ち悪い。べちゃべちゃだし、芯があるし」
「お兄様は食べなくていいです!」
ヴィオレッタはお粥をオスカーから奪い取り、覆いかぶさって死守する。
「あっ、コラ! 誰のおかげだと思ってるんだ!」
「わたくしががんばったからです!」
――そうして、初めての稲作、初めての精米、初めての調理は無事成功したのだった。
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