第198話 再びの男
「あ、ああ……」
「た、助け…うぅっ」
「クッククク…よくもまぁやってくれたものだ。大した力ではあるが、所詮は人間の小娘よ。己の足を引っ張る無力な同類など見捨ててしまえばよかろうに、そう割り切る事も出来ん。そのせいで皆死ぬ事になるというのに…なぁっ!」
「うっぐう、ぁ…!!」
緋猩はゆっくりと立ち上がり、空いている手で思いきり狛の腹を殴りつけた。動きを封じられている狛は満足に防ぐことも出来ずにそれを食らい、会議室から一気に外の廊下まで吹き飛ばされてしまった。廊下の壁に激突して止まったものの、相当なダメージだ。さっき狛が与えたラッシュで緋猩が弱っていなければ或いは、今の一撃で勝負がついていたかもしれない。
「狛君っ!?」
「ウウウゥ!!」
吹き飛ばされてきた狛を目の当たりにして、
「散々手こずらせてくれたのだ、楽には殺さん。この儂に楯突いた事を後悔するがいい!…ああ、抵抗しても構わんぞ?その代わり、この女は死ぬがな!」
狛の前に立った緋猩は、ニヤニヤと笑みを浮かべて人質にした女性の首を絞める力をほんの少しだけ強めた。女性の呻くような苦悶の声が聞こえるだけで、狛は一切抵抗する気になれず、ただ立ち尽くすしかない。そんな狛の様子に満足したのか、緋猩は拳を振り上げ、再び狛目掛けて振り下ろした。
「かっ…!ぁっ…ぁ…く」
「フッ、ハッハハハハ!そうだ、その顔だ。やはり人間の苦しむ顔は堪らん!苦痛に歪むその顔を見れば、少しは溜飲が下がるというものよ!グハハハハハ!」
緋猩は高笑いをしながら、更に続けて弄ぶように、攻撃を狛の身体へと叩き込む。その度に狛の表情は苦痛に歪み、その命が削られていくのが目に見えて解るようだった。
数分後、何度も何度も攻撃を受けた狛は血反吐を吐いて、遂にその場へ崩れ落ちそうになった。しかし、側近のように付き従っていた猩々二匹が、すかさず狛の両腕を掴んで支え、倒れ込む事さえも許さない。辛うじて狛の意識は残っていたが、その口から洩れるのは、血と嗚咽のような呻きだけだ。
「おうおう、いい様になったではないか。そろそろその首を千切り取って、槐様の元へ届けてやるとするか。…いや、待て、待てよ」
緋猩はその手に付着した狛の血を舐めとりながら、しばし何かを考え込んでいるようだ。数十秒の沈黙の後、妙案を思いついたとばかりに、その大きな口を歪に開いて笑った。
「そうだ、貴様には儂の子を産んでもらうとしよう!ククク、そんなになってまで人を助けようというお前の血を分けた子が、人を殺して食らう新たな猿妖となるのだ。これほど屈辱なことはあるまい?ガハハハ、そうだ!それがいい!今だけでなく今後何百年と楽しめるぞ!」
「っ…!?」
その宣告を聞き、狛の全身からさっと血の気が引いていった。猛烈な不快感と怖気が身体中を巡って、ドッと冷や汗が流れ出てくる。なんと悍ましい事を考えつくのだろうか、戦いながらそれを聞かされた幻場も、人質になっている女性職員でさえも、嫌悪感で顔を歪ませていた。
そうして、筆舌に尽くしがたい恐怖が狛の心を支配していく。今更抵抗しようにも、もはや度重なるダメージを受けた狛の身体は思うように動かない。これから自分の身に起こる事を想像してしまうと、耐え難い程の吐き気が襲ってきて、狛は再び血反吐を吐いてしまった。
「いい具合に絶望してきたようだなぁ?フフフ、あの方と血縁ではあるようだが、貴様など槐様には遠く及ばぬということだ。あの時、雷獣の稲妻で消し飛んでいればよかったものを…!グフフフフ」
その耳元に顔を近づけ、狛に更なる不快感を植え付けようと緋猩は囁いた。緋猩の目的は狛の心を圧し折り、絶望の淵に追い込んで、身も心も殺すことにある。まだ若く経験もない狛にとって、緋猩の口から出た言葉はあまりにも重すぎた。犯された事を、犬に嚙まれたものとして受け流すなど、到底出来るわけがない。緋猩が自分の心までも殺し尽くそうとしている…言葉までもその手口である事は理解しているが、そう割り切れるほど、狛は冷徹にはなれそうもない。
それでも、涙だけは流すまいと狛はあらん限りの力を振り絞り、心を奮い立たせていた。それが今の狛に出来る最大の抵抗である。
「クフフ、気丈に振る舞っておるが、どこまで保てるかな?安心せい、儂の子種は強力だ。その胎に植え付ければ、半時と経たずにお前の霊力を糧に成長して、腹を食い破って出てくるであろう。他人を殺して食う所までは見なくて済むだろうよ」
下卑た、まさに下種そのものとしか言い表せない顔で、緋猩は笑っている。狛は震え、逃げ出そうと足掻いてみせるが、両腕をしっかりと掴まれていて、振り払う力は残されていない。
「っ!おのれ、ゲスな妖怪めぇっ!!」
幻場は怒りを露わにし緋猩の蛮行を食い止めようと、立ち塞がる猩々達を打ち倒す。しかし、既に猩々達は幻場達を殺すのではなく、足止めを目的とした壁になることに終始している。そうやって守りを固めているせいで、そう簡単に打ち崩して進む事は出来そうになかった。
そんな中だ。アスラは幻場がわずかに減らした猩々達の壁を搔い潜り、疾風の如き速さで緋猩の元へ突撃をかけた。
「ぬっ!?」
「ガァウウウウウッ!!」
「バカめっ!」
アスラには人質が利かないと、瞬時に判断したのだろう。緋猩は喉元を狙って飛び掛かってきたアスラを拳で迎撃してみせた。弱ってもなお、恐ろしいほどの反応速度である。
「ギャンッ!!」
「ぁ…!ア、スラっ……!だ、ダメ…ッ」
先程の狛のように弾き飛ばされて壁に叩きつけられたアスラをみて、狛は必死に声を絞り出していた。同時に、アスラの首輪にかかっていた三つの勾玉の内、一つが粉々に砕け散った。それは、アスラの身を守る為に作られた防御結界である。アスラが命に関わる大きなダメージを負った時、身代わりに砕けて、そのダメージを無効化してくれる呪具の一つだ。
しかし、身代わりになってくれると言っても、それは死ぬような怪我だけだ。完全にダメージがゼロになるわけではない。アスラは衝撃でそのままのびてしまったようだった。
「グハハハ!犬如きが儂に敵うものか!…しかし、思わぬ具合にいい顔になったではないか、頃合いだな。おい、尻を向けさせろ」
緋猩がそう指示を出せば、狛を取り押さえている猩々達はすぐさまそれに応えた。狛は倒れたアスラの無事を祈りながら、背後に迫る悪意を感じ取っていた。
「さぁて…一突きで死んでくれるなよ?」
全ての力を瞬間的に出し切ろうと、狛は霊力を練り上げる。
黒い影が狛と緋猩の間に立ったかと思うと、銀色の煌めきと共にザンッ!という大きな切断音がした。その後間もなく、ドスンと重い物が床に落ちた音がなる。
「ギ、ギャアアアアアアッ!、儂の、儂の腕がァァァァッ!?」
「…え?」
切り落とされたのは緋猩の両腕である。さらに間髪入れず、狛の両腕を掴んでいた猩々達はバラバラになっていった。一瞬過ぎる出来事のせいか、狛は何が起きたのか解らない。急に支えを失って倒れ込みそうになった狛を影が抱き締め、その匂いで、狛はそれが誰なのか即座に理解した。
「……この子に触れるな。ゲスめ…!」
「き、京介さんっ…」
涙を堪えていた狛の両眼から、大粒の雫がこぼれ落ちる。それは恐怖によるものか、或いは再会の嬉し涙か、狛自身にも解らないものであった。
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