第12話 詩芽の空手への挑戦
「ねぇねぇ所長、私、東京初めてなんですよ。うれしいいな」
「そうか」
「あれー嬉しくないんですか、こんな若くて可愛い子と一緒に旅行が出来て」
「それは違うだろう。仕事だ、仕事」
「ところで何処に行くんですか。東京と言っても広いでしょう」
「そうだな、確か下北沢だったかな」
「何で下北沢なんですか。もっと都心の方が良いんじゃないですか」
「何だおまえ、下北沢を知ってるのか」
「そんなに知ってるって訳じゃないですけど、やっぱりメインじゃないですよね」
「俺はそっちの方には行った事がないんで良くわからん」
「あれー所長、東京にいた事があるんですか」
「昔な」
「そうなんだ、知らなかったなー。もっと所長の事、教えてくださいよ」
「そんな事はどうでも良い、ともかく今はホテルにチェックインして、それから飯だ」
鳴海は渋谷の道玄坂の方にある SHIBUYA HOTEL IN と言う所に部屋を取った。勿論シングル二つだ。
そこからだと下北沢にも近い。ただ詩芽は、何でシングル二つなんですかとブツブツ言っていたが無視した。
その夜は久しぶりに二人で外食に出かけた。流石は渋谷だ、人が多い。道は人で埋め尽くされていると言う感じだった。そして人はみな浮かれていた。
しかしと鳴海は思った。こんな所で何かあったら、被害は膨大なものになるだろう。
何と無用心な国だと。生死の境を幾つも渡り歩いてきた鳴海からすれば、当然の事だろう。
今日は詩芽の要望で中華にした。食事を終えて、まだ時間もあったので少し繁華街を歩いて見る事にした。詩芽は腕を組みたそうだったが我慢しているようだった。
そんな時一つの通りで酔っ払いが詩芽にぶつかり、
「おー可愛いおねえちゃんじゃないか。どうだい、俺達と付き合わないかい。そんな貧乏人みたいな奴よりよっぽどいいぜ」
と言った。
「馬鹿じゃないのあなたは。人を見る目がないわね」
「なんだと、言わしておけば舐めてんのか」
「あんたなんか、舐める値打ちもないんじゃないの」
相変わらず詩芽は手厳しい。
「おい、この女やっちまえ」
そう言って三人が詩芽を取り囲んだ。
一見サラリーマン風だが、みんなそれなりに筋肉が発達していた。鍛えているんだろう。特に一番奥にいる奴は特別だった。
特徴的なのは首の太さだ。あれなら多少のパンチをもらっても耐える事が出来るだろう。
実践的な鍛え方をしてる様だ。と言う事はみんな何かの格闘技をやっていると言う事か。
「あんた、彼女の彼氏なんだろう。早く助けてやんなよ。どうにかされちゃうよ」
「助けるって誰を」
「彼女に決まってるじゃないか」
「それは違うな。助けなければならんのはむしろあいつらの方だろう」
「何言ってるんだよ、あんた」
そう言ってるうちにも、一人が詩芽に殴りかかった。しかしかすりもせず、反対に投げ飛ばされてしまった。
「このアマが」と言って二人目も掛かって行ったが、結果は同じだった。
「ねえちゃん、ちょっとはやるようだな」
そう言って三人目は空手の構えを取った。少々酒は入ってるようだがしっかりとしたスタンスだ。それなりに修練は積んでるようだ。
「あんた、あれはちょっとまずいよ。何とかしてやんなよ」
隣で「あれは確か養武館の奴じゃなかったか」
「そうだよ。武藤だよ。確か黒帯だよな」
「それだけじゃない、全国大会にも出てるぜ」
「あんた、ほんとうにヤバよ」
「空手の全国大会出場者か。どれ程のものか。見ものだな」
と鳴海は興味深く眺めていた。
武藤はランニング・キックから上上の二連打に繋いできた。これは流石と言えるだろう。
顔面なしのフルコン空手が敢えて上段を狙えると言うのは。
酒が入っていたからかも知れないが、これで相手が怪我でもしたら完全に傷害罪だろう。
そして次に、右の廻し蹴りに入った時には、詩芽は既にそこにはいず、その男の懐に入って軸足を払っていた。
武藤はそのままコンクリートの上に落とされて後頭部を打って気絶した。
それは詩芽が倒れる武藤の胸に手をあてがって落下を加速させたのだ。単純な技だが下がコンクリートでは百倍も強烈になる。
「行こうか」
「はい、所長」
そう言って二人は消えたが、見ていた者達は唖然としていた。あれはいったい何だったのかと。
「詩芽、空手と戦った感じはどうだ」
「そうですね、動きが大き過ぎますね。あれでは倒してくれと言ってる様なものです」
「だろうな」
翌日二人は朝から下北沢に向かった。
下北沢は活気のある街だ。生活もきっとし易いだろう。何しろ商店街がいくつもある。
それに若い人が多い。ただ洗練さと言う点では少し落ちるようだが。
前にもらったマネージャーの豊洲靖男の名刺の住所を頼りにここまで来た。
住所にあるビルは小綺麗なビルだったが、それほど高級なビルとは言えなかった。
まぁ仕方ないだろう。彼ら自身が弱小プロダクションだと言っていたのだ。こんなものなんだろうと鳴海は思った。
3F-Aと言う部屋に行ったが『エリハルコン・プロダクション』と言う名札は掛かってなかった。
どうしたのだろうと下の管理人に聞いてみると、もう何ヶ月も前に引っ越して行ったと言う。
鳴海は、そんな連絡は受けてなかったが、芸能プロダクションだ、きっと忙しいのだろうと思った。
管理人に移転先を知ってるかと聞いたがわからなと言う。
それなら仕方がない。先ずはマネージャーの豊洲に電話を掛けてみたが、『この電話はもう使われていません』と言うメッセージだった。
次に曽根亜里沙の携帯に電話を掛けたが、電源が切られていてつながらなかった。
その事を詩芽に話したら、
「えっ、曽根亜里沙ですか。私、彼女のファンだったんですよ」
「じゃーネットで今のプロダクションを検索してみます」
と言って直ぐに見つけ出して来た。流石は今の若い世代と言う所か。ただ何故か過去形なのが引っ掛かった。
その情報を頼りに、住所のある目黒に行ってみた。
やはりこの辺りは、一種のプロダクションのメインの場所と言う事になるんだろうか。結構大きなビルだった。下北沢とは大違いだ。
豊洲が成功したのかなと思った。しかしプロダクションの名前は『マルサン・プロダクション』となっていた。名前まで変えたのかと鳴海は思った。
受付で豊洲靖男の名前を出したら、
「えーと、その者は・・・」
と受付嬢が会社案内をページを何枚かめくっていた。
「その者でしたら資料室ですね。呼びましょうか」
と言うので「お願いします」と答えた。
しばらく待っていると豊洲が出てきたが、以前見た豊洲とは大違いだった。
精気がないと言うか、無精ひげも伸び、当時の精悍さは見る影もなくなっていた。豊洲はこちらに気づいて
「鳴海さん?鳴海さんですよね。お懐かしい。ご無沙汰いたしております」と挨拶だけはちゃんとしていた。
何となくオドオドした感じで回りを見渡し「あのー良かったら場所を変えませんか。向かいに良い喫茶店がありますので」と言うので、鳴海達は何も言わずについて行った。
喫茶店で改めて挨拶をし、詩芽を助手だと言って紹介した。
一体どうなってるのかと聞くと、申し訳なさそうに伏目がちに話し出した。
実は自分達のプロダクションは、今の所に買収されたと言う。
始めはイベントの協力やら賛助金とかの支援を受け、順調に行っていたが一つの不渡りが出て、その肩代わりをしてくれたのが今のプロダクションで、後は借金のカタに経営権一切を持っていかれてしまったらしい。
何となく乗っ取りの手口に思える。
それで曽根亜里沙はどうなったと聞くと、更に声が小さくなて、今のプロダクションの操り人形みたいになっていると言った。
全てここのマネージャーの指示通りに動いているらしい。
ただ亜里沙は歌う事が何よりも好きなので、歌える環境からは逃げださないが、このままでは心が死んでしまうと豊洲が言った。
詩芽が道理でと言った。以前は歌も上手いけど華やかさがあったのに、今はそれがないと言う。
なるほどファンと言うのは、そう言う所まで敏感に感じ取るものなのか。
じゃーどうしてもう一度、一からやり直さないのだと尋ねたら、あのプロダクションには、裏社会が絡んでいて逃げ出せないのだと言う。
鳴海が、一度亜里沙に会ってみたいのだがと言うと、それなら明日は確か誰かのゴルフのキャンペーンに出かけるはずだから、僕の車でお連れしますと豊洲が言った。
「是非、彼女に会ってやってください。今の彼女には誰も話せる人がいないんです。鳴海さんを見たらきっと喜ぶと思います」と悲痛な気持ちで語っていた。
「わかった。それじゃ明日の朝8時に俺のホテルで」と言う事にして別れた。
「でも所長ってすごいですね。曽根亜里沙と知り合いだったなんて。私もファンだったんですよ」
「それだ、何で過去形なんだ」
「えーっと、なんでかな。何となくかな。最近の彼女、昔の彼女とは変わってしまったから」
「どう変わったんだ」
「それがね、精気がないと言うか、華やかさも薄れ来てる気がするし、本当はもっとキラキラした人だったんですよ。それが何だかカバーされてるみたいで、歯がゆいんですよ」
「なるほどな」
そんな会話をしながら渋谷の駅を出た時だった、数人の男が取り囲んで
「悪いが道場まで付き合ってもらえませんかね」と言う。
一人は昨日詩芽が投げ飛ばした男だった。
そしてそこには嫌だとは言わせないぞと言う雰囲気が漂っていた。
詩芽と目でうなずき合って、「いいよ、行こうか」と言った。
場所は渋谷駅からそれほど遠くはなかった。
こんな所に道場を持ってるんだ、それなりに流行っているんだろうと鳴海は思った。
ビルは3階建てで、一階に大きな看板で『養武館』と書いてあった。
二階、三階も『養武館』が使用しているようで、ビル全部が『養成館』のものだった。これでは維持費だけでも大変だろ。
中に入って見ると立派な板の間の道場があった。一つのコーナーにはサンドバッグが三個ぶら下げてあった。
それもかなり大きなものだ。あれなら一個120キロは超えるだろうと思われた。
壁には名札が掛かっていてかなりの人数だ。200人はいるのか。
大したもんだと鳴海は思った。隣の詩芽を見てみるとそんなに緊張はしてないようだ。
それもそうだろう。有馬では死闘を演じたのだ。確かに詩芽は相手を殺してはいないが、相手は詩芽を殺す気でいた。
しかもそれが専門の傭兵だ。一切の躊躇はない。これを死闘と言わずして何と言えばいいのか。
詩芽はその戦いを勝ち抜いたのだ。既に度胸は十分ついている。こんな遊びの様な決闘で臆するはずがない。
『武藤よ、相手が悪かったな』と鳴海は心で言っていた。
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