第2話 転生令嬢の目覚め
――ヴィオレッタ・レイヴンズは転生者である。
自分でそのことに気づいたのは十歳の時だった。
晴れた初夏の日、ヴィオレッタは庭のバラ園で珍しいつぼみを見つけた。
不思議に思って触ってみると、それは花のつぼみでなく、ピンク色のイモムシだった。
ヴィオレッタは声なき悲鳴を上げて、後ろに転んで頭を打って、その衝撃で思い出した。
(わたくし……前世は日本人だったわ!)
転んで見えた空は青く、まさに青天の霹靂だった。
痛みよりも前世を思い出した衝撃でぼんやりしていたヴィオレッタは、慌てる使用人たちにすぐに部屋に運ばれて、医者に手当てをされ、ベッドに運ばれた。
(日本……のどかで、田んぼが広がっていて……いまの季節は稲の緑がきれいで……)
ベッドの上で寝転びながら、水田の光景を思い出す。水の張られた田に青い稲がすくすくと伸びて、風が吹けばきらきらと光って揺れる。小麦畑に少し似ていて、違うもの。
とてもとても遠い記憶だ。
そして薄い記憶だ。
小さいころに見た領地の風景と同じくらい――いやそれよりも記憶が薄い。思い出せるのはぼんやりとした映像ばかりで、自分がそこにいたという実感がない。
なにせ、前世の自分の名前すら思い出せない。
家族のことも、どうやって死んだのかも。
ヴィオレッタとして生きて十年。その間の記憶で、前世の記憶は塗り潰されてしまったのかもしれない。
なのに。
(――お米……)
水田の風景に引っ張られたのか、ご飯の味はしっかりと思い出せた。
炊き立ての白米。おにぎり。匂いに、食感に、甘さと満足感。
(お米、白米、ライス……!)
残念ながらこの世界は小麦が主食だ。
米など聞いたこともない。
だが、思い出してしまった。白米の味を。香りを。
思い出してしまえば、もう忘れることができない。
本当に存在しないのだろうか。いいや、世界は広い。世界のどこかに存在している。きっと。絶対。同じものでなくても、せめて似たようなものを。
「こうしてはいられないわ」
ヴィオレッタはベッドから起き上がると、頭に巻いてあった包帯をスルスルと外す。
周囲にいたメイドたちが慌てだす。
「お、お嬢様。まだ寝ていないといけませんわ」
「もういたくないから大丈夫よ。ぶつけただけで怪我もしていないわ。お医者様もそう言っていたでしょう?」
するりとベッドから下りる。
「お母様のところへいってくるわ」
ヴィオレッタは駆け足で母の部屋へ向かう。
部屋のベッドの上では、ヴィオレッタの母が座って本を読んでいた。
ヴィオレッタに気づいた母は、驚きの表情を浮かべる。
「ヴィオちゃん、もう大丈夫なの?」
「平気です。転んだだけですもの」
ヴィオレッタは明るく言って、母のベッドへ向かう。
母は心配そうに菫色の瞳を揺らし、おろおろと金色の髪を揺らした。
「お母様、稲作というものをご存じですか?」
「いなさく……?」
「小麦に似ているのですけれど、水を張った浅い池のようなところで栽培するんです」
「あらまあ、ヴィオちゃん。栽培だなんて、難しい言葉をたくさん知っているのね。オスカーに教えてもらったの?」
「えっ、ええっと、お兄様にではなくて、本で……」
――前世の記憶を思い出したなんて言えない。
しっかりと思い出したのならともかく、あまりにも朧げで。うまく話せない。
(前世の思い出しても、ほとんど変わらないと思っていたけれど……言葉遣いが変わっているなんて)
自分では気づかなかった。
「まあまあ。ヴィオちゃん、本でお勉強をしたの? ヴィオちゃんはとってもおりこうさんなのね」
細い手でやさしく頭を撫でられて、ヴィオレッタは嬉しいような恥ずかしいような気持ちになった。
それと同時に、そのあまりにも細い手首が心配になった。
元々病弱だった母だったが、ヴィオレッタの二歳年下の妹ルシアを産んでからはますます弱々しくなったという。
ほとんどの時間をベッドで寝ていて、食が細いため身体は細く、肌は雪のように白く、いまにも消え入りそうなほど儚げで――……
(……白すぎではないかしら?)
白いを通り越して、もはや青い。
そして母からは、甘い匂いが漂っていた。砂糖と、クリームの匂い。
「お母様、またケーキを食べてらっしゃるの?」
「ええ、そうよ。ケーキは大切なお薬だもの」
「でも、いつもケーキばかりですよね?」
「いまはこれくらいしか食べられないのよ」
困ったように笑うが、本気で困っているようには見えない。
母は家族と食卓を共にしない。肉も、魚も、野菜も食べない。ステーキも、スープも、フルーツすら。
いつもケーキだ。毎食ケーキだ。
お薬と言っているが、ケーキばかり食べるのはよくない気がする。とてもする。
あまりにも偏食が過ぎる。
(……これで、健康になれる?)
毎食ケーキだけを食べて、一日中ベッドで寝ているだけだなんて、どう考えても健康に悪い。
いままでは疑問にすら思っていなかったが、前世を思い出した影響だろうか。
記憶はほとんどないけれども、知識は蓄えられたままなのか。
前世の知識が叫んでいる。
――不健康、と。
「ヴィオちゃん? どうしたの、難しい顔をして」
「お母様、今日はとってもお天気がいいの。お庭でいっしょにお散歩しましょう?」
ヴィオレッタはにっこりと笑って、母の手をぎゅっと握った。
「あらあら。甘えん坊さんね。でも、ごめんなさい。お母様、今日は疲れているの」
「お母様と一緒にお庭を歩きたいの。お願いです、少しだけでいいですから」
「……ふふ、少しだけよ?」
母はゆったりとしたドレスに着替えて、つばの大きな帽子をかぶった。ヴィオレッタも帽子をかぶって、手を繋いで庭を歩く。
「あら。
青い空をゆったりと、大きなカラスが飛んでいる。
とても大きなカラスで、背に人が騎乗して操っている。
「わたくしも早く乗ってみたいです」
ヴィオレッタもうっとりとして黒鋼鴉を見上げる。
レイブンズ家には鳥類と心を通わせる異能があり、馬に乗るように鳥に乗ることができる。騎馬を操り平原を駆けるように、騎鳥して空を飛べる。
自分も早く空を飛んでみたい――そう思いながら庭を歩く。たくさんの花が咲き、たくさんの小鳥たちが住み、楽園のような光景が広がる庭を。
「――母上」
庭にいた金髪の少年が、ヴィオレッタたちを見て驚いたように立ち上がる。
「まあ、オスカー」
「お兄様」
眩い金髪に、菫色の瞳。母に似た顔立ちの少年はオスカー。ヴィオレッタの兄で、三つ年上。
頭がよく、運動神経がよく、次期伯爵として父も母もおおいに期待している。
「母上、歩き回ったりして大丈夫なのですか?」
「ええ、今日はとっても調子がいいの。オスカーは何をしていたの?」
「虫と植物の研究を……」
「まあ、オスカーはおりこうさんね。お母様にも教えてくれる?」
「はい!」
オスカーの顔に喜びが広がる。
その様子を、ヴィオレッタは微妙な気持ちで見ていた。
ヴィオレッタは虫が苦手だ。
先ほど転んで頭を打った時も、虫をつまんでしまった驚きのあまりだった。
レイブンズ家たるもの、鳥たちのエサでもある虫の扱いにも慣れなければならないのだが、怖いものは怖い。苦手なものは苦手。
できるだけ虫に近づかないように、母と手を繋いだまま少し後ろからついていく。
オスカーは生き生きと庭の植物について母に説明していく。聞いてもらえるのが嬉しくて仕方がないといった様子だった。
「オスカーは本当に物知りねぇ。ふう、それにしてもいいお天気ね」
青かった肌がわずかに紅潮し、軽く汗ばんできている。
「お母様、わたくし喉が渇きました」
「あら、ヴィオちゃんも? そろそろ休憩しましょうか。オスカーもいらっしゃい」
そうして庭の散策は十五分ほどで終わる。
庭に面したテラスのテーブルで、冷たい水とあたたかいお茶、そしてジャムの乗ったクッキーで、妹のルシアも混ざって簡単なお茶会を行う。
母は幸せそうに微笑みながら、執事のジェームスに声をかけた。
「ジェームス、今日は子どもたちと一緒に食事をしたいの。わたくしの分も用意してくださる?」
「奥様、もちろんでございます」
執事は驚いたようだったが、それをほとんど表には出さず、やや涙ぐみながら頷いた。
その日の夕食時。
「身体を動かした後の食事はおいしいわ」
母は美味しそうに、よく煮込まれたスープを飲んでいた。他の食事はほとんど残してしまったが、それでも少しは食べていた。
その光景に、ヴィオレッタは達成感を覚える。
(軽い運動と、栄養たっぷりの食事。これを少しずつでも続ければ、いまより健康になれるはず!)
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