口に出せなくても一つだ、なんて

「わぁ……良い香り」


 次の休日、早速先輩のお家で買ってきたルームフレグランスを開封。

香しい新緑が描かれたお洒落なデザインのカバーが示す通り、彩り豊かな草木の香りの中に仄かに爽やかな柑橘系の香りが顔を出す。

上品な甘さを纏った芳香がリビングを満たした。


「ちょっとだけ、こうくんに似てるの。 絶対これにしたいって店頭で思って」


「ハハッ、おれはこんなに良い匂いしませんよ」


「ううん、こうくんはこれより良い香りがする。 でも、この香りもちょっとだけこうくんを感じるから安心する。 だからすき」


「……そうですか」


 先輩の言葉はいつだって真っ直ぐで、衒いがない。

こうして不意に飾り気のない実直な言葉を贈られると、いつも曖昧に誤魔化してしまう。

覚悟ができてなくて他人事のように受け取った面をしてしまう悪癖、いつになったら治せるだろうか。

人やものに触れて同じようなことを感じた時、あなたに同じような言葉を返せるような自分でありたい。

いつも嬉しい、いつもありがたい、だから目を見てあなたにお礼を伝えられるように。

そう、ならなきゃいけない。


「……こうくん、照れてる? かわいい」


「いじめないで下さい……」


 あなたみたいに、青々とした瑞々しい感性のまま人をより豊かに、幸福にする言葉ばかり口にできたら。

いつも、それが羨ましい。






 スマホでボーっと電子書籍を読んでいたら、トテトテという足音の後で、小さな秋が飛んできた。

ボフッと鈍い音がして、レモンの香りが漂う。

そんなに好みの香りだったんですか、喜んでもらえて本当に良かった。

お風呂上がりの先輩の身体はポカポカして気持ちが良い、あすなろ抱きされてるだけで触れている箇所がじんわりと熱を持って温かい。


「シトラスと迷ったけど、べ……べるがもっと? にして正解だった」


「確かにお部屋の香りとは少し違いますね……でも、んー……先輩、正面来てもらえますか」


「うん」


 スマホをソファの隅に置いて、大きく手を広げて正面に回り込んできてくれた先輩を抱き締める。

おぉ、ぽかぽか。

ドライしたてのもふもふした髪が放つ花の香りの中から、仄かなジャスミンの香りを嗅ぎ分ける。

それにこれは……


「……レモンかな? 先輩、ほんとに柑橘系の匂い好きですよね」


「えへへ、こうくんの香りみたい」


「そうですか……自分じゃ分からなくて」


 抱き締めたまま離れてくれない先輩をしばらく好きにさせてから、自分を軽く香ってみる。

長いこと抱き着いていたから先輩のシャンプーの香りが付いてしまって、身体中花の香りがする。

あと仄かにバスボムのベルガモットとレモンの香りが移っていて、今着ている服からは柔軟剤の香り。

着ている服が清潔なことぐらいしか分からなかった。


「せっかく入れたのに一回しか使わないんじゃ勿体ないし、こうくんもお風呂入っておいで」


「……えっ……その、先輩は嫌じゃないんですか……?」


「? どうして?」


「あっ、いえ……先輩が気にしないなら、別にいいんですけど……いや、いいのか……?」


 結局、おれもベルガモットのバスボムを堪能させてもらった。

想像以上に華やかな色の液体と化したお風呂に浸かると、浴室全体を包んでいる上品な淡いジャスミンの香りやベルガモットオイルの香りがより深く香って気持ちが良い。

保湿成分もあるようで、こころなしか肌も普段よりツヤツヤとして水を弾くような。

なるほど、これは安眠効果があると実証されたのも頷ける。

お風呂から上がって身体を拭いて出たら、待ち構えていた先輩に捕まりまたしばらく抱き締められた。

解せぬ。

以前から薄々感じていたけど、先輩って匂いフェチなんだろうか。

おれより先輩の方がよっぽど良い香りするのに……と考えていたら思考が声に出てたらしく、先輩がもふもふの髪の毛で顔を隠して恥じらっていた。

同じお風呂に浸からせるのは別に平気なのにこれは恥ずかしいんですか、先輩。

相変わらず先輩の琴線がいまいちわからない、かわいいからいいけど。






 その後、また数日に渡ってピローミストを先輩の枕に吹きかける、ボディークリームを塗ってみる、など友人たちから訊いた安眠に効果的とされることは全部試してみたが、なんだかどれもイチャつくための口実みたいな感じにしかならず、どうにも空回り感が拭えない。

どのような施策に対しても先輩は大層喜んでくれていたが、明確に効果的と呼べるようなものはまだない。


 先輩は、あまり器用な人物ではない。

先輩をよく知らない人は完璧超人のように誤解しがちだけど、信頼している人物のいない場では寡黙だし、あれで結構不器用な人だ。

人間だからまるきり軋轢のないように生きることは不可能だとしても、避けられる諍いは極力避けて生きるべきで、先輩が生徒会というアウェーな場でそんな風に器用に振舞えるとは思わない。

だから、せめて学校の外でぐらいは穏やかに過ごして欲しい。

なにか、なにか先輩を癒す方法はないだろうか。


 思索を巡らせてるうちに、気付いたら駅前の書店にいた。

最近、脳内はめっきりこのことでもちきりで、気もそぞろのまま無意識に集合知を求めてここまで辿り着いたみたいだ。

とはいえ、正直期待は薄い。

ターミナル駅からそれなりに離れていて、商業施設のような明確な強みもない小園駅は立地として中途半端な場所に位置していて、購買層や需要の少なさ、というのは書店の品ぞろえに直結する。

端的に言えば、この書店の品ぞろえはあまり良くないと言うのがうちの高校の学生の間の通説だった。


 まあ一応、新作コーナーぐらいには目を通しておこうか。

目を惹く作品の一つぐらいは、この郊外にだって届いているだろう。

何かの参考になるかもしれない、と何気なく目を滑らした棚の一角に、その本はあった。


「『リラクゼーションのための催眠誘導 ~大切な誰かに安らぎを~』……?」


 胡散臭いことこの上なし……というのが正直な第一印象。

ひと昔前にインターネットで流行っていた顔文字のような表情を浮かべた人のイラストと、その背景に浮かぶ、いかにも神秘的な万華鏡のように幾重にも重なった多面体。

へえ、8刷もされてるのか……え、第8刷目!?

重版されすぎだろ、ベストセラーじゃん!

こんななりでも名著だったりするのかこれ、いやでもな……


 いつの世も、人は好奇心には勝てない。

あの猫でさえも敵わないとされるのだから、おれが敵う筈もなかった。

鞄の中のハードカバーは好奇心の重みだ、そう、有史以来人類はいつだってそうして道なき道を切り拓いてきた。

おれは負けたとしても人類の探究心は負けない。(?)

そうやって続いていく歴史の一ページになれたなら、この敗北だっていずれ誰かの糧になれるなら、無駄じゃない。(?)


 そこそこな金額で買ってしまったものはもう仕方がないとして、いざリビングで読み進めてみると、これが中々どうして面白い内容だった。

カテゴリとしては学術書になるらしいけど、一般的な言葉を用いた語り口で説明される催眠療法、ひいては精神療法のメカニズムには興味深いものがある。

確かにこの本が一冊あれば、臨床心理に基づいた方法論な療法から身近な誰かを癒すことができるだろう。

なるほど、売れている本には理由がある。

この方法なら、あるいは。


 その翌日、おれはこの本を活用することに決めた。

あの時のおれは、あの決断が巡り巡ってあんなことになるなんて、知る由もなかったのだ。


「先輩……催眠術を、先輩に掛けさせてください」


「……?」

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