第44話 ウトゥって、誰ですか

 神宝式から五日後の、初冬を迎えたウルクの下町地区。木枯らしが吹き抜ける通りを足早に行き交う人々の中にあって、休業中の睡蓮亭の周りだけは今だに多くの地母神教徒たちが群がって熱心に祈りを捧げている。


 神宝式以降、昏睡状態だったアンナは、アサグの魔法治療後少しずつ快方に向かい、ようやく会話が出来るまでに回復していた。ベッドの傍らでは、アンナの母親がずっと付き添って看病している。


「お父ちゃんがかぼちゃのスープ作ってくれたよ。食べられるかい?」


 ようやく半身を起こしたアンナに、無理しなくていい、と言いながら母はスプーンにすくったスープを冷ましながら差し出す。


「…うん、やっぱりお父ちゃんのスープ、おいしいね」


「本当に美味しそうね」


 そう言ったのはアンナのベッドに陣取っていた、白いイタチに変化へんげしている精霊リリスだ。母親が苦笑いしながらスプーンを差し出す。


「甘くて、優しい味ね。私もこの味大好きになりそう」


 そうイタチが言うとアンナが微笑んだ。


「ようやく笑う元気が出てきたのね。もう大丈夫、かな」


 リリスは神宝式でアンナの魔力を開放した時、アンナの魔力の大きさを見誤っていた。自分一人で制御できるはず、と高を括っていたのだ。魔力開放前のこの少女に、魔法の才能は感じなかったので無理もない。


 だが、魔晶石を体に埋め込んだ瞬間、アンナの体の内外から一気に魔力が雪崩れ込んできた。心の奥底から噴火するように、体の外側から吹き付けるように、少女の体に魔力が溜まっていった。その魔力は千八百年近く生きた魔人である自分どころか、悪魔大公であるアサグをも凌ぐ莫大な量だった。


 当然リリス一人で制御する事など出来ない。アサグの治療と、ウトゥの決心が無ければアンナは間違いなく死んでいただろう。リリスは両者に深い恩義を感じ、決意を新たにしていた。


 この少女は私などよりはるかに尊い存在だ。

 私の命を犠牲にしてでも、守り貫かねばならない。


 他方、母親はアンナの回復に安堵しながらも、神宝式前の幼さの残る姿から一気に成長娘に一抹の寂しさを感じていた。


 治療のためと説明を受け納得もしたが、自分の娘の時間を奪われたような感覚は拭えない。大切な青春のひとときを、想い人との大切な時間を失ったのではないか、美しく変貌した自分の娘の寝顔を見ながら答えの出ない問いを考え続けていた。


 スープを食べ終え、母が濡れたタオルでアンナの口元を拭っている時、誰かがドアをノックした。


「おかみさん、アッドゥ子爵家のサラ夫人がお見えです」


 神宝式後、睡蓮亭には、貴族や教会関係者、町の有力者など客が引きも切らず訪問するので、誰も通さないようにしていた。

 だがどうしても会って詫びねばならない人がいる。ウトゥの事を頼まれていたアッドゥ夫妻だ。


 神宝式後、ウトゥは姿を見せていない。教会前で一悶着あったらしいとだけ人づてには聞いていたが、生死を彷徨う娘を抱えて、ウトゥを探す余裕は無かった。


 通すように告げると、ドアが開いて、サラが花束を抱えて入室してきた。


「アンナさん、お加減はいかが?」


 母親が立ち上がって、一礼する。イタチは素早く毛布の中に身を潜めた。


「こちらから伺わなければいけないのに、御足労いただきしまして」


「大変だとは聞いていたのだけれど、ウトゥの事が気になって。ごめんなさいね」


 母親はウトゥがまだ顔を見せていない事を話すと、サラの顔は曇った。


「…あなた方の責任じゃないわ。責任は、あの子を押し付けてしまった私達にあるんだもの。アンナさんが大切なのも当然だし、気にしないでね」


 サラが気丈に振る舞うのを見て、母親はよりいたたまれない気がした。


 神宝式でのウトゥのトラブルの噂を聞いて、アッドゥは直接教会に出向いたが、何があったのか誰も語ろうとしなかった。もちろんそれ以降の足取りも掴めなかった。血縁者ではないので、冒険者ギルドや自警団に捜索願を出すのもはばかられる。ただ、待つほかなかった。


「仕方ないわね…。待つしかないのよ」


 サラがベッドわきの椅子に腰掛け、アンナに語りかけた。


「アンナさんも、ウトゥのこと、心配でしょうけど…気にしないでね」


 サラの何気ない一言に、アンナは怪訝な顔をして、答えた。


「…ウトゥって、誰ですか?」


 その言葉にその場にいる全員が喫驚した。母親は目を丸くしてアンナに詰め寄った。


「神宝式のとき、おそろいのペンダントをして、手を繋いでたじゃないか、忘れたのかい?」


「嫌だあ、あの時手を繋いでたのはお母ちゃんだったよね、いやお父ちゃんだったかな…」


「おまえ、昔こっそりウトゥが好きだって、お嫁さんになるんだって教えてくれたじゃないか、覚えてないのかい?」


「…今まで好きになった男の子なんていない、はずだよ、あたし」


 とぼけているようには見えない。唖然とした母親は、たまらなく不安になった。目の前の娘が、自分の娘でないような気さえして、震駭した。

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