第9話
2039年 3月1日
父の葬式へ行ってから、1週間が過ぎた。
俺は27歳になった春花に会うことができた。嬉しかった反面、親孝行ができなくなってしまったことを内心嘆いた。
春花の死に何十年もとらわれた家庭だったけれど、メールを送る前までは、健康面の問題はなにもなかった。
素直に喜ぶことはできない。
父もまた、俺が3歳の時までの記憶しかなかったらしい。春花にそう教えられた。2
7歳の春花の鞄には、フランソワのキーホルダーが揺れていた。
「小学生の時、誕生日に父から買ってもらった」らしく、大切そうに握りしめていた。
それを見て泣きたくなった。でも、自分が望んだことだ。
午前8時。変化に疲れを覚えたまま、スーツに着替え、洗面台に立った。
顔を洗い、鏡を見る。ふと、強烈な疑問がわいてきた。
なぜ、俺は当たり前のようにスーツを着ているんだろう。
リビングへ行き、台所で朝食の支度をしている母に訊ねる。
「母さん、俺はもしかして、働いているの」
母は「なにを言い出すのか」という顔で見てくる。
「今日も会社でしょう。あんたが高校卒業してずっと働いてくれているから、母さんが失業しても生活できるの」
母は、父の葬式に行った直後、2月24日に30年働いた会社をリストラされたという。つまり俺は2024年の2月24日、高校へ受かったのか?
綻びを補う形で、なにかの代償がでるのかもしれない。それが母のリストラ。その程度のことでよかった。
しかし、俺はどこの高校へ行って、どこで働いているのか全くわからない。
急いで階段を駆け上がる。本棚の隅に、なかったはずのアルバムがもともとそこから長い間あったかのように埃をかぶって立てかけてあった。引っ張りだして、開いてみる。
高校の卒業アルバムだ。柏木悠介の名前がその中にあった。空白の15年。あいつは、高校へ行き、どんな道を歩んだのか。15年前の俺にも、それはまだわからない。
部屋を見回す。机の上に、シルバーの四角いケースが出現していた。数日前まではなかったものだ。息を呑んで、ケースをそっと開ける。名刺だった。
株式会社 フランシオール 企画開発部
デザイナー 柏木悠介
嘘だろ……。
これは絶対、妹のためだ。
15歳の俺の前から、春花は消えたんだ。雪みたいにすっと消えてしまったのか、気づいたらいなくなっていたのか、知る術はなかった。
今の時代から過去に向けて、その方法を教えてはいけないことになっている。方法論がなんらかの形で過去に漏れたら、タイムトラベルPCがもっと早い段階に作られる可能性が生まれ歴史が変わる。
とはいえ、俺も具体的な方法は知らされていない。PCに年月日を打ちこむだけで、理論は久野を含めたごく一部の研究者しか知らないのだ。
名刺を見つめる。あいつは、春花のために必死で入社したんだ。
仕事がある。それは嬉しいはずなのに、虚無感が襲ってくる。なにも頑張れなかった俺。頑張った15年前の俺。自分相手に、ジレンマ。
カレンダーを見た。仕事のことは、今はいい。いや、よくないけど。15年前の俺に伝えなきゃいけないことがまだある。
冷静になれと自分に言い聞かせ、まずは携帯から会社に電話をかけてみた。番号は名
刺に記載されている。若い女性の声が聞こえてきた。名乗ると、女性は俺のことを古
くから知っているような口調で言った。
「柏木さん、今日もお休みですか」
「はい。すみません。熱を出してしまって、上司にもそうお伝え願えますか」
熱は嘘。上司なんて、いるのかもわからない。内心は恐怖で一杯だ。
「かしこまりました。お父様を亡くされた後ですものね。落ち込まれるのも、無理はないかと思います」
妙に納得されてしまった。
電話を切ると、女性の声に触発されてか、突然脳裏にアイディアが溢れ出てきた。
フラッシュのように、様々な雑貨アイテムが想起される。デザイン。色彩。形、物。
なんだろう。デザイナーとしての俺が作ってきたものか?
考える暇もなく、強烈な頭痛が襲ってきて俺はその場に倒れ込んだ。脳が内部から爆
発しそうな痛みだ。あまりの痛みに呻き声が出た。視界が滲む。
知らない人の声が聞こえる。知らない人の顔が思い浮かぶ。なかったはずの記憶が、まるで虫でも湧くかのように、にじりにじりと、俺の頭の中から生み出されている。俺の歴史が、俺の脳の中で修正されようとしている。
俺は這いながら机の前にまで行き、パソコンを起動させた。今は、頭痛なんかと闘っている場合じゃない。
見舞いに行った時の青木の顔がふと思い出された。相変わらずなにも反応がない。吉
田のお母さんの叫び声も蘇る。
くそっ。助けてやる。みんな助けてやる。だから待ってろ。
15歳の俺、どうか頼む――。
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