27

目を覚ますと、斗真はまたも病院のベッドの上だった。

『おもちゃ箱』へのレイドに参加すると決めてから、毎日病院のスタッフとベッドの世話になっている。患者ではなく常連客だった。

——命がいくつあっても足りない。


「…………」


握られた右手の感覚。

晴美がいつものように握ってくれているのだろうと、勝手にそう思い込んで握り返した。晴美から心配されつつ呆れ顔で文句を言われるのだろうと、高を括って振り向こうと。

違和感。

右手を握られている感覚があるにはあるのだが、腕全体を抱え込む柔らかい感触があるのは何故だろうかと。

陽菜乃と共に二階層に入ったことは覚えているが、その後ことを覚えていない。何か途轍もないことがあったのだろうと、だからここでまた世話になっているのだろう、と。

——迷惑かけちゃったなあ。

まずは隣で寝息を立てている晴美に必死の思いで謝罪することを実行しようと。

極力怒らせないよう、頭を撫でて落ち着かせてから——。


「……え」


晴美の頭に手を伸ばそうとして。

動きを止めた。


「なな、なんでっ」


「んん……」


晴美でなく、陽菜乃が布団の中で眠っていた。

気持ちよさそうとは言い難い、眉間に少ししわを寄せた表情で、斗真の腕をぎゅっと大事に抱き込んでいる姿。


「な……な……な」


さっき感じた柔らかい感触は。

陽菜乃のふくよかな胸のそれだったらしい。

強く当てられた、私服と病院服を通してでも伝わってくるリアルな感触。

そして凛々しい雰囲気をとは全く違う、甘えるような仕草で頭が殊更混乱した。

綺麗で美しい女性、から、可愛くて可憐な少女、のように見えてしまうのは目の錯覚ではない。

十九という年齢にしては非常に大人びた雰囲気を纏っているが、それが彼女の普通だと考えていた。

けれど——まだ十九だ。

モンスターが蔓延る世界でなければ、普通に大学生活を謳歌していて不思議ではない年頃である。


「……ん」


斗真の目覚めを感じてか、陽菜乃はうっすらと目を開いた。

眠り姫が目を覚ます。そう表現するにはピッタリだ。

私服姿もヒラヒラした部位が多く、色も白と清爽な印象、けれど下はスリムでピッタリとしたパンツを穿いているあたりがハンターらしい。

起き上がって、目元をゆったりと擦っている様がまた甘い。

まるで猫。

ボーっとして斗真の顔を見て、二ヘラと表情を崩すのを見て。

抱き着かれていた時よりも、斗真はよりドキリと胸を高鳴らせた。


「おはよう~一輝、今日はよく眠れた~?」


裏返るような甲高い、人に甘える愛情深い声。

斗真を別の誰かと間違えているらしい。


「昨日は大変だったねえ~、でも大丈夫。お姉ちゃんがついてるから~」


と、斗真の顔を抱き寄せて胸の中に埋めさせる陽菜乃。

顔を真っ赤にして焦る斗真とは裏腹に、陽菜乃はその反応を楽しそうに眺めていた。

じたばたと暴れて脱出を試みようとするも、S級の膂力に勝てるはずもなく。

むしろガッチリとホールドしてくる陽菜乃に、斗真はドキドキするばかり。


「お姉ちゃんの抱擁を受け取れないって言うの~?それならこうしちゃおうかなあ~?」


と、斗真をベッドに押し倒して、その上に覆いかぶさるのである。


「え、ちょっとッ日向さん!?」


「大丈夫、お姉ちゃんに全部任せておけばオッケーだからね?」


「な、何がオッケー何ですかあああ!?」


寝ぼけたままの夢うつつ的な視線を斗真に向けて、ふっくらとした唇を彼に近づけていく光景は、陽菜乃ファンにとっては万死に値する嫉妬の対象であるが、斗真にはむしろ刺激が強すぎる。

近づいて来る陽菜乃の顔。

ふわりと漂うフローラルな香りに、頭を殴られるような感覚を抱いて、不意に意識が彼女へと向いていた。

あと一ミリ。

二人の距離が完全に零になる寸前で――。

ドサリ、と。

入り口付近で物音がしたのが終わりだった。


「にいさーん、なにしてるのかなあ?」


「…………」


浮気現場を目撃したかの如く。

ハイライトの失った瞳から発せられる、この世のものとは思えない冷めきった目線を受け取って。

斗真は絶句。

そして陽菜乃もまた、固まったまま病室の入り口を振り向いており、斗真と晴美の顔を交互に見つめたのちに、急激に顔を真っ赤にさせて、ベッドから降りて服を整えている。


「あほほほ~、ちょっと寝ぼけてたみたいでございますね~。ちょっと頭を冷やしてくるので、しばしの暇を頂くでありんす~」


と、ちぐはぐな口調で冷静を装いつつ、晴美の尋常ではない視線に気後れしながら。

陽菜乃は背後の窓を開けて、忽然と姿を消してしまった。

『インヴィジヴル』を使用したのだろう。スキル使用の無駄遣いである。


「ねえにいさん、わたしになにかいいたいこと、ある?」


据わりきったその目玉。

心配して損した、と。

激怒に駆られる晴美の顔はまさに鬼。

いやモンスターのよう——。


「え、あ……ごめ、ん?」


病院内に響く、肌を思い切り叩く音が、病院内の全員に聞こえたとか――。


「――それで、今日は何日なの?」


顔の左頬に手形で真っ赤になった跡を残したまま、斗真はベッドの上で土下座で会話をしていた。足と腕を組み、顎を上げて睨みつける晴美に許しを請うべく、今はそうするしかないと。


「三日経ったわ。それはもう気持ちよさそうに寝ていたわね」


「うぐっ……」


言い訳の余地なし。


「しかもあの女とキスしようとしていたわよね?」


「えっと……事故といいますか」


目を逸らす斗真に、晴美の視線がより鋭く冷たくなる。


「あんな魅了された顔で?事故?死にたいならそう言えばいいのに」


と、斗真のバッグからナイフを取り出す晴美に、斗真は青ざめる。


「す、すみませんッ!」


「冗談よ」


そう言ってニコリとしながらナイフを戻すが、やはり目は笑っていない。


「私がどれだけ心配したか、微塵も考えていないでしょう?」


どんどん言葉が小さくなっていく晴美に、斗真はまた顔を上げようとして。


「ステイ」


「はいいいッ」


慌てて顔を下げた。

ちらりと見えた晴美の表情。

修羅だった。


「返事はワンでしょう?何人間の言葉を使おうとしているのよ、バカなの?」


言葉を失った。

晴美はそんなことを言う妹ではなかったはず——。


「返事は?」


「ワンワンッ」


二人にはあずかり知らぬことであるが。

斗真の父は昔、飲み会で帰りが遅れて妻に激怒されている。携帯端末からの連絡をその日は非通知にしていたため、妻への返事を怠ったのだ。その時の妻の様子と言ったらもう、まさしく今まさに行われている光景のまんま、いやそれ以上に恐ろしく、裸にさせて床で頭を踏みつけていたほどだ。

こちらはそれに比べたらまだマシである。

怒る基準もまだ沸点が高い方、であろうか。


「失礼しまー……」


と、頭を冷やしてやってきた陽菜乃。

その異常なまでの重苦しい空気を感じ取って、陽菜乃はヒッと声を上げた。


「あら丁度よかったわ。早く来てちょうだい。あなたにも色々と訊きたいことがあるのよ」


その恐ろしい目を見て。

土下座である。

ハンター二人を土下座させる小学六年生の図。

あまりに常軌を逸した、ありえない光景だった。


「それで、あなたは何故あんなことしたのかしら?」


ドスの利いた低い声。

陽菜乃は床に土下座したままで語る。


「その……寝ぼけてつい――」


「寝ぼけて人様の家族を襲うことが合法というのなら、私はそんな国を滅ぼしてやるわ」


言っていることはめちゃくちゃなのに、その強気な発言に二人は戦慄する。


「……死んだ弟に、似ていて」


言葉に詰まる晴美に、陽菜乃は続ける。


「まるで瓜二つの斗真君を見て、だから今度こそは守ろうと、それに強くなってほしくて――」


「だからって、無理に危険を冒してまで下の階層に降りる必要はなかったわよね?」


「――」


「兄さんのサポートをしてくれるのは嬉しいけど、今回は度が過ぎているの。兄さんが目を覚まさなかったら、私、あなたを絶対に許さなかったわ」


と言うと、今度は斗真をギロリと睨んだ。


「そもそも兄さんにハンターになんてなって欲しくなかった。危険な場所に行くたびに気が気でなかった。それでも毎日ちゃんと帰ってきていたから、私も感覚が鈍っちゃったのかもね。今は怖くて怖くて仕方がないの」


顔を伏せる晴美。


「でも、兄さんは言っても止まらない。決めたら何が何でもやる、パパ譲りのそんなところが今は恨めしい」


「晴美……」


鼻をならす晴美。


「ごめん……」


「今更謝らないで……どうせ明日の未踏ダンジョンのレイドにも参加するんでしょ?だったら約束して。絶対に帰ってくるって」


斗真の身体に異常は見られなかった。

精神的負担による気絶だということで、目覚めて体調に異常が無ければ退院することができる。

今の斗真を見ても、とりわけ不調らしい不調は見当たらない。

元気に土下座して、晴美と調子よく会話していたのだから。


「日向さん」


呼びかけられ、陽菜乃はピクリと身体を動かした。

晴美は陽菜乃を立ち上がらせた。

目を丸くする陽菜乃に。


「兄さんをお願いします」


晴美は頭を下げる。


「不束な兄ですが、どうかよろしくお願いします」


ふるふると震えるその小さな体を見て、陽菜乃は思った。

その身に宿す心の強さ、そして愛情。

どれだけ兄が自身の道を進もうとも、それを見守り、支えようとする覚悟が――。


「……任せてください」


と、陽菜乃はより深く頭を下げる。


「あ、一つ訊きたいんだけど」


と、晴美は顔を上げた。


「何かしら、何でも聞いてくれていいわよ」


慈母の如く優しい返事をする陽菜乃。

だが斗真は、晴美の疑心的な声の変化を感じ取って、嫌な予感を抱く。


「あなた、いつからココに居たの?」


その質問に陽菜乃は、悪気もない笑顔で。


「三日間ずっとね」


ズドンッ、と。

人を殴る音がここまで大きく聞こえるのかと。

病院内の全員が、後日そう語っていた。

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