あくせぷたんす こみっとめんと
さてここで問題。
先に胃袋を掴まれたのはどっちでしょう。
なんと、正解は私です。
こうくんは、ちょっと引いてしまうぐらい自炊が上手い。
もうなんか極めすぎて普通に料理にワインとかハイミーとか使う。
ハイミーってなんなんだ、味の素となにがちがうの。
訊いてみたら殆ど一緒ですよって笑って教えてくれたけど、料理によって種類も量も使い分けてるのを見ると多分明確に違うものなんだと思う。
でも説明すると長くなるし、私が途中で面倒臭くなりそうで申し訳ないなと思って最初から説明を諦めてるんだ、あれは。
こうくんは優しいけど時々そういう所がある。
とにかく、こうくんの自炊スキルは何かよく分からない所まで行き着いている。
料理の手際も良いし、工程に迷いがない。
料理が上手い人って、完成する味に大体の想像が付いているからなのか、調味料使うのに迷いがない。
こないだなんか炒飯作るっていってナンプラー取り出してた。
ナンプラーってなに? 普通に生きててあんまり聞いたことないよ。
でも出来上がったご飯はとても美味しかった。
なんか海鮮の風味がした、ナンプラーってすごい。
結局ナンプラーってなにか分からなくて調べたら魚醤って出てきた。
分からない単語調べたら分からない単語で説明されたのでもう諦めた。
私は別にナンプラー使うことないしいいかなって……
一応料理当番は毎日交代制なのだけど、私が作る時もこうくんは必ず手伝ってくれるのであんまり意味をなしてない。
その逆は基本ありません。
こうくんがあまりにも手際が良くて、私が何かすると却って邪魔してしまいそうだし、お皿洗いぐらいしかお手伝いできない。
不甲斐ない……
あ、もう食器用洗剤切れそう、買い足さなきゃ。
「先輩。 食器、ありがとうございます」
「美味しいご飯作ってもらったから」
「お口に合って良かったです、ちょっと癖が強いかなと思ったので」
些細なことでもしっかり目を見てお礼を伝えてくれる。
謙譲語ばかりで、言葉遣いが丁寧。
私もこうありたいと思える、尊敬する所ばっかりが目に付く。
一つ一つ、小さな尊敬が募っていく。
こうくんと長く過ごしていると自分も素敵な人になったように錯覚してしまうけど、私も人にそう思ってもらえるような人になれたらいいな。
いつもこうくんから何かを学んでいる。
「さて、先輩。 今日もやってみましょうか」
そうなると思ったよ。
こうくん、もう本を片手に待機してたじゃない。
よく見たらバリバリ催眠術の本だし、めちゃめちゃ前のめりになって取り組んでくれてる。
まだ、まだ分かんないよね。
昨日はあくまで初回だったわけだし、ほんの様子見でなにもしなかっただけでは?
ということで、検証は継続。
昨日と全く同じように、タンマ! と告げて洗面へ。
歯磨きしゃこしゃこ、マウスウォッシュぶくぶくしながら洗面に映る自分をよく確認。
うん、いつもの私だ。
両親がなにごともなく生んでくれたおかげでそこそこかわいいし、今日は完全に臨戦態勢なのでタンスの奥底から勝負用の下着を引っ張り出してきた。
健全な男子高校生たるこうくんが、こんな据え膳をみすみす見逃す筈が……
いやどうだろ、こうくんだし。
彼は鴨がネギ背負ってやってきたら野生に還してあげるような人だから……
よし、覚悟決まった。
背景イギリスでお仕事中のお父さん、お母さん、引き続き私の命運を祈っていて下さい。
あとあの後調べてみたんだけど、イギリスでは割とデザインがかわいいエコバッグが多いみたい。
お母さんそういうの好きだし、幾つかお土産として持って帰ってきてくれるって信じてます、よろしくね。
どっちかっていうとやっぱりお土産よりは食文化で苦労した、みたいなエピソードの方を楽しみにしてるんだけど。
「お待たせ。 もう今の私に死角はない、無敵……!」
「えっと……ほんと、決闘したりするわけじゃないんで、そんな気合い入れなくても大丈夫ですよ先輩」
私の気迫に、こうくんは目を丸くして少し驚いてた。
かわいい。
『もう階段を降りることに意識を割く必要はありません。 先輩は落ちていきます。 沈むように落ちていく。 ふかく、ふかく。 際限なくふかく落ちていく』
や、ヤバい。
昨日の今日で急激に上達しすぎにも程がある。
こうくんもう立派な催眠術師さんじゃん!
誘導に抗う余裕がなくて、もう意識を保てそうにない。
既にかなり眠くなっている、というか段々深層心理が思考回路に表出し始めている感覚がある。
私が私でなくなる、いや、結局それって普段抑圧してる私の欲望だから私よりも私なのか。
もう何が何だか分からなくなってきた。
まずいまずいまずい、このままじゃこの先に何があるか、自分がどうなるのか見届けられない。
此処は居心地が良い。
こうくんの声が余すことなく脳全体に行き届いて幸福。
これ合法ですか?
こうくんの声好き。
私の人生ずっとこうなら常時幸せなのに。
身体に有害なもの由来の幻聴ってもしかしてこういうのなのかな。
だったら実質無害どころかトータルで得じゃん……(?)
『もう足元に足場はありません、でも怖くない。 落ちることは心地いいからです。 このまま、気持ちの良い眠りの世界に落ちていきましょうね。 大丈夫、おれも一緒です』
付いてきてくれるの……?愛じゃん、他のなによりも好きです……
なにもない空間の中をどんどん沈んでいくのに不思議と不安は一切ない。
いや不思議じゃないな、こうくんも一緒だって言ってくれたからだ。
こうくんの声が私の五臓六腑に響き渡っている。
このまま五大陸に響けば戦争とか無くなるんだろうな、でもそうなるとなんか世界的な平和賞受賞したりとかして私だけのこうくんじゃなくなっちゃいそうだから嫌かも……(?)
『ふかく沈む 沈む 沈めば沈むほど眠くなっていく 眠くなったらいつでも眠ってしまえる このまま眠って、やがて清々しい朝が訪れます 朝になれば自然に目が覚めて、身体中に活力がみなぎる スッキリと1日を始めることができるでしょう 次の朝が待ち遠しい そう思うほど眠くなる』
ね、こうくんとなら私どこまでだって行けるよ。
誰も知らない場所で月明かりを探そう。
散歩してて見つけた名前の知らない花、夕陽の差した桜ヶ丘、春の匂い、ペトリコール……この世にあるどんなに美しいものもあなたの心にはまるで敵わない。
私、これしか要らないんだ。
『おやすみなさい、という言葉を合図にして、先輩の意識は一気に深い眠りに落ちていくでしょう 今から3つ数えます 0になればすぐにでも眠ってしまう 3』
言語野をぼんやり揺蕩っている。
暫らくしたら開けた場所に辿り着いた。
海。
広大な海が見える。
潮騒が聞こえる。
心の原風景。
これは私の心。
『2』
遠い地平線の向こうに陸地が見える。
二つの影が私に手を振っているみたいだ。
遠く離れたはずの人型の影の、その輪郭が今くっきりと見えた。
あれは私の両親だ。
形は違うかもしれないけれど、昔も今も変わらず愛している。
『1』
誰かと手を繋いでいることに気付いた。
手が人肌で温かい。
いつでも温かいから、その温もりに当たり前に触れていたから、意識しないとその温度にも、優しさにも気付けないのかもしれない。
こうくんがいつものように私に微笑んだ。
私も、つられて笑った。
残りの人生、この人の傍で笑っていることが私の幸せなんだと思えた。
『0』
そして私は手を引いて導かれるようにして眠りに落ちた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます