あなたに誇れるような生き方ができたら
こうくんとのデートも終えて(不足してた日用品の買い出しを私は頑なにデートと言い張っている)こうくんのお家に帰ってきた。
洗剤を洗濯機の横の籠へ、高かった生チョコを冷蔵庫に入れて、夕食用の下ごしらえまでさっさと済ませてしまう。
玉ねぎのみじん切りにはちょっとしたコツがある。
洗って皮を剥いた玉ねぎを半分に割って、繊維に添うように刃を入れてくし切りにしてやれば、後はそれを放射状に刻んでやるだけでいい。
玉ねぎを刻んでいると涙が出てくる理由をご存知だろうか。
細胞を破壊することで玉ねぎから染み出た液体が気化し硫化アリルが生成される。
この有機化合物が鼻や目の粘膜に刺激して悪さをするのだ。
要は玉ねぎから生じる液体が気化し調理場に充満することに起因する現象なので、玉ねぎを水に浸しながら調理する等して、散布される硫化アリルの絶対数を減らせばあっけなく解決する。
包丁を業物に変え、細胞を破壊せずに刻むことで硫化アリルの生成自体を防ぐ、というアプローチもあるけど、よく切れる包丁を扱うということそれ自体のリスクが大きいのであまり推奨しない。
私はものぐさなので、とにかく我慢するというストロングスタイルで対処しています。
目に染みるぐらいなんだ、別に玉ねぎで死にはしない。
切った食材をボウルにひとまとめにして後は火を通すだけ、という状態まで下ごしらえを終えたら、もう日は暮れて海に覆われたように美しい群青が空を染めていた。
「綺麗……ブルーアワー、って言うんだっけ、これ……?」
ソファでくつろいでいるこうくんに声を掛けてみたけど、返事がない。
これは、多分寝ちゃってるな。
無理な体勢で疲れてしまわないように、隣に座ってこうくんの頭を私の膝に寄せる。
よしよし、朝早くから美味しいご飯作ってくれたもんね。
よくお眠り。
髪の毛、いつ撫でても女の子みたいにサラサラ。
綺麗な直毛だから、伸ばしたら私より綺麗だよきっと。
雨や湿気ですぐぼさぼさになる癖毛の私は、こうくんの髪質が羨ましい。
あなたみたいになれたら、って、いつも思う。
スタイル良くてシルエットが綺麗とか切れ長なのに何故か優しそうな印象を与える特徴的な目元とか、そういう容姿の表面的なことじゃなくて。
どんな輪にでもすぐ馴染んでしまう社交性、魅力的な人にばかり好かれる人望、自分が悪くないことでもすぐに謝れる柔軟で寛大な心、見返りを求めない無償の愛を当たり前のように振りまける慈愛。
私にはないものばかりが宝石みたいに眩く輝いてる。
あなたみたいに素敵な人が、取り立てて取り柄もない私のような人間のそばにいてくれること、それが分不相応な果報だと、誰より私が理解している。
人間の欲望ってきりがない。
あなたのように高潔な精神性を私も持てたら。
他人にどれだけ誹られても構わないから、ただ一人、あなたに誇れるような生き方ができたら。
あなたの心に、痛みに、望みに少しでも触れることができたら。
望むものばかり溢れ返ってしまって、叶えるための歩き方も道も、私にはもう分からなくなってしまっていた。
ふと、テーブルの上の本が目に入った。
ここ最近で見慣れた、顔文字のような表情を浮かべた人のイラストが描かれた表紙。
『リラクゼーションのための催眠誘導 ~大切な誰かに安らぎを~』。
悪い思い付きが鎌首をもたげた。
酷い獣道だった、ろくに整備されていない。
多分この先に進んではいけないのだと分かっていても。
魔が差した。
サスペンスに出てくる犯人は皆こう言う。
人間は誰しも心に悪魔を飼っているから、一時の感傷で取り返しのつかない過ちを犯す。
皆等しく幸せを願っている筈なのに、そうやっていとも簡単に道を踏み外す。
「怜ちゃん、今日もかわいい……」
「こうくん落ち着いてっ……! 今のこうくんは、その、私のせいで普通じゃなくて……!」
「……? おれはいつも通りだよ、普段と同じように怜ちゃんのこと大好き」
「はぅ……!」
どうかしていた。
思い付きはとても単純で、寝惚けて判断能力のないこうくんに『素直になる』暗示を掛けた。
望まない催眠は掛けられない、というルールを安全性の担保と言い訳にしていた。
筈だった。
けれど私を痛くない程度に強く抱き寄せて、優しく髪を撫でながら酩酊したような瞳で見つめてくるこうくんは明らかに様子がおかしい!
だって、これではまるで……まるで、普段から私が愛しくてたまらないのを強靭な理性で抑え込んでいたみたいに見える。
そんなわけないんだ、これは何かのバグ。
いや、こうくんがバグっちゃったならそれはそれでマズい状況なんだけども!
あぁ、肺がこうくんの爽やかな柑橘系の香りで満たされて思考が回らない。
幸せすぎる、このまま溺れていたい。
「怜ちゃん、なんでキスのことちゅーって言うの? かわいくて好き」
「……なんか、なんとなくその方がかわいいかなって……」
「……そっか! ちょっと今試しにキスって普通に言ってみて欲しいな」
「……キス……?」
「ぁ……好きだ……幸せにしなきゃ……!」
「あの……私、どうすれば……」
どうしよう、こうくんが本格的にバグっちゃった。
こうくんはかわいい、とか好き、とか、幼馴染みとはいえ同年代の異性を相手にして気軽に軟派なことを言うような人じゃない。
むしろ普段そういう発言を避けて生きているような、とっても真面目で誠実な男の子。
え、素直になるってこういうことなんですか。
この人私のこと大好きすぎか。
「こうくん、その……私のこと、す、好き……?」
「愛してるよ、怜ちゃん。何より大切に想ってる。 どうすれば伝わるかな……えっと、嫌だったら抵抗して、すぐ止めるから」
私を抱き締めながら髪にいっぱい口付けしてるこうくん、普段の紳士的な姿とのギャップが凄い。
向き合うと頬にキス、抱き合うと髪にキスの雨が降ってきてくすぐったい。
吐息が甘い。
こんな蕩けきった表情初めて見た、今のこうくんの瞳には私しか映っていなくて、ハートが浮かんでる。
耳元で繰り返し、すき、すきって囁かれると、普段稼働しない乙女回路みたいなのがギュンギュン動いて胸が苦しくなる。
こんな筈じゃなかった。
私はただ、こうくんが普段望んでいることや、気にしているような日常の些細なこと、遠慮せずに伝えて欲しくて暗示を掛けただけだった。
素直になって欲しかったのは本心だけど、こうくんがずっとひた隠しにしていた秘密をつまびらかにしてしまうつもりはなかった。
だって、私はこうくんにこんなに愛されているなんて知らなかった。
「唇にちゅー、したい……?」
「勿論したいけど、怜ちゃんが良いよって言ってくれるまでしない。 やっぱり特別だから」
「……ふふっ、そっか」
こうくんはこの期に及んで、どこまでも誠実だった。
腰を抱き寄せられる程度で、身体に触られることは一切ない。
壊れ物に触るように繊細に、自分だけの宝物を眺めるよう丁重に愛でられている。
この人は、本当に性欲を抱いていない。
ただ、大切にされている。
それが嬉しくて、こそばゆい。
だから、こうくんの意思を尊重するためにも唇のキスはやめておいた。
だって、これは反則なんだ。
彼だけが自分の知らないところで私への想いをバラされてしまうのは不公平。
本来、抱擁とかキスをするには恋人にならなければいけないし、恋人という関係性に至るためには告白という好意の確認が必要になる。
そこを一足跳びに飛び越えて、私だけが意図せず片道切符を獲得してしまった。
互いの想いが分かっていても、それが最早儀式的なものに過ぎないとしても、一度踏み越えてしまったからこそ過程を大切にしたい。
だからこれは、私の独り言。
今こんなこと告げたところで、正気のこうくんには届かないから意味がない。
それでも、真っ直ぐに伝えてくれたこうくんに対して、私も虚飾を取り払った本当の言葉を伝えるのが礼儀だと思った。
「私も、こうくんのこと大好きだよ」
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