第15話

「もうやめてください、母様」


 うつむき、物思いにふけっている女狐に声をかけたのは小夜だった。


 青藍色の豊かな髪を揺らしながら彼女に近づく。その瞳は憐みに細められていた。


 カランコロン、と下駄を鳴らしながら歩み寄る小夜。筋肉神主は止めようとし、目を見開いた。


「小夜? 何を言っているのだ……?」


「さよ……? お前は……!」


 名前を復唱した女狐もまた、顔をバッと上げた。その目は憎々しさに細められ、口元は怒りでわなないている。杖ほどの大きさのキセルを握りしめると、乾いた木の音がかすかに鳴った。


「ヨヅキ……お前が妾たちの元から去ったせいでヌシ様は……!」


 小夜はふぅ、と息を吐くとたちまち白い光に包まれた。征司たちが思わず腕で顔を覆うと、次の瞬間に小夜の姿はなくなっていた。


 代わりにそこにいたのは真っ白なキツネ。まるで筋肉神主の話に聞いたキツネのようだ。


「小夜さん……? 化けていたのか……」


「お前だったのか……あの時の美しいキツネよ……」


「はい。今まで黙っていてすみませんでした」


 筋肉神主は問いかけなくても確信したようだ。


 白いキツネが小夜の声を発するのはなんとも不思議だった。だが、女狐をまっすぐに見つめる横顔は小夜と重なる。種が違っても。


「私は父様が人間を食べるのが嫌でした。誰かの大切な人たちをさらうあなたたちが許せませんでした。……きっと母様だって、さらわれて化け狐の嫁に───」


「だまれぇー!!!」


 細腕でいとも簡単に杖を振るった女狐は、小夜のことを薙ぎ払った。その咆哮は火山の噴火のようで、周りの木々にとまっていた鳥たちが一斉に飛びたっていった。


「小夜!」


 筋肉神主がとっさに地面を蹴り、小夜のことを受け止めた。


 杖にぶたれた部分が赤く染まっている。骨も折れているかもしれない。彼女はうめき声すら上げられずに苦しんでいる。


「女狐! 自分の娘になんてことしやがる!」


 そこへ飛び出たのは征司だった。刀を抜き、女狐に向かって突き付けている。しかしその手は震えている。


 彼の心情を見透かしたような女狐は鼻で笑う。


「小僧……それでどうにかできると?」


「知らん!」


 女狐は杖で足元を叩き、黒い雲を発生させた。また飛ぶ気だろう。


「空中戦ならボクに任せろ、征司」


 菊光も刀を抜いた。誰よりも先に短刀を構えていたサスケは、”え、あの……”と小さく声を上げている。


「やっと俺の神貴の出番が来たと思ったのに……」


 黒い雲が女狐の足元を覆うと、分裂した雲がキツネの形になって唸り声をあげた。


「キツネたちよ! こやつらと遊んでやるがいい!」


「またかよ……! 小紅! 俺から離れるな!」


「征司……」


 小紅は昨晩のように前に出た征司に、そっと寄り添った。


 その後ろでは菊光が刀を抜き、さっそく一匹仕留めた。刀身にまとわりついた灰色の煙を振り払うと、まっすぐに女狐を見据える。


「今度は幻覚に惑わされないぞ……」


 勇ましい横顔に、震える手をぎゅっと握りしめる。征司は目の前に走ってきたキツネに向かって刀を振り下ろした。


「神主さん! 小夜さんは……!」


「動けないが意識はある!」


 筋肉神主はキツネになった妻を片手に抱きながら、とびかかってくるキツネに手刀をくらわせている。すぐに霧散し、さらに他のキツネが噛みつこうとするが一匹も逃さず、たくましい腕を振り続ける。


「サスケ!」


 やはり動物の形をした化け物に耐性がないサスケは、怯えながら短刀を振っている。それはキツネに当たっていないが、キツネたちは近づくことができないでいる。


 菊光がサスケにとびかかろうとしたキツネを突き刺し、彼を立たせる。


「足がすくむだろうが座ってたらいけない」


「申し訳ないっス……うわああぁぁぁ!」


 震える足で立ち上がったはいいが、飛びかかってきたキツネが一際大きくて驚いたようだ。サスケは涙目で短刀を投げつけた。


「あ、バカ! 戦場で武器を捨てるヤツがあるか!」


 菊光が怒鳴ると、短刀は大きなキツネめがけて飛んで行った。まるで放たれた矢のように。キツネは消え、短刀が勢いよくサスケの元へ戻ってきた。


「うっ……っス!?」


「なんだ今のは……」


 二人で顔を見合わせ、サスケは再びキツネに向かって短刀を投げつける。足元のキツネは短刀によって切り裂かれ、短刀はサスケの手元へ飛んで戻ってきた。


 おもちゃを投げてもらった犬がそれをくわえて戻ってくるように。


「これは……随分いい神貴のようだな」


「はいっス!」


 サスケは震えが取れた声で返事をすると、次々にキツネめがけて短刀を投げつけた。慣れてくると弧を描くように投げ、一投で二匹も三匹も仕留められるようになった。


 菊光はサスケの心配はいらないことを悟ると、女狐に向かって疾走した。自分たちがキツネに気を取られている隙に空中へ逃げようとしている。彼女の足元が地面から離れ始めていた。


「逃がすかぁ!!」


 菊光は女狐の前で垂らされた帯に切っ先を突き刺した。地面に縫い留めれば逃げることはできないだろう。


 女狐は忌々し気に顔をゆがめ、赤いまなじりを吊り上がらせる。怒りが頂点に達したのだろう。唇が震えている。


「サスケ! 頼めるか!」


 自分の武器は大事な役割を果たしている。しかし、拳では勝てる気がしない。


 菊光が後ろを振り返らずにサスケに応援を頼むと、女狐の背後から何かが現れた。


「もうやめようぜ……奥さん」


「京弥!?」


 キツネを相手にしていた全員が振り返る。その瞬間にキツネも、女狐の足元の黒い雲も消えてしまった。


 名前を呼ばれた彼は反応することなく、女狐のことを後ろから抱きしめた。


「なっ……何をする!」


「これ以上人を殺めるな。伊吉いよしさんが悲しむぞ」


「何を言うておるのじゃ! 離さんか小僧!」


 女狐は本気で怒った様子で、通常の大きさに戻したキセルで京弥の頭を殴りつけている。


 しかし、彼は力強く抱きしめた腕の力をゆるめることはしなかった。


「伊吉だと……?」


「誰ですか?」


 その名前に唯一反応したのは筋肉神主だった。小夜を両手で抱え直し、目をこすっている。


「つい最近葬儀をあげた男だ。化け狐に妻をさらわれた……。あまりにも姿がかけ離れているものだから確信は持てなかったが……」


「ええいうるさい!」


 勢いよく振り上げたキセルがとうとう折れた。京弥の頬は何度も打ち付けられたせいで赤黒くなっている。


 女狐は髪から白いかんざしを抜き、京弥に向かって突き刺そうとした。


 彼はその手をはたくと、彼女を離して向かい合った。


 その表情はこの場にいる誰もが見たことがないほど、真剣な表情をしていた。


「本当は旦那さんのことを忘れられなかったんじゃないのか!? この赤い手甲が何よりの証拠だ。鍬でケガした時に伊吉さんに贈られたんだろう? こんなに姿が変わってしまったが、これだけは外せなかったんじゃないのか!?」


 京弥は嫌がる女狐の腕を引っ掴み、着物の袖をまくりあげた。白い手を覆うように着けられていたのは真っ赤な手甲。しかし、まなじりや唇に染まっているような毒々しい紅ではなく、あたたかみのある朱色だ。











『こんなに深く切れてしまって……俺がいながらすまない』


『平気です。もう痛くないです』


 誤って鍬でケガをしてしまった。農具置きに立てかけようとしたら手を滑らせた。そのせいで手の甲を横切るように長い傷ができてしまった。


 幸い、すぐに血は止まった。縫う必然もない。


 夫────伊吉は、包帯を巻き終えると自分の胸をドンと叩いた。


『しばらくは畑仕事を休んでくれ。家事も俺にまかせろ』


『そんな、あなたになんでもかんでもやらせるわけにはいきません』


『俺を見くびっているな? こう見えて母の手伝いをよくしていたんだぞ? 洗濯も飯の準備もお手の物だ』


『それは分かっておりますが……あなたの皿洗いは甘いので心配なのです……。この前もしゃもじに米粒が……』


『わ……分かった分かった! 丁寧にやるから! なんならお前の監視の下で作業するから!』


『ふふ、ありがとうございます』






 桜が満開を迎えたある夜。晩御飯を終えると伊吉に連れられて外へ出た。


 彼が教えてくれたのは、この村に古くから伝わる月まじない。若い娘の間では恋愛成就のおまじないとして流行っているそうだ。


『お前は嫁としてこの村に来たから知らないだろ?』


『はい。どのようにやるのですか?』


『こうしてね、雲一つないまっさらな夜空の日に、月に祈るんだ。叶えたいこと……なんでもいい』


 夫と一緒に夜空を見上げると、桜吹雪の向こうで三日月が輝いていた。


『お月さんにお前の手の完治を祈るが……俺としては別の願掛けもしたい』


 春にしか見られない美しい景色に息を呑むと、夫が懐に手を入れて何かを取り出した。


 それは真っ赤な布。淡い月明りの下でも分かる、鮮やかな朱色だ。


『手甲だ。傷を保護できるし、お守り代わりに着けていてほしい』


『嬉しい……心強いです』


 その場で夫は手を取り、傷を優しく覆いながら手甲の紐を結んでくれた。


『でも……一人で着けるのはいささか難儀ですね』


『大丈夫だ。毎日俺が着け外ししてやるよ』


 ”もしかしたら他のものも外すかもしれないけど……”と、冗談交じりに話す彼の腕をはたいた。






 傷もふさがり、痛みもなくなった。痕が残ってしまったがどうってことない。伊吉の愛情を再確認することができたのだから。


 伊吉は無理はするなと釘を刺したが、畑仕事や家事を本格的に再開することにした。


『……とは言え、本当はお前の握り飯を食べられるのが嬉しいんだ。お前が作った飯はこの村一番だ!』


『ふふ、あなたったら……。今日は特別に梅を多めに入れました。この前ご近所さんからお裾分けして頂いたものです』


『おっ! それはいいことを聞いたな。あの人の作る梅干しも絶品だ』


 そう言って伊吉は鍬を肩に担ぎ、荷物が置いてある場所へ向かった。いつもより早いが、昼飯にするつもりなのだろう。


 食欲に正直な夫のことを笑うと、自分も作業を中断しようと鍬を置いた。


『なんと美しい……』


 夫ではない声が耳の中でこだました。辺りを見渡すと、夫以外に誰もいない。いるのは遠くの他の畑や田んぼで作業をしている者だ。


『我が嫁にしよう』


 また聞こえた。耳の中で何重にもこだまする幻聴が気持ち悪くて、思わずしゃがみこんだ。


 その瞬間、一陣の強い風に吹かれた。春一番よりも、野分よりも激しい突風だ。思わず目をぎゅっととじる。


 しかし、吹かれているのではなかった。突風の中にいるというか、自分が突風になっていた。


『なに……っ!?』


 何者かに抱えられ、疾走していた。


 自分を抱え上げているのは狐の面で顔半分を隠した妖しい男。顔を上げると、夫がこちらに手を伸ばしながら必死の形相になっていた。


 彼と一緒になってから、あんな顔を見たことがない。


『化け狐が出たぞー!』


『────ちゃんがさらわれた……!』


 狐男は農具を向けてくる村人をものともせず、疾走し続けている。正直、彼らの足の速さはそよ風程度でしかない。


『あなた……っ』


 遠くなっていく愛おしい人に向かてって手を伸ばす。しかし、距離は離れていくばかりで自分も男の腕から逃れることができないでいた。


『────ヨ……おサヨー!!!!!』


 愛おしい人の最後の記憶は、悲痛な表情と大絶叫だった。











(あなた……伊吉さんっ……どうして忘れていたの……!!)


 女狐は瞳にいっぱいの涙をため、口元をゆがませた。こんな表情を浮かべたのはいつ以来だろう。愛する人と祝言を挙げた時が最後だろうか。


 彼女は化け狐に出会ってからの記憶を脳内に巡らせ、肩を震わせて泣き崩れた。


(なんてことを……! 私だってさらわれたのに、同じように娘たちをさらった……しかも彼女たちを化け狐に……)


 罪を重ね過ぎた。地獄で何万回と業火に焼かれても足りないくらいに。


 涙目で絶叫していた娘たちの顔がよみがえる。おそらく、伊吉との別れを察した自分も同じ顔をしていただろう。


(閻魔さまに地獄に落としてもらうのもおこがましい……)


 女狐は目の前の青年の手をそっと離すと、人差し指から青い炎を生み出した。


「女狐……?」


 曖昧な笑みを浮かべる彼にほほえんだ。こんな優しい表情を化け狐に向けていた自分が恐ろしい。


(伊吉さん、ごめんなさい……私は終わりのない暗闇をさまよいます。あなたの幸せを願いながら……)


『お前といられるならどんな時だって幸せだ』


 そう言い切った彼の笑顔の記憶さえあればどうってことない。自分を消し炭にすることも。


 女狐が人差し指の炎に息を吹きかけると、炎の勢いが増した。そのまま炎に包まれ、帯や着物や髪の毛が燃え上がる。


 真っ白な肌は砂のように崩れていった。

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