第197話 悪夢の起死回生

「猪口才な小娘がっ…!いい気になるなよ!」


 緋猩は自慢のパワーを容易くいなされた怒りに任せて、さらに大きく振りかぶった拳の一撃を狛にぶつけようとしている。対する狛は九十九つづらの袖を分厚い盾のように変化させて、なんとかそれを受け止めた。腕だけでなく、全身の骨と筋肉が悲鳴を上げているような、嫌な感覚がする。狛の霊力で強化した肉体と九十九つづらという味方を以てしても、その威力を完全に受け止め、殺しきる事はできない。緋猩はそれほどの怪力を持っていた。


 そもそも、まともに受け止める方が無理のある行動である。いくら猿妖えんようがパワーとスピードに優れた種族だとしても、狛本来の身のこなしやその速さを駆使すれば、避けられないはずはない。それが出来ない理由は、ひとえに、この先技研の建物、その構造にある。


 先述の通り、この先技研の研究棟は7階だけが高さのある吹き抜け構造になっているのだが、決して廊下の横幅まで広いわけではない。あくまで余裕があるのは天井までの高さだけで、廊下自体はそれほど他の階と変わらないのである。

 その高さの余裕は、緋猩の2メートル超という身長には大きくプラスになっているが、背丈と同じように長い腕と、彼の素早い動きは回避の為の横移動を大きく制限するものだった。狛は本来、犬猫のような横方向を含めた素早い回避運動を主とする動きに長けているので、狭い廊下ではそれが活かせないのだ。

 ましてや、後ろには幻場まほろばがいる。狛がその速さを最大にして動き回れば、幻場が巻き添えになるのは明白だ。それらが重なって、狛は重戦車のような緋猩の猛攻を、無謀にも正面から受け止め、殴り合いで応戦するしかないのであった。


(なんてパワーなの!?こんなのを何度も受けてたら身体がもたない…!)


 狛自身、それはこの僅か二度の攻防で痛い程身に染みていた。妖怪との戦いにおいて、体格の違いは直接勝ち負けに影響しないが、緋猩は猿の侯爵即ち『猿候えんこう』を自称するだけあって、その妖力も並の妖怪より遥かに強い。それだけの妖力を、あの筋力に上乗せてして攻撃しているのだから、凄まじい威力になるのも当然だろう。

 

 普段ならば、このような状況にこそアスラと連携をとって戦うべきなのだが、それも難しい。何故ならば、ちょうど狛が緋猩と戦い始めたのと同時に、後方から現れた猩々しょうじょう達と幻場が戦闘を始めたからだ。背後から挟み撃ちにされれば、狛に勝ち目はない。アスラはそれを見越して、幻場と共に、猩々達との戦いを優先しているのだった。


(自力でなんとかするしかないよねっ…!)


 素早く後ろの様子を確認し、狛は改めて覚悟を決めた。ギリギリの戦いなら何度も潜り抜けてきたのだ、今更恐れることなどない。いかに緋猩の怪力をいなし、有効打を叩き込むか。狛の意識は一気にその一点に集中し始めていた。


 ゴッゴッという鈍く重い音が、連続して響いている。拳の風圧が狛の髪を揺らし、滲む汗と痛みに歪む顔がその威力を雄弁に物語っていた。覚悟を決めたとはいえ、すぐに対策が出来るわけでもない。ただ、狛は反撃の手数をあえて減らし、少しでも緋猩の攻撃を有利に受け止める手段を試していた。どちらにしても、無理な反撃を狙えば、その後に更なる反撃が待っている。ならば、致命傷を受ける可能性を減らす方が先だと、狛は考えた。


(これもダメ…!うまくタイミングが掴めない)


 時には直撃の瞬間に体をずらしてその威力を受け流そうとしたり、それがダメだと解れば、空手で言う『捌き』のようにパンチそのものを受け流そうともした。しかし、どれも緋猩の素早い連打の前には付け焼刃の対策にしかならないようだ。一応言っておくと、犬神家の退魔士が習得する技術の中には、体術の教えもある。例え霊力によって大きく力の差が生まれるとしても、人間、最後にものを言うのは己の肉体であることに変わりない。体格で勝負が決まる事は無くとも、あと一歩足を動かせば生き延びられる、そんな状況は往々にしてあるものだ。その一歩を掴む為に、霊力だけでなく肉体も鍛えるのである。

 それ故に、合気にしても空手にしても、狛は最低限の基礎は習得していた。だが、それだけでは到底、緋猩を上回る事は出来そうになかった。


「でも、もう少し…でっ!」


 緋猩は気付いていないようだが、狛は徐々に緋猩の攻撃を防ぎ始めていた。数十回に一度ではあるが、確実に無効化しているようだ。

 

「ぬうぅぅ!しゃらくさい!」


 一方、緋猩は一撃毎にその怒りを腹に溜めていた。彼は非常にプライドが高く、兎角とかく人間を見下す傾向にある。その彼が自慢の怪力と共に妖力を込めた攻撃を繰り返しているのに、狛は一向に倒れない。それが緋猩という妖怪の自尊心を大きく傷つけている。戦いは優位に進んでいるはずなのに、精神面ではとても圧倒しているとは言い難い状況だ。


 緋猩という妖怪は、元は猩々の一種である。自然に棲む猿達と同様、猩々も群れを作って生きる妖怪で、彼は中でも突出した天才として群れを率いて生きてきた。通常の猩々は、そこまで人と敵対することはないのだが、生まれつき人を嫌う彼の率いる群れだけは、人を見れば容赦なく襲い残忍に殺してきたのだ。

 その理由は、彼が現世に生じて間もない頃にあった。


 日本には古来から、猩々緋という色が存在する。それはかつての南蛮貿易からもたらされた舶来品に使われた赤色で、えんじ色に似ているが、それよりもやや暗い赤紫色の事を指す。

 能の演目『猩々』に使用された面や、装束の色が余りにも鮮やかな色合いであった為に、舶来品という奇妙な伝来も相まって、猩々の生き血で色を染めたものという噂が流れた。そこから、猩々緋という名が生まれたのだ。


 無論、実際に猩々の血で染め上げているわけではない、それはあくまで噂話だ。本当に猩々の血で染め物をすれば、強烈な妖気を纏う呪物と化すだろう。或いは、外法の術師達が、一着や二着作った事があるかもしれないが、流通するそのほとんどは普通の染め物である。

 だが、生れ落ちて間もない緋猩はその噂を聞き、激怒した。実際に仲間の血を使っているかどうかはさておき、人間などに同種が殺され、あまつさえその血を染めに利用されるなどあってはならない。誇り高き猩々が、下等な人間に利用されるなど言語道断である。…そして、何よりも悔しかったのは、その猩々緋色に染め上げた陣羽織を身に纏い、猛然と戦で働く侍の姿を目の当たりにして心を奪われた事である。


 それを美しいと思う事は、猩々の血が人に利用されることを認めてしまうのと同じだった。それだけは、決して許せることではなかったのだ。以来、彼はその怒りを忘れぬよう、その日から緋猩を名乗るようになる。

 ほぼ八つ当たりに近い理由で、元から人を嫌う緋猩は更に人間を憎むようになっていったのだが、それでも表立って人間と戦をするつもりはない。やはり人と猩々の数の差はいかんともしがたく、下手に全面戦争を企めば、巻き込まれる事を嫌う他の猩々達の群れが黙っていないだろう。結局、生まれてから数百年、緋猩は人間を憎みながらもじっと黙って生きてきたのだ、槐と出会うまでは。


 槐は、初めて緋猩を地につけた人間であった。圧倒的な霊力と巧妙な策…どれをとっても、完璧なまでに敗北を喫した。人を嫌い憎む反面、かつてみた侍に瞠目したように、緋猩の中にはどこか人間への憧れや、それに近い興味があったらしい。そして、槐と主従の契約を結んで彼の率いる新たな軍団の一員となった。それ自体に悔いはない、槐は自分より強いのだから、当然のことだ。

 しかし、槐の配下となり、黒死檀こくしたんの枝を与えられて以前より大きくパワーアップした自分の攻撃を、狛が受け止めている事などあり得ないことだった。

 緋猩にとって、人間で特別なのは槐ただ一人だけで、その他の人間などは弄び、または犯し殺して食うだけの存在である。歳若い人間の女すら殺せないと、認めるわけにはいかなかった。

 

「いい加減にっ…くたばれぃっ!!」


 更なる渾身の力を込めて大きく振りかぶった拳を振り下ろす、これまでの攻防で、狛が全くダメージを受けていないわけではないと、緋猩は気付いている。ならばと、勝負を決める一撃に打って出た。相手はひ弱な人間の小娘なのだ、これほどの一撃に耐えられるはずがない。


「……来たっ!」


 その大振りの一撃を、狛は待っていた。パワーとスピードに任せた連続攻撃は、この短時間で完璧に見切るのは難しい。だが、この流れの中で、何度か受け流す事に成功したのは、緋猩が力を込めて振りかぶった攻撃ばかりである。そのタイミングだけは、どうにか計る事が出来たのだ。

 強烈な一撃が狛の身体に突き刺さるその瞬間、狛は全身の霊力をその手に集め、瞬間的に球を作った。空気がパンパンに入って膨らんだようなその玉は、凝縮された霊力の塊であり、何物も通さない鉄壁の盾である。

 そして丸みを帯びたそれは、直撃したはずの緋猩の拳を弾き、それを


「なっ!?」


「はぁっっ!!」


 受け止めるのではなく、勢いそのままに拳を横へ流されたことで、緋猩は大きく体勢を崩している。身体ごと前に突きでた顔面…その顎を狙って、狛は裂帛の気合と霊力を込めた右脚で、垂直に蹴り上げた。


「ガフッッ!?」


 いかな強靭な筋肉と分厚い毛皮を持っていても、顎までは覆われていない。顎やこめかみは人体の急所であるが、人と形の似た猿妖にとっても、そこは同じく弱点である。並の猩々ならば、頭を粉々に打ち砕く狛の蹴りをまともに食らい、緋猩の巨体が大きく浮かび上がった。


「まだまだぁっ!!」


 最大の好機を得て、更なる痛打を浴びせる狛の連撃は凄まじい。打撃だけは効果が薄いと、その爪を使って引き裂くように斬る事も織り交ぜている。そして、息つく間もない攻撃の締めくくりに、その場で一回転をし霊力をたっぷりと蓄えて棍棒のように強化した尾で緋猩を殴りつけた。


「ぐがかッ!」


 その勢いで吹き飛ばされた緋猩の身体が、大会議室の壁にぶち当たる。だがそこで、思いもよらなかった事が起きた。結界で守られているはずの会議室の壁が崩れ、緋猩の身体が会議室に入り込んでしまったのである。


「えっ!?」


「きゃあああああっ!」


 突如、壁を壊して現れた緋猩の姿に、中で震えていた女性職員が悲鳴を上げた。それは最悪のタイミングであった。ちょうどその時、会議室に置いてあった霊式対応装甲結界…その試作機に使われていた霊石が、長時間の使用で力尽き効力を失ってしまったのだ。

 

「ぬうう……お、おのれぇ…許さんぞっ!」


 しかも、緋猩はまだ生きていた。相当なダメージを受け、既に妖力を大幅に失っているが、まだ戦う力は残っている。緋猩はちょうど目の前で腰を抜かしている女性の職員を捕まえると、すぐさま追撃に入ろうとした狛の前に差し出した。


「あ、ああ……そ、そんなっ…!?」


「ぐふふふ…形勢逆転だな小娘…ただでは済まさん…っ!」


 人質を取られ、狛は完全に身動きを封じられてしまう。そして、醜悪そのものを形にしたような表情で、緋猩は笑ってみせるのだった。

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