第199話 狛、大いに惑う

「う…うぅ、うっううぅ…!」


 狛は抱き留めてくれた京介の腕の中で泣いていた。恐怖、安堵、喜び、悲しみ…どうしてここに京介がいるのか?次から次へと様々な感情や疑問が溢れ出して制御が利かない。あれだけ涙を流さず、抵抗しようと気を張っていたというのに、一度泣いてしまうと、もう涙は止まらないようだ。


「……よく頑張ったね、もう大丈夫だ」


 京介はそんな狛を抱えて背中を優しく撫でてやった。京介の手が触れた所から、じんわりと心地良い温かみが広がって、狛の身体がどんどん楽になっていくようだ。狛のぐちゃぐちゃになった思考も、その温かさがほぐしてくれるような気さえする。

 

「良かった。来てくれたか、京介…」

 

 壁になっている猩々しょうじょう達の前で、幻場まほろばがそう呟く。その時、目の前にいた猩々達の身体が突然燃え上がってあっという間に消し炭になった。振り返れば、そこには人の姿をした猫田が立っていて、魂炎玉こんえんぎょくを傍らに浮かべている。


「どうやら間に合ったみてーだな。驚いたぜ、外で戦ってたら突然京介の奴が出てきてよ。……しかし、まほろさんよ、京介から聞いたぜ。ったく、アンタは相変わらずだな」


「気付いたのか、。言ったろう?色々事情があったと、私はもう、よ」


 苦笑しつつ、幻場はそう語る。猫田はやれやれと肩をすくめてみせた後、すぐに走って、切り落とされた緋猩の左腕に捕まっている人質の女性を助け出した。これでもう、狛達が後れを取る事はない。

 

「ぐうう…!おのれ、よくも…よくも儂の腕をォッ!!」


 一方、両腕を失った緋猩だが、その眼はまだ戦意を失ってはいなかった。むしろかつてない程の怒りに震え、京介を睨みつけている。だが、既に配下の猩々や狒々ヒヒ達は全滅している。緋猩には戦う力など、ほとんど残っていないはずだ。


「観念すんだな。猿の親玉如きが、ずいぶん好き放題やってくれやがって……借りは返すぜ」


 猫田は人質になっていた女性を後ろに下がらせ、緋猩への怒りを露わにした。外でもかなりの犠牲者を見たが、先に行った京介を追って研究棟に入ってみれば、中は地獄のような有り様であった。人間をこうまで弄んで殺す妖怪など、猫又である猫田であっても許せるものではないらしい。

 それは少し遅れて隣に立った幻場も、狛の治療を終え、倒れているアスラにも回復魔法ヒールをかける京介も同様である。緋猩の殺戮は到底看過できず、許す事など出来はしない。しかし、これだけの怒りを向けられても、緋猩は一切怯む様子を見せなかった。まるで、まだ奥の手があるかのようだ。


「むううぅぅ…かくなる上、は…ッ!ム!ムオオ!ゴガアァァァァァァッ!!」


「な、なに!?」


 驚くべき事に、緋猩の肩から左右に一本ずつ、新たな腕が生えてきた。それは、先程切り落とされた腕とは全く違う、歪な肉の塊のような腕である。元々あった腕は黒い毛皮に覆われていたが、新しい腕にはそれがない。ただ、元の腕よりも一回り以上太く大きい極めてアンバランスなものである。しかも、変わっていくのはその新しい腕が生えただけではない、身体全体が凄まじいスピードで膨れ上がり、とても猿とは思えない異形へと変化していっている。


「ヤバイ…!避けろっ!」


 猫田が叫んだのは、緋猩の足に、異常な程の力がかかっていたのが見えたからだ。は、猫田の叫びを合図にするかのように、狛と京介、そしてアスラのの方へ突撃していく。


「くっ…!」


 京介は咄嗟に、アスラと狛を抱えたまま、転移魔法で空間転移テレポートをする。直後に緋猩の巨体が廊下を駆け抜け、あっという間に廊下の突き当りから窓ガラスを破って外へ飛び出していった。ほんの僅か数コンマ判断が遅ければ、狛達は突撃に巻き込まれて潰され、ひしゃげた死体になっていたに違いない。

 

「今のは危なかったな…大丈夫かい?」


「うぅ…ぐす、はい」


 ようやく落ち着き始めた狛が京介の腕の中で答え、アスラもようやく意識を取り戻してきたようだ。京介が一安心して前を向くと、猫田と幻場がそこにいた。


「すまない猫田さん、助かったよ。しかし、ヤツはどこへ?」


「外だな、窓をぶち破って飛び出して行きやがった。追おうぜ」


 猫田の言う通り、緋猩の妖気は建物の外から感じられる。急いで追いかけようとしたが、狛は京介から中々離れようとせず、その足が止まってしまった。


「あー…狛ちゃん?そろそろ離してもらえってもいいかい?」


「あ……ご、ごめんなさい!」


 そう言われて正気に戻った狛は、顔を真っ赤にし慌てて京介から飛んで離れた。名残惜しさは感じるものの、今はそんな事を言っている場合ではないのだが、離れた途端、京介の腕に抱かれていたことが気になりだして胸のドキドキが止まらなくなっている。


 (な、なにこれ!?京介さんの顔がまともに見れないよ…それにさっきからドキドキして死んじゃいそう!)


 自分でもこんな時に何を言っているのかと思うのだが、身体は一向に落ち着いてくれそうにない。それどころか、ほんの数秒…いや、数十秒の内にもう京介から離れた事が悲しくなって、その背中に抱き着きたい感情に駆られていた。

 せっかく涙も止まって考えが落ち着いたはずなのに、今は頭の中と胸の内が別人のようにバラバラで、完全にめちゃくちゃである。


(ヤダ、どうしよ…自分が自分じゃなくなっちゃったみたい)

 

 内心パニックになる狛だったが、状況は最悪である。どうにかして心を落ち着かせなければ…そう焦れば焦るほど、胸の高鳴りは止まらずに強く主張をする一方だ。どうにか平静を装っているお陰か、猫田や京介達は気付いていないようだが、アスラは狛の異常に気付いている。ソワソワと何度も狛の表情を確認して、心配そうにその手をペロペロと舐めてくれた。


「アスラ、ありがとう。大丈夫だよ……っ」

 

 アスラを抱きしめながら、よせばいいのに視線は京介を追ってしまう。その癖、まともに顔が見られないのだから困りものだ。ほんの数分前まで、あれほど恐怖に苛まれ絶望しかけていたはずなのに、今はまるでそれが嘘のように浮かれた心で一杯になっている。これが吊り橋効果というものだろうか?ここに至って、狛自身も京介に対する思いをハッキリと自覚したようだが、本当に今はタイミングが悪すぎるのである。


 先を行く猫田達の後ろで赤くなったり青くなったりと、百面相のように顔色を変え、狛は一人で困惑している。なんとか緋猩が飛び出していった窓際まで来たその時、大きな爆発音と地鳴りのような音が響いて、研究棟の建物が揺れた。


「な、なんだっ!?」


「…爆発だ、隣の建物からみたいだが」


 京介が窓から外を覗くと、実験棟から火の手が上がっているのが確認できた。火災と緊急事態を報せるサイレンが鳴り響いている。それに気付いた幻場が、慌てて窓から身を乗り出した。


「実験棟が…マズいぞ、あそこには実験用の霊石がかなり保管されているはずだ」


「まさか、あの緋猩ってヤツ、その霊石を取り込む気か?!」


 霊石は、基本的に霊気を増幅させる効果があるものだが、妖気を使う妖怪にとっても一応の効果はある。霊気と妖気は、陰と陽で区別されているが、基本的に同じようなエネルギーだからだ。猫田や狛の纏う九十九つづらのように、妖怪でありながら霊力を使う妖怪がいるのも、その力に互換性があるからである。

 そもそも、霊石の正体は長い時間を経て寄せ集まった魂の欠片が結晶化したものだと言われている。魂というのは、生物の精神、その奥深くにある根源的なエネルギーだ。それが生命として生れ落ち、死んであの世に還っていく…そのサイクルの中では時として残滓がこの世に残る事がある。そのエネルギーの欠片が塊となって集まったものが霊石である。生物の死体が、長い年月をかけて石油に代わるようなものと思えばいいだろう。


 そんな霊石を妖気を扱う妖怪が手にするとどうなるか?若干ならばさほどの問題はないだろうが、大量の霊石を妖怪が取り込めば、その力は一時的に増幅されるものの、やがて反発しあって自滅する。それ故に、妖怪達の多くは霊石を嫌い近づくことはしないのだ。

 緋猩はそれを知った上で、霊石を取り込もうとしている。敗北を目前にして最後の大勝負に打って出た形だ。


 その内に、再び大きな爆発音がして、実験棟から巨大な影が姿を現した。元の形など見る影もないそれは、奇怪な叫び声を上げて立ち上がるのだった。

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