第73話 燐蛾(リンガ)
この日は鳴海が大阪の事務所にいる予定になっていたのだが、東京事務所で急用が入ったとかで、鳴海は直ぐに東京に向かった。
その事を知らなかった一人の男が大阪の事務所に現れた。黒い服に黒いコート。それもヨレヨレになったコートで。
一見するとホームレスにも見える。ただ違うのは冷たい眼をしていた事だ。その目を見た者は皆寒気がしたと言った。
その男は、北斗トラブルシューティングの、向かいの電柱の陰から様子を伺っていた。
『北斗安全開発協会』の本部と『北斗芸能保安協会』は商売柄、大阪北の新社ビルに移転させていたが、『北斗トラブルシューテング』だけ以前の場所に残してあった。
これは何故か。鳴海の一種の拘りかも知れない。この種の相談は結構切羽詰った人が多い。そして然程裕福とも言い難い人達が被害に合う。
だから鳴海は入りやすい入り口にするんだと言う事でこのくたびれた事務所を維持していた。
「あれが北斗トラブルシューティングか。中にいるのは一人か。女だな。どれ一つ、本番前に女の血潮でも啜らせてもらうか」
そう言ったのは、大槻源蔵が放った燐蛾と呼ばれる男だった。この男、異様に手足が長い。それに指の爪が黒く伸びていた。
二階の窓が開いている事を見て取ったこの男は、樋を伝って駆け上がり、ヤモリの様に壁を這って窓に飛び込んだ。
その時リカが退屈して、身体でも動かそうかと椅子から立ち上がった所だった。
いきなり飛び込んできた男が、右手の爪でリカの胸を横一閃した。本来ならこれでリカの胸は横にばっさりと切り開かれていたはずだった。
しかしリカは咄嗟に後ろにかわした。ただ余りの一瞬だった為、間合いを少し切り損ねて、軽い切り傷が胸についた。その男の爪は刃物そのものだった。
それで怯むリカではない。その一瞬でまた切り替えして相手を窓の外に蹴り出していた。
辛うじて向かいの壁にしがみついて衝撃をかわした男は、嬉しそうに笑って姿を消した。
窓際まで行って相手が逃げたのを確認したリカは、知らせなくてはいけないと電話の所まで来たが、息が苦しくなって倒れてしまった。男の爪には毒が塗ってあったのか。
辛うじて目を開けたリカの目の前にいたのは詩芽だった。
「どうしたんですか、リカさん。しっかりしてください」
と詩芽が叫んでいたが意識が朦朧としてよくわからなかった。ただ胸の傷を指差して毒とだけ言ってまた意識を失った。
どうしていいのかわからない詩芽は、鳴海に電話して指示を仰いだ。毒でやられたと理解した鳴海はこう言った。お前の気で治せと。
「そんな、私は医者じゃないんですよ。治し方なんてわかりませんよ」
「人間の体には治癒能力がある。それを気の力で活性化させるんだ。ただし今回は毒でやられてるから外からの治癒では無理だ。リカの体の中の治癒力を高めてやれ」
「恐らくリカはリカで、今自分に出来る事をやっているはずだから、それを援助してやれ」
「どうすればいいんですか」
「その位置だと丹田に手を当てて、リカの体の中に気を注ぎ込め。ありったけのお前の気を。ただしゆっくりやれ。リカの気と同調させるんだ。お前ならやれるはずだ」
訳がわからないまま。ともかく鳴海が言うようにやってみた。
冷たかったリカの体に少しずつ温もりが戻ってきた。そしてリカが目をさました。
「ありがとう、先輩が救ってくれたのね」
「私は何も」
リカは何とか立ち上がって、身体中に気を巡らせて傷口から気を放出した。
その時同時にどす黒い血が胸の傷口から吐き出された。それは体内で隔離した毒だった。
「ふー、やっと解毒出来たわ」
「リカさん、何なの今のは」
「解毒の法よ。今度先輩にも教えてあげる。戦場では有効な手段よ」
「それにしてもあのイモリ野郎。今度会ったら絶対に殺してやるから」
恐ろしい事を言っていた。燐蛾は燐蛾で肋骨が3本ほど折れていた。
「あの女意外と出来るようだが今はもう死骸だろう。あの毒に解毒剤はないからな。この傷を癒したら今度こそ鳴海とか言う男を刈るか」
燐蛾の毒は蠱毒(こどく)を用いていた。強力な毒を持つ虫や小動物達を同じつぼの中に入れて、共食いさせ生き残った最強の毒を自分の体内に取り入れて凶器とした、一種の呪術だ。
それをロー大人が行って殺人鬼に仕立て上げた。だからその毒には解毒剤がない。
ではリカはどうして解毒したと言うのか。いや、リカは解毒などはしていない。
毒その物を内気功で隔離して体から排出したのだ。だから解毒剤の必要性はなかった。
鳴海はまた新たな敵が現われたなと思った。今度は誰の手下なのか。
リカにここまでの手傷を負わせるとは、それなりに出来る奴なんだろう。特に詩芽には注意させておかなければと思った。
リカも誌芽もまともに戦ったら、決して引けは取らないだろう。しかしどうやら相手はそう言う類の相手ではなさそうだ。
奇襲と闇に紛れて襲ってくる暗殺者の類だ。そうと分かればそれなりに対処の仕方もある。
奇襲攻撃など戦場では極一般的なゲリラ戦術でしかない。そんな物を何度も潜り抜けて来ている鳴海やリンなら恐怖の対象にすらならなかった。
ただリカは、この日本と言う環境に慣れ過ぎて少し気が緩んでいたようだ。
しかし彼女とて歴戦の戦士だ。その気になればどんな状況でも引けを取る事はないだろう。
ただ誌芽はそう言う事にはまだ慣れてない。だから狙われる穴があるとすれば、それは誌芽と言う事になる。
ただ最近の誌芽の気の操作は、更に磨きがかかってきている。その気を持ってすれば、防げな事はないだろうと鳴海は思っていた。
ただ鳴海は誌芽にも、解毒の方法を教えておいてやらなければいけないなと思っていた。
ある日の夜、大阪に帰った鳴海は一人で大阪城公園に向かって歩いていた。誰かが付けているのはわかっていた。
ただこの感覚は警察でない事だけは確かだ。もっと陰湿な邪悪な気だった。それも残忍な意識を持った。ならこれがこの前リカを狙った奴かと思った。
「おい、そろそろ良いんじゃないのか。俺をやりに来たんだろう。誰に頼まれた」
「ほ-わかったのか。大したもんだ。意識は消したはずだがな」
「お前の意識なんざ、だだ漏れなんだよ。それで消してるつもりか」
「どっちみちお前は死ぬんだ。教えてやるよ。御前様だ」
「ふーん。あのクソ爺か」
「死ねー」と言って例の毒爪の一閃が鳴海の顔を襲った。しかしその手は鳴海に握られたいた。
「これか、うちの若い女の子の胸に傷をつけてくれたと言うのは」
「惜しかったな。俺が血をすすってから殺してやろうと思ったんだが先に行ってしまってよ」
「死んじゃいねえよ。ピンピンしてるぜ。あいつがそう簡単にくたばる玉かよ」
「馬鹿な、あの毒に解毒剤などないはずだ」
「解毒剤だけが治す方法だとでも思っていたのか世間知らずだな、お前は。なら、こう言うのはどうだ」
そう言って鳴海は握っていた手首に気を集めた。その瞬間燐蛾の手首が砕け散った。「ギャー」と燐蛾は悲鳴をあげた。
「へー、お前でも悲鳴はあげるのか。どうだい手首をなくした気分は。これでその手で切り裂く事はもう出来ないだろう」
これはまずい。相手が悪過ぎる。こんな男だとは聞いてないぞと燐蛾は思った。ここは一旦引いて作戦の建て直しだと思って走り出した。
途中まで走って立ち止まった。正面に何かいる。それも途方もない何者かが。
体を低くして周りの様子を伺った。すると一人の男が歩いて来た。それも何事もないように。しかし恐ろしい男だ。この男から発せられる気は。
その時後ろから声が掛かった。
「ようリン、来たのか。こんな雑魚一匹、俺一人で十分だったのによ」
「そうかも知れませんが、一応は俺の相棒のしかも女の綺麗な胸に掠り傷を与えた相手ですからね。挨拶だけはして於こうと思いまして」
「そうかい。なら好きにしていいぜ」
「あれ、もう片手を潰してしまったんですか。それは俺がやろうと思ってたんですがね。でもまだもう一つ残ってますよね」
「なんだと」
そう言った時には、リンは既に目の前まで来ていて残った手首を掴んでいた。そして鳴海がやったのと同じ様に燐蛾の手首を砕いた。
「グワー」
と燐蛾は叫んでいた。リンはそんな事には構わず燐蛾の両手首を握って気を通した。
「これでお前の血は止まったはずだ。出血死する事はないだろう。どれだけ掛かるかは知らんがお前の飼い主の所に戻って伝えろ。俺達に手を出したらどうなるか。次は自分の体で体験してみろとな」
「ところで連星と言うのはお前か」
「連星だと。連星様はわしの及ぶ様な方ではないわ。例えお前達と言えども勝てないだろうよ。覚悟しておく事だな」
そう言って燐蛾は走った。走って走った。こんに怖いと思ったのは生まれて初めてだった。親を殺した時ですら怖いと思った事はなかった。
しかし今は違う。あれは化け物だ。俺以上の化け物だ。敵対出来る相手ではない。いや、決して手を出してはいけないものだと。
何日掛かったのか、何処をどう走ったのかそれすら覚えてはいない。
普通の人間なら途中で死んでいただろう。野山を駆けて、池や川の水をすすり昆虫を食してここまで来た。
やっとの事で燐蛾は大槻源蔵の屋敷に辿り着いた。もう身も心もボロボロだった。舌でインターホンのボタンを押し御前様への謁見を願い出た。
「燐蛾よ、どうだった。鳴海をやったのか」
「いいえ、御前様。申し訳ございません。この有様です」
と両手を見せた。
「それはどうした」
「鳴海に右手を、その仲間らしき男に左手をやられました」
「二人に襲われたのか」
「いいえ、一人一人に」
「何だと、それほど鳴海と言う男は強いと言う事か」
「残念ながら到底私の及ぶ所ではありませんでした。しかもその仲間もまた鳴海と同等か、それ以上かと」
「事務所を襲いました折、女が一人おりましたので胸に傷をつけましたが、その女の力、恐らくは私と互角ではないかと」
「傷をつけたと言ったな。では死んだのか」
「いいえ、鳴海の言葉では蘇ったようでございます」
「お前の毒から蘇ったと言うのか」
「その様に理解いたしました」
「御前様、あれは人ではありません。化け物です。容易にお手を出さらぬ方がよろしいかと。もし相手が出来る者がいるとしましたら、それはあの方しかございません。そして伝言がございます」
「なんだ」
「『俺達に手を出せばどうなるか。次は自分の体で体験してみろ』と。御前様、ご慈悲がございます」
「わかった。おい、やれ」
「はい」
銃声と供に燐蛾の額には穴が開いていた。
「鳴海とはそれ程の男か。しかもそんな者がもう一人いるだと。面白い。これは天下分け目の大決戦になるかも知れんの」
「川路、ロー大人に預けたあの者の仕上がり状態を聞いてみよ」
「まさか御前様、またあのお方をお使いになさるおつもりでは」
「こんな時の為の男であろうが」
「しかし、あのお方は一度意識が混乱されてございます」
「わかっておる。だからこそロー大人にあずけたのであろうが」
「しかしもし今度、あの様な事がございましたら、あのお方の自我がなくなるかもしれません」
「構わんよ。それがわしの為になるんであれば、あれも本望であろうよ」
「はい。畏まりました」
執事の川路はロー大人の元に行って、
「ロー先生、いかがでございましょうか。御前様がどうかとお尋ねでございますが」
「順調に仕上がっているとお伝えください。ただもう少し時間をいただきたいと。今度は自我に乱される事なく完全な殺人機械になる事でしょう」
「わかりました。そうお伝えいたします」
「そうか、ロー大人はそう言っていたか。それならもう直ぐあの鳴海に引導を渡してやれそうだな」
「でも本当に宜しんでございますか。ご自分のお子様をあの様な殺人鬼に仕立てて」
「あいつもそれを望んでいる事だろうて」
大槻源蔵の息子と言えば、太井峰子の兄、連星と言う事になる。それがロー大人と言う者の手で、完全な殺人鬼に仕上げられようとしていた。
このロー大人と言うのは、闇試合で帝王のセコンドで付いていた人物だ。
帝王をあそこまで強い戦士に育て上げたのもまたこのロー大人だった。そして中国の闇社会の番犬の者達も。
しかしあの試合で帝王は敗れた。言ってみればロー大人の力がリンに及ばなかった事になる。そして鳴海にも。
今度こそ自分の持ってる力で最強の戦士を作ってやると思っていた。そしていつの日か、あのリンや鳴海を葬ってやると。ローはあの時の屈辱は、一生忘れなまいと思っていた。
このロー・アブンドーと言うのはインドの密教層だった。だが道を外して邪神教者になった。
その罰として身体中に封印を施され、筏に縛り付けられて海に流された所を航海中だった大槻源蔵に助けられた。以降は彼の庇護を受けて、闇の仕事の手助けをしている。
彼には不思議な力があった。常人の筋肉組織を強化し、超人に変える事が出来た。
帝王もそうして産出した彼の傑作の一つだった。しかしそれはリンによって破壊されてしまった。
今度こそ誰にも負けない超人にすると、連星に全精力をつぎ込んでいた。
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