[ 二章 ]



 恥の多い生涯でした。


 人に誇れる才能もなかったです。

 気が小さいのにプライドだけは高く、いろいろ胸中では悪態つきながら誰にも放言せず実践もできない。ただ悶々と親の顔色伺い言われるがまま学業を重ねておりました。

 両親とも医者であり優秀だったプレッシャーもあって 良い子を演じながら必死で数字を頭に叩き込んでおりました。

 しかし、小学受験に失敗したあたりからボロが出始めます。せっかく詰め込んだはずの公式が、まったく抜け落ちる。単純な計算もできなくなりました。

 薄々気づいてはいましたが、はっきり向いてないのだとわかりました。

 けれども親はまだあきらめてくれません。

 勉強量を増やせばいいのだと曲解したようです。もちろんわたしは抵抗しましたが、結果は明白でした。親に嫌われたくないので最終受け入れてしまいます。

 公式が解けない。できない度に、どんどん、どんどんと目の前に教材が山積みされます。いつの日か、わたしはこれは悪い夢なのではないかと疑うようになりました。じつはほんとうのわたしがどこか別にいて、ほんとうは勉強ができるのに、冷淡に突き放しながら、すぐ後ろのほうでわたしを嘲笑っているのではないか。

 

 やめちまえ計算なんか

 そんなの何の役にも立ちゃしないぜ

 苦しいのは今だけさ

 慣れちまえばこっちのもん

 

 あとから知りましたが、こうした状態を心理学的に「乖離かいり」と呼ぶそうです。しかし当時のわたしは自分がそんな病症にあると知る由もなく、度々叱責されながら怒声を遠くかき消して、その時間が過ぎ去るまで、内なる声と愉しくやり過ごすのでした。   

 

       ・               


 人付き合いがどうしようもなく下手でした。

 好きな相手をみつけると、躊躇なく近づき声をかける。矢継ぎ早に質問を浴びせ、許可なく身体に触ったりする。純粋といえば聞こえはいいのですが、とにかく自分の欲求に真っ正直で、相手を思いやる想像がまるでなかった。

 視野が狭かったのだと思います。自分の関心ごと以外、何も見えなかったし、見ようともしなかった。しかしそれで良いと思い込んでました。あの頃のわたしにとってそれはそれで幸せだったのです。


 変化の兆しがみえはじめたのは、夢をみたのがきっかけでした。大雨の降る、暑くて寝苦しい夏の夜でした。

 遠くのほうに誰かいる。逆光で顔が隠れててはじめは誰かわからなかったけど、だんだん近づくにつれ、それがいつも学校で一緒に遊んでいる直ちゃんだと気づく。直ちゃんが急に下からわたしの顔を覗き込む。「 あんたさ、わかってんの 」 え、なにが。唐突すぎる質問に面食らって一瞬たじろぐ。

「 鬱陶しいんだよね 顔見るだけで腹立つ 」

 濁った野太い声。直ちゃんはもっと明るく弾んだ声だったし、直ちゃんがそんなこと言うはずないとわかっているのに何故だか真実味がありました。「 何もわかっちゃいないんだ、あんた あんた何もわかっちゃいないよ 」 聞いてはいけないような危険な事実を知らせる不敵な笑みに背中が凍りました。どういう意味?わたしは誰と喋ってるのだろう。直ちゃんはこんな怖い顔をしない。こんなにわたしを誹謗したりしない。

「 いつも自分の話ばっかじゃん 話題変わると急に機嫌悪くなるし そんな自分かわいいと思ってんでしょ あー見ててイライラする ね、気づいてる? みんなに嫌われてるよ ただアンタと連んでると都合いいからさ 利用してるだけ 」


 けたゝましく鳴る目覚ましの音で、急に現実に呼び戻されました。母親が心配になるくらい全身汗だくでした。「 どうしたの なんかイヤな夢でもみた? 」 そう問われると堰を切ったようにワッと泣いてしまいました。


 以来急に学校へ行くのが怖くなった。



「 おはよ! 」

 後ろから明るく元気な直ちゃんの声。この声は間違いなく本物の直ちゃんだ。

「 あれ?元気ないね、今日 」

 いつもと変わらない直ちゃんに、ホッとするかと思いきや、何故だかかえって気味悪さを感じてしまい、態度が余所余所しくなる。

「 そ、そうかな 」

 目が泳ぎ、明らかに不審な動きでしたが、直ちゃんは何も言わずしばらく黙ってわたしの顔を眺めると、また元気な笑顔になって、じゃーねーと手を振り小走りに校門のなかへ入っていきました。


 直ちゃんとは、それっきり。

 

 あんなに仲が良かったのに、廊下ですれ違ってもまるで他人のように無視されます。こちらから声かければ進展があったかもしれないけれど、夢の直ちゃんとダブってしまい、勇気が出なくてどうしても声を掛けれなかった。プツリと友情の糸が切れてしまった。


 あの夢ですべてが変わってしまいました。


 あれは正夢だったのか。直ちゃんがほんとうに心のなかでわたしを嘲笑っていたかどうかは分かりません。ただわたしの意識が変わったことで、直ちゃんもそれを敏感に感じとったのだと思う。わたし以外にも友達がたくさんいる直ちゃんからすれば、わたしと縁を切るくらい何とも思わなかったのだろう。面倒なことに巻き込まれるくらいなら縁をきったほうが得策、そう踏んだのです、きっと。


 あの子 変わったね


 さらに悪循環が続く。直ちゃんに絶縁されたことで、自信を失ったわたしは、表情が堅くなり、声は曇り、挙動不審となった。するとみるみる避けるようにみんなわたしから離れていった。

 気がつけば、わたしはもうクラス全員からいじめられる浮いた存在になっていた。


 大丈夫 俺がついてる

 何も怖がらなくていい

 




       ・  




 木崎家は呪われた家庭であった。

 

 父、木崎清彦きよひこは教育に無頓着で、とやかく何も口出ししない寡黙な人。一方母親の美晴みはるは才色兼備で院内でも人気があったが、世間体や体裁を気にするあまり周囲の顔色ばかり窺い、いつも苦しんでた。たいへんモテたようで、多くの男性から交際を申し込まれていたが、最終的に院長の清彦を選ぶ。夫婦の歳の差は20も離れており、この二人が結ばれるとは誰も予測しなかったので、その意外性もあって結婚当初は「玉の輿狙いか」と院内で嫌というほど噂されたという。父親が高齢ということもあり子宝に恵まれず6年間不妊治療を続けており、ようやく男の子(貴之)を授かっている。念願の子とあって目に入れても痛くないような可愛がりようだったそうだが、しかしその幸せも長くは続かなかった。

 

       ・                


 1987年12月20日の明朝4時すぎ。父親が海に身投げしたとの報が入る。

 出張先の青森で急に連絡が取れなくなり、心配していた矢先の出来事である。

 自殺の理由は聞かされなかったし、当時は気にもしなかった。まだ幼かったわたしには、あの優しい父親が急にこの世からいなくなってしまったことのほうが重要だった。

 今まで見たことないほど動揺する母親の姿がわたしの不安を増幅させる。

 事故現場に一緒に連れて行かれて、母親としばらく肩を抱き合いながらベンチに座っていた。一分一秒が長く感じた。慌ただしく警察関係者が行き交うなか、二人だけ別の空間にいるみたいに息を殺しながら時が来るのを待つ。

「 お待たせしました。行きましょうか。 」

 重苦しい沈黙を破り、刑事らしい男がぶっきらぼうに話しかけてきた。

 さくっさくっと海岸沖の砂浜を歩きながら、この先に待ち受ける恐怖に、足が竦む。

 検死官らが取り囲む中央に、何か黒い塊が見える。近づいていくに従いそれがどんどん人の形を帯びてくる。そして ——


 最後は父親になった。否、一昨日の朝まで父親だった”塊”がそこに在った。


 半狂乱に泣き叫ぶ母親がスローモーションにみえ、血の気が引いて意識が遠退き、わたしがわたしでないような感覚に陥る。


「 あれ?泣かないんだ。意外と冷たいやつだな、おまえ 」


 はじめて聴く声だった。

 誰かに話しかけられてる気がして周囲を見まわすが、皆注目するのは、塊のほうだった。


 泣くタイミングを失っただけさ


 不思議と驚きはなかった。声に対し、率直に答えてみる。


「 なるほど。興ざめしたか。たしかにな。泣くって、どこか嘘っぽくなるよな。周囲に見られてると余計気にして演技がかる 」


 母さんは、本気だよ。何も演じてなんか‥


「 無意識に誰でもやってることだし、別に悪かないよ。ただそれを理解ってしまえば、自然にできなくなるだろ。おまえ、凄いんだな。その歳でもう知ってしまったのか 」


 わたしははっきり声の主を理解した。わたしの中の内なる声が、完全分離を遂げたのだ、当然のようにそう硬く信じて疑わなかった。

 




       ・  





 わたしが死んだのは、1994年、2月15日。二十歳の誕生日を迎える間際だった。

 ただ身体の方は健在だった。社会的に死亡は受理されておらず、まだわたしは現世こちらに存在するものとして復帰している。

 

 その日は、第一志望 両親の母校であるK医大の大学受験 本番当日。

 母親はこの大勝負に賭けていた。試験に合格せねば、もう後が無いほどの気迫であった。母親の期待を一身に背負い、当事者の私も士気があがろうというものなのだが、正直それが全くなかった。自分でも焦るほどに皆無であった。ただ自信はあったのである。連日とても調子が良かった。昨日一昨日と〝滑り止め〟で受験した某3流大学のテスト成績はどちらもかなり手応えを感じており、苦手科目の数学においても、偶然ではあったが、自分の解ける範囲での公式ばかりが出題されてほとんど手を止めずに解答できた。卵が先か鶏が先かの話になるが、調子が良いと〝声〟もしなくなるのである。しばらくあの声を聞いていない。どんな声だか忘れるほどであった。


「 貴之さん 」


 滅多にさん付けで呼ばない母親が、玄関の後ろから声をかけてきた。この日の母親は妙に艶かしかった。タイトなスリットの入った紺のスカートから生足が見える。家では一度もつけたことがないシャネル5番の香水の匂いがする。しっかり化粧も乗っていて薄紅色の濡れた唇から目が離せない。あらためて美人だなと思った。


「 いよいよですね 」


 母親は父が亡くなってからいつも敬語で話す。疎遠な感じがして嫌いだったが、なぜだか今日は血のつながらない女を感じ、ドギマギした。


「 今まで辛くあたってしまってごめんなさい。全部あなたのためを思ってのことよ。立派になられたわね。これはご褒美 」


 女は男の唇を奪った。あまりに突然だったので、思わず母親の舌を噛みそうになった。勃起していた。


「 力いっぱい全力出し切りなさい。良いニュース期待してるわ 」


 すこし頬を赧めながら女の笑みを浮かべ、わたしにそう言い残すと母親はそそくさロビーの奥へ逃げ去った。

 試験会場へ向かう道中、頭が割れそうだった。いったいどういうことだ。母親は私に何を求めているのか。禁忌を犯し抱き返すべきだったのか。良からぬ妄想でどんどん身体からだが熱くなる。

 通勤ラッシュ、人混みにごったがえす環状線の電車のなかで居てもたっても居られず、何度も途中下車をする。一目散にトイレへ駆け込みマスターベーションし涙した。


「 お母さま、私はあなたのことが好きなのです。なのにどうして今の今ごろになって私を好くのですか。ずっと嫌いだったじゃないですか。ほんの一度だって目を合わせたことも、触れてくれたことさえなかった。それが何を急に なんでいきなりキスなんか‥ 」

 

 随分余裕をもって出発したので、試験会場にはギリギリ間に合った。しかし試験の結果は惨憺たるものであった。集中が切れ、常に裸の母親が脳内にいる。私を誘惑せしめ、私に覆いかぶさってくる。射精までには至らぬものの試験中始終陰茎が熱り勃っていた。            

 その後のことはあまりよく覚えていない。すべて希望を失った私は、ただ無意識に足の向くまま通りを歩いていた。 

           

「 終わったな 」


 またあの声がする。今日の声はいつもに増して饒舌だった。

 

「 ああ終わったさ 」

「 これからどうする 愛しの母親に身体で慰めてもらうか 」

「 できるかそんなこと 」

「 合格すればあり得たかもな 」

「 やめろ 」

「 ‥‥今日は特別 お前にいいこと教えてやるよ 」

「 うるさい 」

「 知りたいだろ お前の母親の秘密 」

「 ホント黙れ 」

「 お前の母親は 」

「 やめろって 」

「 他の男と 」

「 ! 」

「 夜な夜な不倫していた 」

「 まさか 」

「 お前は父との間に生まれた子でなく‥ 」

「 嘘だ! 」

「 愛人との間に生まれた隠し子だった 」

「 出鱈目いうな!血液型もちゃんと合って‥!! 」

「 そうだよな。愛人も同じ血液型だったらどう区別する?そこまで詳しく調べたわけじゃないだろ 」

「 そんな‥‥ 」

「 お前の母親は相当な食わせ者だぜ 身体の方もな 」

「 〜〜〜〜〜 」

「 わかるだろ?女狐が正体あらわしたってことさ 」

「 ‥お父さまが、死んだのも‥ 」

「 お気の毒 そりゃあ気づくでしょ自分の子でないことぐらい 医者だしな 自分で詳しく調べるなんざ、お手のもんよ 」

「 ‥マジで‥言ってる?? 」

「 棄てられたんだな お前の母親 裏切った父親に棄てられ、好きだった愛人にも棄てられた お前の母親プライド高そうだし 知られるの怖かったんじゃないか だから距離を置いた 好きだった男の血をひくお前のことが 憎らしくもあるし 愛らしくもある だんだん愛人に似てくるお前を見ていて つい気が緩み 感情が抑えられなくなった あいつはお前の将来のことなんて ほんとうは何も考えちゃいない ただ自分の経歴れきしに傷がつくのが耐えられないだけ お前はただの母親の玩具バイブレーターなのさ 」             

                    

 気づくとわたしはホームの端にいた。人の顔がどれもムンクの叫びのように歪んでみえ、ゴッホの星月夜のように回転していた。その先に一人だけ青白く輪郭が縁取られた人影が見える。なぜだろう。その人影だけははっきりしている。とても親しみを感じる人影だった。そして急に悪い予感がした。コイツは死ぬ気だ。止めないと。わたしは何の躊躇もなく走り出した。電車の到着を知らせるアナウンスと警報ベルが鳴っている。だめだ!もう間に合わない!                              



 わたしの肉片が周囲に飛び散っている。なのにわたしは何ひとつ痛みを感じずに他人事のような冷静さで見つめている。どこから。考えてみると視点が変だ。どうやらわたしは3m程宙に浮いていて、頭上からかつてわたしであったそれら肉片を眺めている。違和感は他にもある。これまで普通にあった画角が見当たらない。目尻に映り込む目障りな鼻先やらがまるでなくなり、すっきり遠くの地平まで視界が広がっている。きっとこれは夢だ。夢だと気づくと急に淋しくなり哀しみがこみ上げてきた。自分のそれら一つ一つがとても名残惜しく感じる。恐ろしくグロテスクであるはずの自身の肉片等パーツに、不思議と愛おしさを感じている。なんて鮮やかな発色をしているのだろう。これがほんとうにわたしなのか。わたしの一部であったのか。 

 




       ・  





「 やあ。お目覚めかい 」


 ここは‥。


「 井の頭にある病院のなかだよ

 君が電車に飛び込み、緊急で担ぎ込まれた 」


 まだ意識が朦朧としていたが、微かに残る記憶をたどっていくと たしかわたしは青年の飛び込みを思い止まらせようと。いや、待てよ‥それともわたしが死んだのだろうか。

 

「 じつは君に悪いお知らせがある 君はすでに亡くなっている 君は幻影をみたのさ 」


 どういうこと?


「 安心なさい すぐに状況が呑める 」


 ふと自分の体の異変に気づく。何かが体のなかに入り込んでるような‥


「 少しは思い出したようだね そうとも 私は君のなかにいる いや、今の現状でいうともはや君がわたしの中にいる、か 」

 

 さっきから何を?

 

「 ずっと君を見てきた 」


 ‥ お前なのか。

 

「 辛く苦しい時、よく君と話をしたね 私は唯一君の味方だった 」


 あれが味方だって?冗談じゃない。お前がいるせいで、どれだけ苦しんだことか!都合の良いときだけベラベラ喋りやがって!


「 全部君の望んだことじゃないか わたしは君の心の声を代弁していたにすぎない いづれにせよ よく頑張った あとは私に任せてゆっくり休むといい 」


 休むって?


「 君は死んでしまったんだ もう身体を休めないと 」


 おかしい。身体が勝手に?!


「 そうなんだ 私も驚いたよ まさか我が身にこんな奇跡が舞い降りようとは 」


 一体どうなってる!?


「 受け入れるまでには多少時間がかかると思う 私もそうだった 要するに我々は立場が逆になった んだよ 」

 




       ・  





  

「 あれは、悪魔です。

  もうウチの子でもなんでもありません。 」

  

 取材は何度も断られたが、それでも執拗く交渉を続けたところ、「取材を受けるのは今回が最初で最後」「答えたくない質問には答えない」との条件付きで、母親になんとかアポをとることができた。

 

− '95年ごろ貴之さんが自殺未遂された後から随分変わられたそうですが


「 ええ。人がまるで違いました。容れ物は確かに同じ貴之なんですが、中身がぜんぜん変わってしまいました。 」

 

− 具体的におっしゃって下さい

 

 「 ほとんど瞬きしない半開きの目、押し殺すような低い声です。わたしの知る貴之はあんな冷酷じゃありません。もっと気が弱く繊細で。自信が持てずに ずっとオドオドしてましたから。 」

 

− なぜ悪魔だと?

 

「 脳を損傷し壊れてしまったんです。でもわたしは医者ですしオカルトを信じません。

 医学的に納得したうえで『悪魔のようだ』と形容で申し上げたまでで。わたしは脅されたんですよ。 」

 

− それは警察から聞きました。無人、あ失礼、貴之さんへ手切金として2千万ほどキャッシュでお支払いしたんですよね。理由をお聞きしたいのですが

 

「 それは‥言えません。 」

 

− 検死の結果、まだ聞いておられませんか。貴之さん、お父様とDNAが一致しなかったそうです

 

「 ! 」

 

− それと何か関係があるのでしょうか

 

「 ‥出てって 」

 

− それでは質問を変えましょう。お父様とは‥


「 いいから出てって!

  もう取材は終わりよ!! 」

 




       ・  





 髙井依子が自殺した。



 無事 記事の校正を終え いよいよ来週 出版しようとしていたの訃報だった。

 「無人劇」騒動の一件以来 関係者の後追いが続いていたので、もしやと思ったが、悪い予感が当たってしまったようである。


 彼女が亡くなった日の翌朝、ポストに無名の封書が投函されていた。封を開けると浅葱色の5枚の便箋があった。目を通すとこれは間違いなく依子本人に思われた。取材されたことへの当たり障りない慣例的な謝辞に続き、今回の一件に触れ、他界した理由が詳細に記されていた。


  (前略)


 お察しのとおりです。

 この度の「無人劇」騒動の一件は、

 少なからずわれわれが画策しました。


 実験性を多分に含んでおりましたので

 どこまで成功するか われわれにも

 未知数ではありましたが 結果

 予想した以上の成果が得られた次第です。


 ただ 無人の真偽については

 それとこれとは別とお考え下さい。


 劇団側として最大限の助力をしたこと、

 木崎が迫真の無人を呼び出したことで

 無人の信憑性が格段高まりはしましたが、

 その無人の主張が本当だったのかどうか 

 それは個々の判断に委ねるしかありません。


 ですがご承知の通り、わたしは個人的に

 彼の主張を固く信じております。


 その理由を今からお話しいたします。

 まだ誰にも明かしたことのない

 「冥土の土産」の秘密です。


       ・  


 どうして木崎がわたしのところへ現れたのか、

 まだ詳しい経緯をお話してませんでしたね。

 長くなりますがお付き合い頂ければ幸いです。


 「 荻窪アクターズスクール」を立ち上げる

 以前の話です。

 学生の頃わたしには「ムライクニオ」という

 志を共にする男がいました。

 互いに愛し合う仲、いえそれ以上の

 深い関係です。

 矛盾だらけの世に対する憤りが共通していて 

 いつも二人で哲学談義しながら

 夜を明かす日々を送っておりました。

 常々ムライは世界を変えたいと話してました。

 政治で国を変えるであるとか、

 平和維持活動をして戦争をなくすとか 

 そういう類のことを言っているのではなく、

 もっと根本的に人間を一から

 白紙に戻してやり直したい、

 本気でそう願っているようでした。

 当然そんなの夢物語に決まってます。

 かといって急に醒める夢でもない、

 なにか一つでも爪痕が残せたら、

 この遺志を継いでくれる同志が

 後に続くのはないか。

 若さもあったのだと思います。

 とにかく自分と、巻き込めるだけの人間は

 巻き込み変えてゆくべきだ、

 われわれはそう決断に至ったのです。


 燃える日々でした。

 街頭でパフォーマンスをしたり、

 ワークショップを行ったりしながら

 人を変えることに尽力しました。

 死ぬ気で活動した甲斐あって

「 荻窪アクターズスクール」の前身である

「劇団宇宙そら」が生まれました。


 宇宙の劇団形成はすこし特殊です。

 作品を世に送り出すことを軸に置く

 一般劇団とは異なり、変わりつつある

 役者自身を作品とし公開する試験場と

 なってました。

 自分の欲望のために働くのは嫌でしたし、

 他人の欲望のために働くことにも

 抵抗がありましたから、

 この道が閉ざされていれば

 私はもっとはやくに逝っていたと思います。

 世の中には意外と多く

「人間嫌い」「自分嫌い」がいるものです。

 時代性もあったのでしょうが、

 偶然にも仕事として成立したからこそ

 ここまで存続できたのでしょう。


 劇団設立から2年、突然ムライが倒れます。

 末期の大腸がんでした。


 お金もなく医者嫌いだったムライは

 ほとんど病院に通うことなく

 がんと闘う道を選びました。

 人間を知るうえで、自分は格好の

 サンプル材料になると言い切り

 生徒らに自らの病状を晒しました。


 壮絶な闘病生活のはじまりでした。

 ある日、自身の身柄を教室へ運ばせ、

 死ぬ瞬間をみせる

 ワークショップを提案しました。

 わたしは反対したのですが、

 彼の熱意に根負けし 

 実際そうすることにしました。


 1日目 痛みで気を失い、

 2日目には、また息を吹き返しました。

 そして3日目の晩、

 ついにその日がやって来ました。


 実際目の前で人が逝くところをみるのは、

 生まれてはじめての経験です。

 魂が抜けおちる瞬間というのが、

 これほど神秘的なものとは

 思いもしませんでした。

 圧倒的存在感。どんなに優れた演技以上に

 人間味に溢れ 心を鷲掴みにする 

 衝撃の一瞬がそこにありました。


 亡くなる前日、

 ムライはわたしにこういいました。


 「 必ずここへ戻ってくる。

    その時が来るまで 待つように 」と


 わたしは彼の言葉を信じ待ち続けました。

 そして10年目にして

 ようやく木崎があらわれた。


 はじめて逢ったとき 彼はいいました。

 「 ただいま 」と。

 その一言でわたしはすべてを悟りました。


 彼は決して昔の名を名乗りませんでしたし、

 わたしから聞くこともなかった。

 でも、それでいいのです。

 互いに通じておりましたから。


 以上、走書、乱筆の程ご容赦ください。


 最期になりましたが

 この度は「無人劇」をご鑑賞いただき

 誠に有難うございました。

 無人になりかわり”無人派”代表として

 お礼申し上げます。


 今後の皆様のご清祥を次界より

 ご期待お祈り申し上げます。


(※次界 = 侭 造語で「現世の次の世界」「死後にある別世界」のこと)


     拝具


         髙井 依子


 

       ・  


 髙井の手紙からまた新しい情報が得られたことで出版を一時見直すことにした。一点は、「無人劇」が劇団宇宙そらの手によって陽動されていたこと。もう一点は、無人の中身の候補となるムライの存在の発覚である。大衆誌がこぞって無人の正体を暴こうと、あることないことゴシップ記事をでっち上げてはいるが、どれも的外れで信憑性に欠けるものばかりであった。それに比べ 髙井の告白はかなり信用できる。命を捨ててまで伝えているのだから。

 

 ところがである。さらにまた新しい情報が飛込み、事態が転変する。確証を得ようと他の生徒(劇団員)にも取材を重ねるうち、思いがけず別の声が聞こえてきたのである。

 

 元「 荻窪アクターズスクール」出身で、今ではアダルト業界で知らない人はいないほど売れっ子となった黒木しおりの証言が発端であった。  

         

 噂ではかなり自信家と聞いていたので少々緊張したが、実際会ってみると気配りできるとてもやさしい女優かただった。

 

− 今回はご多忙のなか 貴重な時間をいただきありがとうございます


「 いいのよ。いろいろあることないこと書かれちゃって迷惑してるの。誤解を解きたいから。 」


− やはりデマでしたか


「 訴訟を起こすだなんてまったくの出鱈目。記者さん想像豊かすぎで楽しく読ませてもらったけど。 」


− 特別メニュー参加されたんですよね

 

「 もちろん。やらされてなんかないわ。ぜんぶ自分で望んだことよ。 」

 

− 他誌でも内容に触れておりましたが、もう一度わかりやすく、ご自分の口から説明いただけますでしょうか

 

「 そうよね。そこだけ面白おかしくクローズアップするじゃない、芸能記者さんて。確かに密度の濃い時間過ごしましたけど、あれもワークショップの一環だから。発声練習とか、即興芝居とか、そういうのと並んで自分を高めるための精神肉体修行としてやっただけ。そりゃあ好きよ。今もこんな仕事やってるくらいだから。 」

 

− 無人となさったとか

 

「 何あらたまっちゃって(笑)ね。ちょっと変わったやり方だけどとても勉強になったわ。あの時間に戻れるなら今すぐにでも戻りたいくらい。最高に幸せだった。

 これ、わたくしの持論ですけど肉体からだは楽器のようなもんだと思うの。楽器のうまい人って、毎日楽器に触れて練習したり、メンテナンスしとかないと、うまくプレイできないでしょう。肉体からだもいっしょ。欠かさずお手入れしながら、練習もする。一人もアリだけど、やっぱりセッションが楽しいじゃない?

 セックスはセッション。お相手の肉体がっきがあってのことだからもちろん誰でもいいってわけじゃないのよ。演奏お上手な殿方の方が自分も乗るしね。 」

 

− 無人は最高の楽器ということですか

 

「 ストラディバリウス並みよ(笑)ミステリアスだしとってもスリリング。あ、誤解しないで。陰茎ものが大きいとかそういう意味じゃないの。多くの殿方様が勘違いなさってるみたいだから敢えて言いますけど、セッションの良し悪しは陰茎もので決まらないから。あくまでセンスの問題。勘の鈍い殿方とは何も感じない。導入としてお顔は見ますけど、それもプラスαの材料くらい。結局、才能じゃないかしら。 」

 

− 無人を愛してましたか

 

「 愛? ぷっ、はははっ くだらない。あなた面白い方ね。今どきセックスに愛とか、くっふふ ごめんなさいホント でも良くってよ 男はそれくらい紳士的でなきゃ。 」

(タバコ1本吸わせてもらっていいかしら)

(どうぞ)

「 愛、愛ねえ。わたくし仕事としてやってますでしょう。そういうの考えなくはないんだけど、取り憑かれたら終わりだから。髙井先生はそこを演技指導してくださったと思ってる。

 セックスの最中、お相手を愛してるとは思います。愛があってはじめて濡れるから。でもそれは一過性のもの。その時間を愛してるといってもいい。一瞬、一瞬が炎なの。よ。 」


( ※黒木は自身のプライベートでもセックスを動画として有料配信し、約10万人のチャンネル登録者をもつ。その作品は彼女のいうようにダンスのような躍動感があり芸術作品としても高い評価を得ている )   

          

− 話を戻しますが、ワークショップの具体的内容をお聞きしてよろしいですか  

      

「 精神肉体修行と言いましたでしょう。普通に交わるのとはちがうの。目的は無人とわたくしは別にあって、わたくしは彼をイカせると勝ち。でも彼は逆に落ち着かせるの。イカなければ彼の勝ちよ。

 はじめの彼はまだ自分を自分でコントロールできない状態だった。だからどうしても性欲が制御できないのね。無人には鉄の心臓が必要だったんじゃないかしら。自分を超越する何か、肉体からだ本位に動かされるのではなく精神のみで肉体からだを操れる無人を完成させたかった。

 まだ彼は、肉体からだの使い方もよく分かってなくて、まるで赤子同然だったわ。それを手取り足取り舐めるように‥。最終は彼の勝ちね。ぜんぜん勃たなくなって、でもそれが悔しいっていうより感動までしちゃって。  」

 

− それは髙井先生のメソッドなんですか

 

「 え、そうだけど、なぜ? 」

 

− 実は、彼女からこんな手紙をいただきまして‥

 

(黒木は黙って手紙を受け取り、しばらく無言で目を通した。そしてゆっくり重い口を開く)

 

「 ムライさん‥聞いたことある。でも、これ、彼女の妄想かも。 」

 

(耳を疑った。いったいどういうことだろう)

 

− 詳しくお聞かせ下さい

 

「 わたくしもそう古くから教室にいないので、確かではないんだけど‥

 

 髙井先生は、ずっと独身で、これまでずっとそれらしいパートナーはいなかったはずよ。劇団おつくりになられたのも、単身インドへ渡り開眼したのがきっかけだとか。

 でもムライという名前は何度か。時折、空をみつめてその名前を口にしてるところを見ました。 」

 

− 待ってください 、ということですか?

 

「 それはわかりません。ただこの、死をみせつけるあたりの話は、一度も聞いたことがない。


 あーこれ、言っちゃっていいのかな。わたくし呪われるかも。でもきっと髙井先生もバレること見越してこの手紙書かれたんだと思う。そういう人だし。ね、そうでしょ髙井先生。


 ムライクニオというのは、おそらく先生のお造りになられただと思います。こ自分のなかで明確にかたち造られた実際いると思い込んでいる男性。信じてはいるけれども実際本当に会えたとしたら あなた どうなさいます? 」

 

− 木崎、、ですね

 

「 そう、突然彼が何の前触れもなく目の前にあらわれた。きっと彼女は悟ったのだと思います。この男こそムライに違いない、と。 」

 

− いるはずないのに、ですか

 

「 そう思えるだけの技量がわれわれにはあるの。特に先生は妄想のスペシャリスト。これまで多くの役づくりを経験なさいました。思い込みなくして役は演じきれません。 」

     

− ちょっと待ってください その愛するムライに黒木さんをというのは理解が追いつきません

 

「 無人の才華を試していたのだと思います。自分の理想とするムライに叶う人間であるのかどうか、本物のムライになれるのかどうか。‥じつはわたくしの後に、最終奥義という実演を先生が直々なさいました。 」

       

− 最終奥義??

 

「 わたくしの色香で機能しなくなった陰茎ペニスを もう一度、先生の肉体からだでもって甦らせる義です。先生だけに反応することで先生だけのものとなるのです。密室で行われましたから、状況は想像の域を出ませんが、確かにわたくしは聞きました。「ムライ」と絶叫する先生の喘ぎを。 」

 

− 最後にひとつだけお聞かせください

  黒木さんは無人の正体を誰だとお思いですか


「 興味深いわね。ほんとうに、いったい何者だったのかしら。ひょっとして本物の悪魔?神だったのかも。(神とのセックスなんて最高じゃない(笑))

 それか木崎本人。人間の想像力は無限大ですもの。あそこまで成り切れたら、それはそれですごい才能よね。


 わたくしはもうしばらくこの肉体がっきで楽しむつもりだけれど、いづれ死んだらもう一度無人と目合まぐわいたいわ。今度は魂だけの存在として、ね。 」                                     

 





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