第65話 閑話1 あるバーでの話1

 その日の夜、鳴海は久し振りに行きつけのバーに立ち寄っていた。


 東京に出てきて以来、こちらで家も一軒買った。勿論週に何度か大阪に行く事もあるが、最近ではやはり東京にいる事の方が多くなったので、それなりの居場所を確保した。


 鳴海はタワーマンションと言うのが好きではなかったので低層住居のマンションにした。一応港区に3階建てのビルの2階に3LDKの部屋を確保した。


 鳴海は独り身なんだからそんなに部屋数はいらないはずだが本人が3LDKが良いと思ったんだろう。


 そう言う意味ではここもそうだ。別に酒が飲みたくて来ている訳ではない。かと言って酒が嫌いでもないしまして下戸ではない。


 まぁ、下戸なら始からこんな所には来ないだろう。鳴海は何となくこう言う酒場の雰囲気が好きだった。


 戦場でも戦いが終わった後では、戦士達が酒場で乾杯し飲み明かす事も多くある。


 それだけ普段は神経をすり減らして戦っている。そう言う気晴らしや、息抜きがないと戦士としても神経が持たない。


 だから酒は戦士にとって必要不可欠なものだ。勿論それで戦闘が出来なくなるほど酩酊してしまうのは論外だが。


 鳴海も戦場ではその手の酒場にはよく顔を出した。ただし群れて騒ぐと言う事はない。一人静かにバーカウンターで飲んでいると言う事が多かった。


 それに相手が鳴海とわかると、皆恐れて一緒に飲みたがる者はいなくなる。


 無理もないだろう。傍にいるだけで災厄を振りまくと言われた『死神』の横にいたがる者など誰もいないはずだ。唯一『ツイン・ドラゴン』と呼ばれた頃の相棒リンを除いては。


 ともかくここは、鳴海に取って東京で見つけた数少ない憩いの場所だった。


 マスターもそこそこに年配で、酒に関する知識は豊富で腕もいいが、余計な事は何一つ言わない理想的なバーテンダーだった。だから鳴海はいつもここで一人静かに酒を飲んでいた。


 鳴海はフランスの外人部隊にいたのだからやはりブランディ党かと思いきや、ブランディーでもスコッチでもなくバーボンを飲んでいた。


 しかも銘柄は「ジムビーム」の「ブラックラベル」だ。これはアメリカの酒だ。


 「ジムビーム」は、ケンタッキー州、クラーモントで蒸留製造されているバーボン・ウイスキーだ。


 鳴海はこれを好んで飲んでいる。ヨーロッパの酒よりもアメリカの酒に馴染みがあると言う事だろうか。


 バーボンは好き嫌いの多い酒かもしれない。トーモロコシ酒独特の匂いと味がする。しかし好きな者には極上の一杯だ。


 この日も一人静かにバーボンを飲んでいると、一人の女性客が入って来た。一見さんだ。


 こう言うバーで女性の一見さんと言うのは珍しい。普通は誰かに連れられてと言うのが一般的だろう。


 スラッとした髪の毛の長い女性だった。身長は168センチくらいか。薄い水色のワンピースに白い上着、それにアクセントに首にスカーフを巻いていた。


 それが結構様になっている。服のセンスは凄くいい。ただしスカートの裾が少し濡れていた。


 外は小雨がぱらついている様だったのでそのせいかとも思ったが、それにしてはその他の所より濡れ方が多い様だ。


 なるほど走って来たのか。それなら雨宿りのつもりで入ってきたのかも知れないが、そうではないかも知れないと鳴海は思った。


 その日は鳴海の他には、テーブル席に一組のカップルがいるだけだった。その女性は周りを見渡して、少し安心したようにカウンターに近寄って来た。そして鳴海の隣に来て、

「あのー宜しかったら隣、ご一緒させていただいても構いませんか」

 と言った。

「ええ、別にいいですが、僕の様なオジサンでよければ」

「ご冗談がお好きなんですね。まだお若いのに」

「そう見えますか。それは嬉しいですね。どうぞ」


「何にいたしましょう」

「そうですね。私には何かブランディーを」

「では『カルヴァドス』などはいかがでしょうか。リンゴを原料としておりますので甘くてフルーティーな香りを楽しめます」

「じゃーそれをお願いします」

「承知いたしました」


「それはバーボンですか」

「よくわかりましたね」

「ええ、香りが」

「気になりますか」

「いいえ、別に。昔の彼氏がよく飲んでましたので」

「昔の彼氏と言いますと、今はお一人と言う事ですか」


「あれー早速ナンパですか」

「困りましたね、そう取られては。そんなつもりはないのですが」

「冗談ですよ。そんな気配は微塵もありませんよ、貴方には」

「それもまた困りますね。これでも一応は男なんですが」


「私ね、何となくわかるんですよ。私に興味を持ってるかどうかって。特に私の身体に」

「なら、喜ぶべきですかね、そう露骨でなくて」

「そうかも知れませんね。でも貴方なら」

「止めておきましょう。その気になったら困りますので」


 これはあくまでバーにおける大人の男女の言葉遊びだ。まぁ、中にはそれをまともにとる者もいるかも知れないが、一応は社交辞令程度に考えておいた方が火傷をしなくて済む。


「ところで何処かでお見掛けした事がありますか」

「いいえ、でもよくある顔ですから」

「そうですか、でも何処かでお目にかかった様に思うのですが」

「きっと他人の空似でしょう」

「そうですかね」


「あのーどんなお仕事をなさっていらっしゃるんですか。もし差支えがなかったらですが」

「大した事はしてません。言ってみれば水商売の様なものです」

「水商売って、ここの様な?」

「僕の言う水商売と言うのは不安定な職業と言う意味での水商売です」

「そうですか。それなら私も似た様なものかも知れませんね」

「そうですか、それではお互い良い目が出る様に祈って乾杯しましょうか」


 そう言って鳴海とその女性はグラスを合わせた。


「そろそろいいですかね」

「何がでしょうか」

「いえ、私はそろそろお暇しようと思いまして、でも貴方はもう少しここにいらっしゃった方がいいかも知れません。雨は止みましたがまだ若干の暗雲があるようですから。マスターお勘定を。こちらの分も付けておいて下さい」

「それは困ります」

「いいえ、奢らせてください。僕の様な者に付き合ってくださる女性は最近滅多にありませんので。それではお気をつけて」


 そう言って鳴海はバーを出た。


「あのー、あの方はどう言う方なんですか」

「そうですね、頼りになる方。そう言う方でしょうかね」


 それ以上バーテンダーは何も語らなかった。


「ご馳走様でした。あのブランディ、本当に美味しかったです」

「行かれるんですか。もう少しここにおられた方がいいんではないですか」

「いえ、大丈夫です」


 そう言ってその女性は鳴海を追いかける様に出て行った。


 鳴海がバーを出て少し歩いていると、後ろから追いかけて来る足音がした。


「やはり来ましたか。困りましたね。まだ空はすっきりしてないんですがね」


 鳴海に追いついた彼女は横に並び、何も言わず鳴海の腕に自分の腕を絡ませた。


「いいんですか。僕では貴方の昔の彼氏にはなれないかも知れませんよ」

「いいんです。ただこのまま一緒に歩いてくだされば」

「そうしたいのは山々なんですがね、どうもそうさせてくれない人達がいるみたいです」


 少し先の物陰から3人の男達が飛び出してきた。そして鳴海達を取り囲んだ。


「誰かと間違っていませんか。僕に心当たりはないのですが」

「そうかい。ならその女を置いて直ぐに消えな。そうすれば怪我をする事もないさ」

「それも困りますね。あなた達は『窮鳥懐に入れば猟師も殺さず』と言う言葉を知ってますか」

「それがどうかしたかい」

「今がその状況なんですよ。ですから僕としてもこの人を守らなければなりません」


「馬鹿だな、てめぇも。何も粋がって病院に行く事もねぇのによ」

「そうですか。でもそれはあなた達の方かも知れませんよ。言っときますが僕は強いですから」

「なめてんじゃねーぞ。このクソが」


 そう言ってまず左端の男が殴りかかって来た。その時鳴海は彼女を自分の後ろで庇って、殴って来た男の右腕を、自分の右手で外から受けてそのまま手を掛けて、下に回転させて男を地面に叩きつけた。


 男は恐らく何をされたのかもわからないだろう。しかしその衝撃は物凄く、息さえ出来ない状態だった。鳴海が軽く横腹を蹴ってやると、ゲッフっと息を吐き出した。


 それを見た中央の男も正面から殴って来た。今度はそれを受けるのも面倒だと、鳴海は身体を半身にして突きをかわし、一歩踏み込み相手の左の首に手をかけそのまま振り投げた。


 相手は宙を舞い一回転してこれもまた地面に叩きつけられた。勿論起き上がって来る事など出来なかった。


 最後の男は左足を踏み込み、大きく右の回し蹴りを放って来た。


 しかしこれもその男が足を上げた刹那、鳴海は踏み込み片足立ちになった男の軸足を刈って倒した。そして倒れた男の腹部を蹴り下ろしてのばした。


 三人とも全て一撃だ。それで全員が戦闘不能になった。鳴海の言った通り鳴海は強かった。


「じゃー行きましょうか」

「あのー貴方って、一体」

「あれ、困りましたね。まだいましたか」


 そう鳴海が言うと、車の中からもう二人が出て来た。一人は三つ揃えのパリっとした背広を着たインテリ風の男だった。しかし何処となく影はあった。


 もう一人はラフな服装で、結構服と体の間に余裕のある物を身に付けていた。これなら動き易いだろうと鳴海は思った。つまり実践慣れしてると言う事だ。


「困ったものです。もう少し紳士的に出来なかったのですかね。この人達は」

「あなたなら紳士的だとでも」

「ええ、彼らよりはね。どうでしょう。手を引いてはいただけませんかね。こちらもこれ以上手荒な真似はしたくありませんので。ただ私達としましては彼女に元の場所に戻ってもらえればそれでいいのです」

「しかし彼女はそれが嫌で逃げたのではないのかな。どうする君、帰りたいかい、そこに」


 彼女は何も言わず震えながらただ首を横に振っていた。そして鳴海の手を握り締めた手からも震えが伝わって来た。余程この三つ揃えの男が怖いのだろう。


「決まったな。彼女は帰りたくないとさ」

「それは困りましたね。私共としましてもここで手を引く訳には行きませんので力ずくでも引き取らせてもらいます」

「それじゃーさっきの奴らと何もからわんのだがな」

「それは貴方がされた選択です。私としてチャンスを差し上げたつもりなんですがね」

「悪いな。どうも俺は天邪鬼な性格でな。それとさっきの奴らにも言ったが俺は強いぞ」


 この時既に鳴海の言葉使いが変わっていた。それに気づいた者がいたかどうか。


 そして鳴海は伊達メガネを外した。それは鳴海が『やくざ狩り』になった事を意味する。


「仕方ありませんね。樫野、お前の出番です」


 そう言われた瞬間、その男、樫野は何の躊躇もなく突き蹴りの連続攻撃を掛けていた。それこそ息をもつかさぬ攻だ。しかも樫野の靴の先端には鉄が仕込まれていた。


 こんなもので蹴られたら、骨は軽く粉砕されてしまうだろう。それだけではなかった。どうやら前腕にも細長い鉄板を埋め込まれたプロテクターを巻いている様だ。


 これなら刀やナイフで切りつけられても切れる事はないだろう。まさに喧嘩をする為に生きている様な男だった。


 普通ならこの攻撃で殆どの者は倒れているはずだった。しかし鳴海にはかすりもしなかった。


 流石の樫野もやっと相手の技量がわかった様だ。そこで懐から取り出したのはコンバットナイフだった。あれは確かクリスリーブ グリーンベレーナイフ。傭兵にも愛用者がいる。


 それを構えた。なかなか様になっている。そこそこには使えるのだろう。樫野はそれで果敢に攻めて来たが、こと戦闘にかけては鳴海の方がプロだ。


 この程度のナイフの使い手なら五万といる。鳴海は白兵戦で後れを取った事は一度もない。しかも何人でかかって来てもだ。正直この程度では相手にもならなかった。


 これではらちが明かないと見た樫野は、玉砕覚悟で腰だめにして鳴海に突っこんで行った。


 それを軽くかわして、相手の左に出て、相手のナイフを持つ右手を左手で押さえ、同時に自分の右手を相手の中段に当てがった。


 そしてそこから寸勁を放った。その衝撃で樫野は数メートル吹き飛ばされて、ピクリとも動かなくなってしまった。これには三つ揃えの男も唖然として見ていた。


「どうする、お前もやるか」

「まさかね、これ程の人だとは思いませんでしたよ。それではこれでどうでしょうかね」


 と言った三つ揃えの手にはトカレフが握られていた。

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