※スピンオフ・おまけ① 創造主の逃亡
『昨夜午後九時ごろ、東京都千代田区の迷宮庁舎に突如新たなダンジョンが出現しました。先日の全世界生配信、通称ダンジョンマスター事件との関連が疑われますが、迷宮庁は未だ正式なコメントを出しておりません......』
逃げる。
逃げる、逃げる、逃げる。
髪がほどけて振り乱れる。
香が汗で流れ落ちる。
振袖は取り上げられ、灰色のスウェットを着せられている。
手元には一銭もない。
少年は、酔った人の群れが蔓延る深夜の繁華街を走り抜けて、住宅街の公園で一夜を過ごす。
何かから逃げるのは、ずいぶん久しぶりだった。でも、コツは嫌というほど体に染みついている。
一晩中走るのも、固い床で眠るのも、かつての少年にとっては日常だった。あの時と違うのは、夜間であってもパトカーのサイレンや暴走バイクのエンジン音が遠くから響いてくることか。東京は、随分と物騒な街になった。
「......僕は、神だ」
彼は呟く。
しかし、内心ではわかっていた。勝負に手抜きはなかった。己の持つすべての力を費やして、それを、あの人間たちに上回られた。
再戦したとて、勝ち目はない。
神は、堕ちた。
それは彼の長い長い人生の中でも、初めてのことだった。
朝の日差しで目が覚める。
筋肉痛で痛む脚をさすり、少年は再び歩き出した。
目的地は決まっていた。東京は港区、竹芝埠頭。
千代田区からはそれほど離れていない。少年は人影から隠れながらではあるが、朝のうちに辿り着くことができた。
ここから、ジェット船に乗り込む。
金などないが、この時代の人々の警戒心などたかが知れている。その気になれば、紙切れ一枚など簡単にすり取ることができた。
「あれ? 君、ひとり?」
受付の女が、訝しげに聞いてきた。それからチケットを見て、くすりと笑う。
「君、これ大人用だよ。お父さんとお母さんは、どこにいるのかな?」
そうか。今の僕は、少年の姿をしているのだった。
苦々しく思いながら、女からチケットをふんだくる。あ、と声を漏らす女を尻目に、少年はその場から逃げ去った。
どうする。
一度ダンジョンの中に入れば、見た目を変えるのは造作もない。だが、一番近くのダンジョンまでは距離があるし、この姿でダンジョン内に入るのは目立つ。
「こんなことで、この僕が......」
思わず苦笑する。先ほどのスリ行為といい、とても神の所業とは思えない。
両手に手錠をかけられて狭い部屋に押し込められて以来、数百年かけて忘れ去った自分の矮小さを、再び思い出させられているような心地になる。
結局、数十分粘った後、子供用のチケットをすり直し、何食わぬ顔で受付に見せた。受付が二人体制だったから助かった。ずいぶん不審な目では見られたが。
ジェット船でも三時間強の長い船旅。かつてあの島から東京に降り立った時は、ほぼ一日がかりだったことを思えば、ずいぶん早くなったものではある。
昼過ぎになって、ようやく島に辿り着いた。
東京都心から約180㎞。伊豆諸島のひとつ、神津島である。
港の人影はまばらだった。いくつかの自然遺産的な観光名所を除けば、観光客が喜ぶものなど何もない島だ。
この島に帰ってくるのは、三百年ぶりだろうか。ずいぶん近代的な家屋や建物が並んでいる。道路が整備され、自動車なんかが走っていて、かつての面影などまるでない。いい思い出のない島だから、少しほっとする。
彼は神社に向かって歩き出した。もう喉がからからだった。
坂を上り、神社の手水で喉を潤す。すると、今度は腹が鳴る。
「......旅の方ですかな」
呼び止められ、振り返る。
薄い白髪の老人が、にこやかな笑みを浮かべていた。少年の姿を見て、旅人だと思うとは。耄碌しているのか、奇特な人間なのか。少年は少し警戒しながら、それでも老人の招きに応じ、境内に入る。
「ちょうど昼時ですね。大したものではないですが、よかったらどうぞ」
老人はゆったりとした口調で話した。膳には味の薄そうな料理が並んでいた。精進料理というほど凝ったものではなく、短時間でできるだけ多くの品をさっと作った、という風情だった。味わう暇もなく、米を腹に入れる。
「......訊かないのか。僕が何者か」
「ええ。訊きません」
老人はやはり穏やかな口調で答えた。
木々が風で揺れる。少年はすべての食事を異に入れ終えると、立ち上がった。
「助かった。礼を言おう」
「いえいえ」
そのまま立ち去ろうとする少年の背中に、老人は声をかける。
「本土は今、大変なことになっているようですね」
「......知っているのか」
「テレビくらい観ますよ」
どうもいけない。
時代の感覚がおかしくなることがある。確かに、現代であればこの離島にもテレビの電波やインターネット回線くらい、当たり前に届いているだろう。
少年は歩み出しかけた足を戻した。
「......あなたはもしかして、
「その名は?」
「この島に代々伝わる、伝説に名を残す方でございます。あの金ツ穴を造ったといわれる」
少年は、のんびり話す老人に背中を向けたまま、ぼそりと呟く。
「......そうか。まだ、伝わっていたか」
「とはいっても、私のような物好き以外は、まともに信じてはいませんがね。この島もあの金ツ穴のおかげで、周りの島よりずいぶん発展しました。本土でいくらでもいい思いができるのに、この島の習わしなど、どうして憶えるでしょうか」
そう踏んで、ここに来たのだ。
追手から逃げるには、誰も知らない離島の方がいい。かといって、土地勘のない場所はよくない。
とっくに僕のことなど忘れたであろうこの島なら、隠れるのにちょうどいいと思った。それに、ダンジョンが近くにあるのがなおいい。
神津島の中心にそびえ立つ天上山を見上げる。
そのふもとにある大きな洞窟、金ツ穴。はるか昔に、この穴を造った時のことを、今でも鮮明に思い出せる。
あんなものを造らなければ、僕はただの人として死ねた。堕ちた神となった今とどちらが幸せだっただろうか。
「まだ、僕の名を知る者がいたとは」
コップの茶を啜る。この時期の島は潮風で身体が冷える。温かい茶は心地よく胃に沁みていった。
老人は親切だった。この島の人間は、皆、優しかった。
でも、皆、僕を裏切った。
少年はふう、とひとつ息を吐くと、振り返り、何の警戒もしていない老人の喉元に手をかけた。
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