あなたにも見返りがあって欲しい
読みやすい、というのが読み終わった上での感想、悔しいけど。
常に論旨が簡潔かつ明瞭、それでいて中々実践的な内容ばかりで表紙の印象よりは骨太な一冊だった。
小難しい学術的な解説を極力排して間口を広げることに成功している。
それでいて、もっと詳細な説明を求めるなら、と専用の学術書への導線も繋げている。
確かにこの本は売れるだろう、という納得感があった。
そして、私の推測は正しかったと確信した。
この本は催眠という概念を精神療法の一種として扱うことに終始している。
アプローチはとても診療めいていて、本に目を通すこと自体が臨床心理に触れる一環になる設計をしている。
ヒップホップではないがセルフボースティングのマインドが大切だとよく説いていて、認知に働きかけ喪失した自己肯定感を醸成することに大きく寄与するだろう。
リラクゼーションのための催眠誘導、なんて大層なタイトルも頷ける。
だが、当然まるきり健康な人間には効果が薄い。
確かに催眠という単語のフックこそ強いが、題材からしてかなり心理療法の色が強いし間違っても流行るような読み物ではない。
この本に8回も重版がかかって刷られているという事実が、働きすぎで皆疲れてるんだな……と実感させられて具合が良くない。
こういう本が売れてしまう世の中って状況としてあんまり健全じゃなさそうでやだな。
果たして、収穫はこれだけではない。
こうくんがしてくれた入眠誘導、というのはこの本で説明される療法の中でもかなり入門向け、初歩の初歩という奴で、他にも実践的なものは幾つかあった。
催眠とは、要するにプラセボ効果を利用して認知を歪ませる行為なのだと思う。
人間の認知機能は案外曖昧なもので、催眠術はその脆弱性を効率的に突いた行為の総称。
味覚を変えたり人や物への嫌悪感を緩和させたり、これらは所詮暗示による錯覚に過ぎない。
逆説的に、暗示を掛けてやる程度のことで私たちは好悪の感情さえ容易に操作されてしまう。
人間がいかに感覚で生きている流動的な生物かがよく分かる。
なんか、こんなこと知りたくなかったな。
ただ、勿論誰にでも無条件に効果を発揮するような万能なものではない。
大前提として、望まないような催眠は掛けられない。
例えば私に対して『 信田 圭 のことを嫌いになる』ような催眠は掛けられない、私が指示を心の底から強く拒絶してしまうからだ。
信田 圭 っていうのはこうくんのお名前です。
しのだけいくん。
しのだって姓は割と珍しいらしくて、言われてみれば確かにこうくんとそのご家族以外でおんなじ苗字の人にはまだ遭遇したことがない。
こうくんは けい ってお名前なのになんで私だけずっとこうくんって呼んでるのかは……まあ、いつか説明するタイミングが来ると思う。
私にとっては特別なあだ名ということだけ知っておいて下さい。
閑話休題。
実は、催眠術というのは掛ける側より掛けられる側に素養が必要。
人の身体のつくりがそれぞれ少しずつ違うように、暗示への抵抗力も人によって違う。
掛からない人は誰に何をされても掛からないし、特別掛かりやすい人は素人の猿真似でも簡単に暗示状態になってしまう。
私は、う~ん……多分平均程度じゃないかな。
こうくんの催眠は入眠誘導のアプローチがとても丁寧だったし、そも私が元々こうくんに対して強い好感を抱いているから掛かりやすかったのもある。
催眠術というのは大衆の無意識に存在するどうでもいい認知を操作できる能力なのかもしれない。
例えば仮に私がアスパラガスを苦手に感じていたとして、催眠による暗示で味覚が歪まされ一時的に苦手を克服できたとて、なんら意味を持たない。
それは私が深層心理でアスパラガスを苦手に感じていることを別に苦にしていないからだ。
たかだかスーパーに並ぶ一食用野菜を食べれない程度のことで今後の人生に支障をきたすようなことはないし、食べられるようになったとて感動もない。
催眠術は、この取り立てて取り上げるようなことでもない、好きでも嫌いでもどちらでも構わない程度の無意味な概念にしか干渉できない。
だから、心から大切に想っている人のことを嫌いになれ、みたいな下手すればレゾンデートルに関わる重大な事柄には一切アクセスできない。
ちなみに、私は別にアスパラガスが得意でも苦手でもないけど全然モリモリ食べる。
いや、万人に共通するような苦手な食物がパッと浮かばなくて、私割と何でも食べるし……
そんな催眠術の特徴を踏まえて、利用できそうなものは幾つかあった。
対象は?
勿論、こうくんだ。
私は因果応報、という言葉を信じている。
善行も悪行もいずれ全て自分に還ってくるなら、未来の果報を引き寄せるために善い人間でいたい。
だからこうくん、人のために自然に奉仕できるあなたにも見返りがあっていいと思ってる。
よって。
今夜は私がこうくんを催眠術で癒します。
乞うご期待。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます