第40話 下町地区外縁、イーシュラにて

 下級悪魔となったウトゥは、深夜の下町地区の路地裏をあてもなく歩きながら、右肩に乗る蠍のアサグに闇魔法の前段、黒魔術を教わっていた。


「それじゃあ麻痺パラライズの間、意識はあるんだね?」

睡眠スリープはどのくらい深いの?突っついたら起きちゃうの?」

「デバフを相手の心に直接かける事はできないの?敵の戦意を削ぐ事はできない?」


 ウトゥの好奇心は留まることを知らない。

 だがアサグの眼には、ウトゥが今日起こってしまった全ての出来事を忘れようと必死にもがいているようにも映った。


毒魔法ポイズンの能力はどこまで下げられるの?」


「下げる?上げるのではなく?」


「人に害がなく、体に付いたシラミやダニだけ殺せるかも、と思ったんだけど。浄化の代わりに使えないかなと思って」


「そんな魔法に何の価値がある?お前はもう悪魔なんだぞ」


 アサグはため息をついて、呆れたように言った。


「自分の欲望の赴くまま、自分自身のためにそのちからを使っていいんだぞ。お前が欲しいものは何だ?…もちろんあの娘以外でだ」


 自分の欲しいものを問われて、ウトゥは返事に窮した。

 アンナ以外で、か…。今まで食べていくのに、生きていくのに精一杯でそんな事を考える余裕も無かった。伝説の英雄にも、偉大な冒険者にも魅力を感じた事は無かった。

 アッドゥ子爵家での十日間は満ち足りたものだったが、空腹とは無縁の悪魔の体と、アサグというこれ以上ない魔導士の指導を得られる今もまんざらではない気がする。


「…わかんないや。むつかし過ぎるよ」


「フフッ、それがお前らしい答えやも知れぬな。時間はたんまりとある。差し当たりそれを探すのも良かろうて」


 蠍のアサグは、そのはさみでウトゥの頬を軽く小突いて、笑った。


 路地の暗がりをしばらく歩いていると、ウトゥは何かにつまづいてよろけた。

 何だろうと目を凝らすと、上等な服を着た男が路上で眠りこけている。酔っ払いかと思ったが、酒の臭いはしない。


「おじさん、風邪ひいちゃうよ。家に帰りなよ」


 すると、後ろから、


「無駄だよ、そのオッサン、俺のクスリキメたばっかだし」


 振り向くと、用心棒を従えた、こじゃれた服をまとった丸いあばた顔の少年がこちらを覗き込んでいる。ウトゥの見知った顔だ。 


「…おまえ、もしかして、ウトゥか?」


「イェレじゃないか!久しぶりだね!」


「本当だな。でも何でこんな所にいるんだ?ここはイーシュラだよ」


 イーシュラ。スモークス・ピークスそばにあるスラムで最も危険な場所だ。銀貨一枚で平気で人を殺める者達や、底辺労働者相手にわずかな金で春をひさぐ娼婦や男娼がはびこり、人身売買や児童誘拐の組織がのさばる。汚辱と悪徳が蠢く、鬼哭啾啾たる場所だ。チンピラだったウトゥの父親が、ウトゥに口酸っぱく近づくなと言い聞かせ、ウトゥはその言い付けを守って今まで訪れた事がなかった、そんな横丁だ。

  

 イェレはこの横丁に住むウトゥの親友だ。娼婦だった母親は、年の離れた弟ラウムを産んだ時あっけなく死んで孤児になった。ウトゥより遥かに悲惨な境遇の中、イェレは持ち前の愛嬌を武器に、時には自分の体さえ売物にして、汚物と屈辱に塗れながらも弟を育て生き抜いてきた。ウトゥはどん底の境遇でも、いやどん底の境遇だからこそ明るく笑って前を向くイェレが大好きだった。

 だが、久しぶりに会った友は、自分の記憶とは明らかに違う印象だ。


「せっかく会えたんだ。この近くに俺のアジトがあるから来なよ」


「アジトって…」 


 自分の大好きなイェレとの違いに戸惑いながらも、ウトゥはその誘いにのって、彼の後に付いて行った。


 


 

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