第23話

 可愛いと言われるのは昔から好きではなかった。か弱い存在に思えるからだ。


「じゃーな菊光!」


「おう」


 菊光は走り去る子どもたちを見送ると、マントを翻した。稽古場、という通称になりつつある広場を後にした。


 西の空はユズカの髪と似た色に染まっている。頭上ではカラスが鳴きながら、森がある方角へ飛んでいく。彼らも家に帰るのだろう。


 社務所の横の建物が近くなると、征司たちのにぎやかな声が聞こえた。


 一番最後に帰ってきた菊光を、縁側でユズカが出迎えてくれた。彼女は片膝を立てて座っている。


「おかえり、菊光。今日も子どもたちの面倒を見てくれてありがとう」


「いえ……」


 ユズカがほほえんだ。


 本当に綺麗な人だと思う。女から見てもほれぼれする麗しさだろう。今日も小紅がユズカのことをうっとりと見つめていた。


 その小紅だって可愛い。長い桃色の髪はつややかで、髪を留めている赤いちりめんがよく似合っている。ある時、町で買って以来気に入っているらしい。


 たまに菊光があげた組紐でまとめてることもある。


 その後はいつものようにカツミが用意してくれたご飯を皆で食べた。数日前から二人増えたが、カツミにとってはどうってことないらしい。むしろ食べてくれる人が増えるのが嬉しいと笑った。


 ユズカは相変わらずおかずと酒しか口にしない。だが、最近は清命が晩酌に付き合ってくれるのが嬉しいようだ。






 今日もユズカと別々に終い湯に入った。その帰り、菊光は風に当たりたいからと彼女と別れた。


 村の中を歩き、森の手前にたどりついた。そこには小川が流れている。だが、人が訪れることはない。子どもたちも小川では遊ばないと話していた。


 ここにかつて住んでいた人のことを気にしているのだろう。菊光は振り向いた。


 そこには粗末な小さな小屋。木が傷んで隙間だらけのあばら家だ。


『ここにはリサコが一人で住んでいたんだ。本当は家族と神社のそばに住んでいたのに……。人目を避けるために、誰かが使ってた物置小屋で過ごすようになった』


 菊光は小川のほとりにしゃがみこんで手をつくと、水面をのぞきこんだ。満月に近づいてきた月が水面に浮かんでいる。


「おい、何黄昏てんだ」


 振り向くと、狼の尾のような髪を下ろした男が寝間着の袖に手を入れていた。


「京弥……。お前こそ何しにきた」


「迎えに来たんだよ。湯冷めする前に帰ろうぜ」


 彼は何も言わない菊光の横に並んだ。


「ったく……。最近ずっとその調子だな。何がお前をそんな顔にさせるんだ? ん?」


 彼のおどけた声に菊光はうつむいた。


 最近はユズカや小紅のことを見ると、捨てきれない憧れが浮かんでくるようになった。


 男に守ると言われたり、髪をめいっぱい伸ばしたり。綺麗な着物を見て素直に”着てみたい”と口にしたり。


 誰にも言ったことがない、否、言えない心の声。


 それを叶えるには元いた場所へ帰らなければいけない。


「……口裂け女の件が片付いたら君たちと別れようと思ってる」


「は? なんで」


 突然の宣言に、京弥もしゃがんだ。こちらを凝視しているのが分かる。だが、菊光は小川に揺れる満月を見つめていた。


「独り立ちしたいんだ……。ちゃんと」


 その時初めて、菊光は涙を流した。一人で旅を初めてから泣いたことはなかった。


 あふれ出す願望と涙は止まることを知らない。今まで我慢していた分を全て流すように。


 彼が頭に手をのせたがそれを払いのけた。誰にでも振りまく優しさなんか欲しくない。


「俺が簡単にうなずくと思ったか? 征司たちも許すと思うか?」


 珍しく京弥が焦ったような、中途半端な半笑いを浮かべた。


「……思ってない」


「だったらそんな寂しいことを言うな」


「でも……」


 力なくうなだれる菊光を、京弥は腕で抱き寄せた。それを押しのけようとした拍子に体重が前方に偏り、二人して小川へ落ちた。


 川は菊光の膝くらいの水位だが、尻もちをついているせいで胸の辺りまで浸かった。この季節、この時間の水温は低い。寝間着が冷たい水を吸い上げていくのが分かった。


 京弥が突拍子もないことをしたせいだ。菊光は風邪を引く前に腰を上げようとしたが、彼に腕を引っ張られた。


 張った弓が矢を飛ばす勢いのようだった。菊光は今度こそ京弥の胸の中に飛び込んでしまった。彼の胸に耳を押し当てる格好になり、目を見開く。引き締まった男らしい腕と、意外にもたくましい胸板に思わず身を委ねてしまった。


 水とは正反対の熱い体温が心地よい。


 夢見心地に意識がぼうっとしかけたが、菊光は体を四方に捻り始めた。


「はっ……離せ!」


「誰が離すか!」


 菊光はビクッと体を縮こませた。京弥が声を荒らげることはほとんどない。


 京弥は固まった菊光の首筋に顔を埋めた。髪の毛が当たってくすぐったい。 


「泣いてる女を放っておけるわけないだろ……」


 先ほどの声とは対照的な、優しいささやき。甘い声が耳にじんわりと響く。


 その言葉にときめいて何も言えなくなる。


 が、直後。菊光はめいっぱいの力で彼の胸を押し返し、口をわななかせた。


「お……女!? だ、だだ誰のことを言ってんだ!」


 京弥にあごをつかまれた。顔の位置を固定され、彼が近づいてくる。その表情はいつも以上に艶やかで甘い。しかし、細めた目からはどこか危険な香りもした。


 唇を薄く開くと、京弥はフッと笑った。


「俺がお前の正体に気づいてないとでも? 甘く見てもらっちゃ困るぜ、お姫様」


「……!」


 動きを止める呪文をかけられたように、菊光は固まった。


 彼が口にしたのは呪術の類ではない。しかし、菊光の動きを止めるのに十分だった。


 おとなしくなった菊光にほほえむと、京弥は菊光の横髪をすくった。


「お前は相良さがら家の長女、菊花きくか……菊姫きくひめだろ? 俺はお前を連れ戻すために雇われた。まさか男のフリしてるとは思わなかったぜ」






 京弥は十五で旅を始めた。


 親元を離れてこの国を歩き回ったある時、故郷の近くまで戻ってきた。


 彼岸花があぜ道を覆うように咲いている。田んぼは稲刈りを終え、雀たちが落穂をつついていた。


 懐かしい景色に目を細める。幼なじみの征司とはよく、このあぜ道を走って競争していたものだ。田植えを終えたばかりの田んぼに落ちた時は、征司の母親に雷を落とされた。いや、落とされたというより打ち付けられた。何度も何度も。


 懐かしい景色を通り過ぎ、商店が立ち並ぶ町に入った。この近くには武家屋敷があるらしい。


 適当な飯屋に入って料理を待っていると、うどんをお盆にのせた女将に話しかけられた。


『あら色男さん。見ない顔ねぇ』


『旅をしているんです。ところで女将、この辺りで働き手を探している店はありませんか? 宿代を稼ぎたいんです』


 先日は髪飾り屋の売り子で結構な額を稼げた。その時と同じくらい稼げたらいい。


『それなら人探しなんてどうだい? 前払いでこれを渡すよ』


 ”そうねぇ……”と、お盆を前に抱えた女将の背後から声がした。


『こんなに? いいんですか』


 京弥に話しかけたのは、彼の隣の隣の席にいた男。彼は蕎麦をすすっている。


 男は京弥の手元に銭が詰まった巾着をそっと置いた。じゃり、と重たそうな音がして巾着の形が変わる。


『我々が探しているのは武家のお嬢さんなんだ。八方手を尽くして探してはいるがなかなか見つからなくてねぇ……。重要な見合いがあるってのに失踪したとなると信用に関わる』


 話しかけてきた彼は優男風だが、時折目つきが鋭くなる。


 女将が去ると、男は巾着の横に小さな紙を置いた。


 それが絵ではなく写真だと気づいたのは、この約二年の旅のおかげだ。しかし、重要なのはそれではない。


(あの時の……!)


 京弥は箸を持とうとしたが、勢いよく写真を掴んだ。


 そこに写っていたのは髪飾り屋で一目ぼれした市女笠の娘だった。


 まさか本当にお姫様だったとは。立ち居振る舞いや、よく手入れをされた髪から庶民でないことは分かっていたが。


 写真ではっきりと見た彼女はやはり美しい。


 腰まで届く空色の髪を真っ赤な組紐でまとめている。様々な花が散りばめられた上衣と袴は、凛々しい武家のお姫様、と言ったところだろうか。


 それから彼はお姫様探しの旅に出た。征司たちに再会し、鹿子村を発つ時。まさか彼女、その時は彼だが、相手から現れるとは思っていなかった。


 菊花は腰まで届く髪はばっさりと切り、南蛮のマントを羽織った男装姿。


(やっぱり運命か……)


 彼女が牛車に飛び込んで来た時、思わず強く抱きしめてしまった。この女を手離したくない。誰にも渡したくない。


 だが、菊花は京弥の軽い態度が気に入らないようだった。小紅とはその点では話が合っていたらしい。


 彼女の思いとは反対に、京弥はますます彼女への想いを募らせた。


 可愛らしさと凛々しさを併せ持った彼女を見る度、美しくなっていく。自由な小鳥のように旅を楽しむ彼女をずっと守りたい。次第に彼女の両親のやり方に反抗心を抱き始めた。






「貴様……」


 先ほどまでの少年のような振る舞いはいずこへ。高貴な娘らしい態度に、京弥はぞくぞくするのを感じた。


 小紅はもちろん、ユズカにもない空気をまとっている。


 表情も大人のように静かで凛々しいものに変わっていく。


「私は戻らないぞ。これからは一人で生きていく。決められた人生などごめんだ」


「あぁ……見合いを蹴って家出したんだってな。ご両親からいろいろ聞いたぞ」


 武家の長女として生まれ、幼い頃から礼儀作法や剣術を叩きこまれたらしい。弟が生まれてからはどこに嫁がせるか、が彼女の父親の独り言。


 菊花はうつむくと水面に拳を打ち付けた。ぱしゃん、と音がして寝間着に新しい染みを作る。


「私は政略結婚の道具になんかならない……。名前すら他人につけさせるような両親の元になんか帰らない!」


 再び顔を上げた彼女の目は涙で濡れていた。


 これまで耐えてきた重みはどんなものだったことだろう。生まれた瞬間から綺麗な着物やおいしい食事に囲まれても、自由がない。成長してからは好きなこともできなかっただろう。


「違う! お前の名前を考えたのはご両親だ。相談したのが忠之じーさんてだけで」


 だが、これだけは誤解のないように伝えなければ。京弥は菊花の肩を掴んだ。


 ふれても彼女は拒絶することはなくなった。だが、静かに細めた目は刃のような輝きを宿している。


『菊の花言葉は高貴。高貴な心と優しい心を持ち合わせてほしい……。花のような人生を歩めますように、という願いからつけたんだ』


 彼女の両親に聞かされた話だ。正式に雇われた時、彼女の実家へ挨拶に訪れた。その時、幼い菊光を収めた写真をいくつも見せてもらった。


「火傷は嘘だろ。ご両親はそんなことは一度も口にしなかった。大方、風呂で正体がバレないようについた嘘だろう。それと、菊光は弟の名前だ」


「あなたの言う通り、火傷は嘘。菊光という名も弟から借りたの」


 自分の名前の由来を知った彼女は、泣きながらほほえんだ。何度も涙を流したせいで目元が赤くなっている。


 京弥はようやく穏やかになった彼女に安堵した。凛々しい彼女も好きだが、初めて会った時のにこやかな顔を再び拝めたことが嬉しい。


「それで……私をどうするの?」


「決まってんだろ。これからも一緒にいるんだ。俺と……俺たちとな」


 もう一声なのに。肝心な時に限って最高の口説き文句は喉の奥でしぼんでしまう。


 彼女は弱々しく笑った。


「そうできたらいいのに……。きっとまた、追手がくる。あなたも見たでしょう、矢羽根村で」


「また追い払えばいい。……俺が守るから」


 やっと出てきたのはありきたりな言葉。安っぽい誓いに菊花はいつものように呆れるだろう。


「ありがとう。京弥の剣術の腕前は私が対戦した中で上位だ。心強いよ」


 初めて彼女に素直に認められた気がした。いつもだったら”ボクだって……”と不満げにもらしていたのに。菊花は随分素直な性格らしい。


「ところで……男装は続けてくれないか?」


「どうして?」


「アイツらの気を引かないためだよ」


 京弥は菊花の唇に自らのそれでふれた。言葉よりも行動だ、という思いからではない。彼女にふれたかった。どれだけ想いを募らせてきたか分かってほしかった。


 彼女は息を呑み、突然の口づけに固まっている。普段だったらすぐに押し返していただろう。


 おかげで柔らかくて甘い唇を堪能できた。


 どんな砂糖菓子でも彼女には勝てないだろう。

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