第154話 最期の言葉

 「どうした?親父、その程度か。かつては退魔士の間でも無双と謳われた『鬼晴峰おにはるみね』の名が泣くぞ?」


 槐は、倒れ込むハル爺の背中にそんな言葉を投げ掛けた。ハル爺がそう呼ばれていたのは、まだ槐が幼い頃の事である。当時のハル爺は、今よりもずっと荒々しく、粗野な若者であった。豪胆という言葉が服を着て歩いている、そう言わしめたほどだ。


 幼い頃から共に成長してきたナツ婆と共に、多くの妖怪達と死闘を繰り返してきた彼は鬼を相手に純粋な力比べで勝った事もあるほどで、そこから『鬼晴峰おにはるみね』の異名が付けられたという。一時は彼の母で、美貌の天才退魔士と称されたまみと比肩する、或いは上回るとまで言われた男…それがハル爺である。


「なんの……っ、これ、しき…!」


 ゆっくりとふらつきながら、ハル爺が立ち上がる。既に何度地面を舐めさせられたか解らない。しかし、歴戦を潜り抜けてきたその身体は齢70を超えた今でも、まだまだ屈強さを保ち続けているようだ。これだけ槐の操る狗神の猛攻を受けても、未だ致命傷には至っていない。だが、確実に命を削られている事に変わりはなく、このまま戦い続ければ危険だと言う事は、誰の目にも明らかであった。

 しかし、大斧を持つその手にはまだまだ力が漲っていて、その全身が血で汚れていなければとても圧倒されていたとは誰も思わないだろう。


「行くぞ!八艘…!」


「くどい!何度やってもそんなものは……何ッ!?」


 幾度となく放たれたその技の繰り返しには、槐も対応が慣れてきていた。そこへ、ハル爺は敢えて技を変えて隙を突くという、老獪な戦術を見せる。


「…百波ひゃっぱぁっ!」


 八艘百波はっそうひゃっぱとは、斧を持って構えたまま独楽のように体ごと回転させて連続で斬りつける技の名前だ。八艘千波と見せかける為に、空中で回転をした為、本来ほどの回転力ではないが、今までと同様にハル爺の身体を狙おうとした狗神達は、物の見事に術中にハマり、次々に回転する斧の餌食となった。


「八艘千波っ!!」


 ハル爺は回転して着地をしたあと、間髪入れずに八艘千波を繰り出す。この連続攻撃にはさすがの槐も対応できず、次の瞬間にはハル爺の大斧が槐の身体を引き裂いていた。


「やったか!?」


「いや…ダメだ。あの野郎、舐めてやがるな」


 若い退魔士はその一撃に希望を見たが、猫田の目は正確に事実を捉え、それを否定した。二つの斧で三つに切り裂かれた槐の身体は、式神で作った偽物だったようで、まるで忍者の使う身代わりの術かのように変化し、槐本人は、ハル爺の背後に立っていた。


「ククッ、所詮老いぼれの浅知恵だな、親父。これで終わりだ」


「しまっ…!?がああああっ!」


 槐が振り下ろした氷の刃は、先日真が大蝦蟇ガマ相手に使ってみせた技である。背中を斬られたハル爺は、さすがに手痛いダメージだったのか大きくよろけて倒れそうになった。呻きながらよろよろと数歩前に歩いていく、そこへ、更に。


「…まだ倒れん、か、しぶといな」


 槐は一切の容赦をせず、残った狗神で追撃を仕掛けた。一発、二発…それは終わる事なく続いていく。ハル爺はもはや避ける力すら残っていないのか、無抵抗にその牙を受けるばかりだ。全身は血で赤く染まり、今彼が立っていられるのは、攻撃を受け続けいてて倒れる隙がないだけなのかもしれない。


「ハル……」


 ナツ婆はそんな夫の姿を見て拳を握っている。本当ならば、肩を並べて戦いたいに違いない。例えそれが実の息子が相手であっても同じだ。ナツ婆とハル爺は、ずっとそうして一緒に戦い、生き延びてきたのだから。だが、今だけはそれが叶わない状況だった。槐のかけた封印にも似た結界は非常に強力で、それを無視して飛び込めば、ナツ婆は一溜りもないだろう。


「ハル爺っ!」


 その一方で、狛は我慢ならず、結界を破壊してでもハル爺を助けようとしている。その肩を押さえ、狛の無謀を止めたのは猫田であった。


「狛、よせ。こんな強力な結界を無理矢理破壊したら、その衝撃で皆吹っ飛んじまう…俺らはともかく、ガキ共や爺さん婆さんは助からねーぞ…!」


「そんな!?でも、このままハル爺が…!ハル爺が死んじゃうよ!」


「解ってる!…クソ、あの野郎、俺達にそれを見せつけるのが魂胆か。反吐が出るぜ……っ!」


 最初に宣言した通り、槐の目的はそこにあった。ハル爺を、実の父親をいたぶり、嬲り殺す様を狛達に見せつける事、それ自体が槐の目的なのだ。自分達の守ってきたものは無駄であり、無力であったと、そう知らしめたいに違いない。それはつまり、犬神家そのものへの否定である。


「…終わりだな」


 槐がそう呟くと、狗神達は攻撃を止めた。そして、ハル爺はその場に崩れ落ちた。流れ出る血の量は、確実に命に関わるほどの量だ。誰もが、絶望に染まりかけた。しかし、ハル爺はまだ諦めてはいない。わずかに残った力を振り絞って立ち上がらんとしている。

 

「ハル爺、もう止めて!もう立たなくていいから、お願い!死なないで、逃げてぇっ!!」


「ふん。この期に及んで叫ぶだけか、哀れだな、狛。人狼化などと大層な術を身につけた所で、お前にとって大切な人間の一人も守れず、救えん。拍も同じだ。当主と当主候補が揃って成す術なく指を咥えて見ているだけ。それがお前達が守ってきたものの限界であり、現実だ。非情に徹して結界を破壊すれば、こいつを守れただろうに。使えん老人とガキ共を見捨てられんせいで、結局は全員死ぬのだ」


「槐…テメー、覚えておけよ。絶対にただじゃ済まさねぇ……この借りは必ず返してやる!」


 猫田は狛を押さえる手に力を入れつつ、槐を睨みつけていた。ここまで怒りを覚えたのは、かつての飼い主ミツが無惨に殺された時以来である。ハル爺は猫田にも気をかけて、ずいぶん良くしてくれたし、良い話相手でもあった。猫田にとっては、遠く歳の離れた友人、それがハル爺だったのだ。

 それでも、怒りと恨みに飲まれるほど、猫田は若くない。迂闊な事をして子ども達まで巻き込むわけにはいかないと冷静に考える頭はまた残っている。怒りに震え、狛の暴走を抑えるその手が狛の肩に食い込んでいても、だ。


「フッ、自分達に先があると思い込んでいるのがお前達の愚かさだ、お前達はここで殺す。…あずま


 槐が名を呼ぶと、控えていた男女の中から、ボロボロの恰好をした黒ずくめの男が前に出た。左目は髪で隠れているが、見えている右目は異様なほど爛々と光を放っていて、とても人間のものとは思えない姿であった。そして、それと入れ替わるように槐達は宙に浮いて屋敷から離れていく。


「このニオイ…?アイツ、雷獣か!ヤベーぞ…拍、狛!」


 瞬時に気付いた猫田が狛を連れて拍の元へ跳ぶ。拍は子ども達や分家当主達の中心で霊力を練り上げ槐の結界を破ろうとしていた。そして、結界の端では辛うじて立ち上がったハル爺と、少しでも彼に近づこうと結界に触れるギリギリの場所にナツ婆が立っていた。


「ハル……儂は…!」


 バチバチと音が鳴り、かすかに触れたナツ婆の手に火傷のような傷が増えていく。しかし、ナツ婆はそれを全く気にも留めず、ハル爺に触れようと手を伸ばしていた。


「…………」


 ハル爺は小さな声で何かを呟いていたが、それは結界の干渉音にかき消され、誰にも聞こえていなかった。すぐ傍に立つナツ婆を除いては。


「ウオオオオオオオオオン!!」


 その時、あずまは猫田のように大きな四足の獣の姿へと変化し、大きく吠えた。すると、天を貫くほどの超巨大な稲妻が、屋敷の敷地全体を飲み込むように激しく落ち、犬神家本家は完全に破壊させられたのだった。

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