第2話 本格ファンタジーコラムに思うこと 〜エッセイに幻想を押し込むテスト〜

 さてさて、擦り過ぎな「本格ファンタジー」界隈にまた爆弾投下されたようでして。

 なろうエッセイにも一つ上がっているようですけれども。


 Web小説上の「本格ファンタジー」が「本格ファンタジー(笑)」になる日も、近いなぁと思う今日この頃です。

 ある種新ジャンルですね!

 私も本格ファンタジー(笑)が創設されたらば、参戦してみたい次第です、だって言葉は生き物であるし楽しそうなので。


 そんなユーモアはさておき。

 出版サークル? の名興文庫サイト内コラムに、新しいコラムが出て話題になっているようなので雑食派なわたくしめ、頑張って読破致しました!


 書いた方は「これは良い文章だ」と確信を持っていそうなのですが、物議を醸している。

 何故か。

 個人的にも脳内物議が出たので分かりやすく問題点を挙げるのと、私が他の方のエッセイやらコラムやらを読んで合わせて感じた雑感をエッセイにしたいと思ってこれを書いています。


 相変わらず文章が長くて面目ないです。

 けれど今回は結論はちょー短いです!

 ちょーシリーズ(ちょー美女と野獣をはじめとするシリーズ物)は名作と勝手に思っているので、もし見かけた方は手に取ってみてくださいね!(勝手に推し作家活動)




 それでは本題にして結論から申し上げたいと思います。

 あのコラムの何が問題点かというと、そのものズバリ!


 主観と客観のごちゃ混ぜカレーは具材と米を分けろ!!

 違うんだカレーチャーハンが見たいんじゃない! カレーを食わせろ!!!!


 取材をしていないのがモロわかりなのに、主語を大きくすると、軸がぶれます。


 だからただの語りになってしまう。




 これは「『ライトノベル』とは何か?」というコラムでも、みられた現象です。

 自分を一旦疑ってみてみる、という視点がないために推敲段階で弾くべき「客観的事実を語ったつもりの自分語り」が、混じったままなのかなと勝手に推測しています。

 ま、そんな人物像推測はさておきのさておき。

 いやだって誰だろうと関係ないのです、私には。


 愛すべき文字、その文字列への敬意が作品であるコラムにないのがね、許せん!!


 日本語は我々日本人が血の滲むような努力と汗と根性とおかしみをどれだけ極限まで込めれるかと日々試行錯誤されているツールですよ?

 生き物ですよ?!

 それをよくもあんなウェr「宇都安謝slg‘ハオjガァvlkな?!


 失敬。


 話を戻します。

 とまぁ上記のはわかりやすい脱線の仕方なのですけれど、わかりにくい、けれど文章読み慣れた層からしたらとてもわかりやすく主観をまるで大衆の総意かのように書いているんですよ。

 例えば当時自分が感じていたことを「少年たち」と表現してみたり。


 これは、書いている事柄についても無意識にスライドしているようで、そういった内容が散見されます。


 例えば商業における小説のことを書きながら区別をつけずそのままウェブ小説のことを語り出す、という部分。

 小説、と言いながらライトノベルに限定してみたり、かといえばアニメを例に出したり、ゲームについて熱く語ったり。


 結局どの媒体で何やりたいの?


 とツッコミ待ちのすべり芸を主とする芸人のようではないかと、つい思ってツッコミ根性が出てしまったのですけれど。

 だってすべり芸はツッコまれないと成立しないじゃあありませんか。

 想像してみてください、一芸披露したのに、ダレニモツッコマレズ、タダヒタスラニソコニタッテイル。

 せめて芸を完遂させてやろう、と思うのが人の親といいますか、人情ってもんです。




 そんな感じで、随所に主観を客観的事実として書いてしまっている。

 これが例えば主観を強化する数字であったりとか、客観的かはさておき、主観と割りきって書くとかせめて自分の周りの「誰が」「どういう反応だった」か等の体験談などを書けば、説得力というか文章の重みも違ってきます。


 自分が思ったから、感じたから他者もそう感じたはず、思っただろ? などという思想は危険です。

 感じない思わないやつは駄目なやつ、と、本格界隈で声を大にして言い回っている人も見かけます。

 その例からも、思い込みというのがいかに厄介で人と人を分断するかを物語っているのではと、思っています。

 自分のしていることを一回疑ってかかる、精査して、絶対的客観性などはなく幻想、だとしてもですよ。

 なるべく具体性を上げたり、自分はこう感じたとかこう考えてるという主観方向に寄せる。


 それをするのが後の世代へとバトンを渡す上の人間の役目、ではないでしょうか。


「私は本来のファンタジーを希望する」コラムにも「『ライトノベル』とは何か?」コラムにも「相手に届けたい」という思いがあること自体は素敵であると考えています。

 ただ、伝え方にも様々手法があるし、相手がいる以上はそこを意識しないといけないのではとも考えています。

 その点、届けたいという気持ちに見合った手法では決してないことが、ただただ残念でなりません。


 コラムにもある角川氏の「角川文庫発刊に際して」には、とある文が主題として書かれています。

 全文が角川ホームページに掲載されているので、しっかり読み込んでみると、コラムで理念として持っているという文化、とはまた違った内容という印象を受けます。

 以下一部抜粋です。


 引用ここから――――――


 西洋近代文化の摂取にとって、明治以降八十年の歳月は決して短かすぎたとは言えない。にもかかわらず、近代文化の伝統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗して来た。そしてこれは、各層への文化の普及滲透を任務とする出版人の責任でもあった。

 一九四五年以来、私たちは再び振出しに戻り、第一歩から踏み出すことを余儀なくされた。これは大きな不幸ではあるが、反面、これまでの混沌・未熟・歪曲の中にあった我が国の文化に秩序と確たる基礎を齎らすためには絶好の機会でもある。角川書店は、このような祖国の文化的危機にあたり、微力をも顧みず再建の礎石たるべき抱負と決意とをもって出発したが、ここに創立以来の念願を果すべく角川文庫を発刊する。


 引用ここまで――――――KADOKAWAホームページより


 自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として我々は形成されるべきだった、そう意味がとれます。

 それでは、本格ファンタジー、そのウェブ小説界隈、そこに柔軟な良識はあるでしょうか。

 名興文庫の掲載コラムに、自由はあれ、きちんとした批判はあったでしょうか。


 私はいち大人として、それにノーを突きつけたい。

 自分が誇れるものを他者に紹介するときに、決して他文化をけなさねばならぬ道理はないのです。


 むしろけなしてはいけない。


 危惧はあっていい、けれども批判するなら明確な数字やデータや調べたことを加味し印象のみで語らない。

 そして、何人たりともそれを楽しむ人に砂をかける権利はないのだから、「貶し言葉を使うだけ」にとどめない。

 それをして良いのは、幼な子だけです。

 まだ世間を知らぬ小さい子にだけ、その権利はあって、子供時代はなぜなのかを考え身につける期間でもある。

 私はそう考えます。




 危惧といえば、「桜の花の弾丸は撃ちぬけない 名興文庫のラノベ炎上芸について思ったこと」というコラム? note記事?? 読んでライトノベル〜の方のコラムに感じた「大多数の総意的に書いたことの論拠がそれなん?」が自分だけではなかったことを知ったので、抱えるコラムニストが今の所軸ブレする類の方で、文庫は大丈夫かしら? と勝手に心配しています。

 ※ この一文を追加してる現在不思議な事象が起きていて、あちゃー状態です。




 というかさ、そんなに誰かとバトりたいなら俺とポケカでバトルしよーぜ!!




 いやはやほんと、ポケットモンスターは日本の本格ファンタジーの宝じゃのう、ピ、ピカチュウ〜。



――――――――――


後書き


 真面目に不真面目、の作者の方とかも長年第一線。

 で、今でも新刊を出してらっしゃって、すごいなぁと思います。


 そうそう、一番のツッコミどころは民放で放送されてなかった海外ドラマが創作界隈で話題に上ってない! のくだりデス。

 コンテンツは今や共通項になりにくくなって久しいですが……実に興味深い。


 私の場合は、縦も横も軸が多様化した現在、ぶっ込んだネタも古かったりするのでわかられないのが当たり前田のクラッカー前提でこれ書いてます、よ!

 だからこそ、わかってもらえたら嬉しさもひとしお感ありますよねぇ。(個人の感想です)

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