第14話
小紅が黒狐に襲われかけた次の朝。
京弥は再び山に行く、という一行を見送った。
実は今朝、気になることがあって残ることを選んだのだ。
昨夜、夜明け前に目覚めた彼は外に出て、星を眺めていた。
冷えてきたので中へ戻ろうとしたら、赤く光る小さな点をいくつか見つけた。低木の茂みからこちらをのぞくように瞬いている。
近づこうとしたらそれは遠ざかってしまった。茂みの中に入って正体を確かめようとしたら、茂みの端から何かが飛び出た。すばしこいらしい。
その時、全貌は明かせなかった。しかし、京弥の髪と同じ黒い尾だけは目の端でとらえた。
そしてなぜか外にいた小紅が黒い狼に唸られ、先ほどの正体が判明した。
(アイツら……麓に下りてきていたのか?)
あの狼たちは間違いなく女狐の手下だ。額の傷、血のように赤黒い瞳。どう見ても普通の狼ではない。
京弥は筋肉神主の神社を出ると、商店がいくつか並ぶ通りへ向かった。途中で通った家や、店の軒先には矢飾りが吊るされていた。
ここへ初めて訪れた時に見た、真っ黒な矢を荒縄で吊るしたものとは違う。
鮮やかな紫、青、緑に染まった矢羽根が美しい。それを吊るす紐には、あられのような球状の石に穴をあけたものが通されている。
矢飾りや商店の品物に目移りしながら歩いていると、鳥がさえずる声が耳をくすぐった。
いい朝だ。爽やかな空気と美しい鳥の声。高い位置にある朝日は白くてまぶしい。
細めた目で振り向くと小鳥が飛び立った。と、同時に色めきたつ声を浴びた。
「あらぁ……!」
「あんな色男、いたかしら……」
先ほどから注目されていたらしい。歩きながら視線をずっと感じていた。
その正体は村の娘たち。彼女たちはおつかいや仕事の途中だろうか。手には大量の衣服や野菜。
娘たちは長い髪を頭のてっぺんでまとめたり、手拭いを巻きつけて髪を後ろに流している。中には小さな矢をかんざしのように挿している者もいた。
彼女たちに向かってほほえむと、たちまち黄色い声が上がった。彼女たちは雪崩のように近づくと京弥を囲んだ。すると、その内の一人が話しかけてきた。
「ねぇ、いつからこの村にいるの?」
村の外の人間であることはお見通しらしい。化け狐を退治しに来た、と言うと娘たちは恐れた表情になった。きっとお年寄りの言葉を思い出しているのだろう。
京弥は目を細めると、目の前の娘の頬を軽く撫でた。
「じいさんばあさんの言うことがなんだってんだ。その言葉がお前さんたちを守ってくれるのか? 俺たちはお前さんたちを化け狐から守るために来たのだよ」
そう言うと、別の娘が京弥に駆け寄ってきて背中に腕を回した。他の娘たちも袖を引いたり腕を絡める。ずいぶんと積極的な娘たちだ。
アイツもこうして可愛らしく甘えてくれたらいいのに。そう思いながら彼女たちの頭を順番になでる。
「ところで……最近亡くなった男がいるだろ?」
「あぁ、奥さんが化け狐にさらわれた旦那さんのことかい?」
「よければ男の妻について教えてくれないか? 化け狐の嫁になったと聞いているが」
娘たちは顔を見合わせ、顔を曇らせた。
「旦那さんは本当にかわいそうだったわ……。お二人は心の底から愛し合っていたのよ」
たった一年。いや、彼にとっては何十年、何百年に感じていたかもしれない。愛する妻を失った彼の悲しみは計り知れない。
「奥さんは随分働き者で、畑仕事が得意だったよ。大きな鍬で丹念に畑を耕す姿はたくましかった。昔、その鍬でケガをしたって手の傷を見せてくれたことがあるよ」
そう話した娘は、自分の手の甲を見せた。
「いつも赤い手甲をはめていたのさ。本人が隠したい、ってわけじゃなくて旦那さんにお守り代わりにもらったんだってのろけていたよ」
「ほう……」
蓮っ葉な口調の娘の手を取ろうとしたら、”やだよ、あんた”と手をはたかれた。しかし、その表情ははしゃいでるように見えた。
征司たちは山を歩き回り、休憩をしようと岩の上に腰を下ろした。
水筒を下ろした小紅の横で、小夜が動きを止めた。握り飯を取り出そうとして、風呂敷の縛り口をほどいていた。
「小夜さん?」
小紅の問いかけに優しくほほえむと、小夜は風呂敷を岩の上にのせて立ち上がった。
「あなたは征司君のそばに……サスケ君、あなたも短刀を出して」
「え……はいっス!」
「おっ。サスケ初めての神貴じゃん!」
「来るわ!」
はしゃぐサスケと征司を叱責する小夜の声は、今までふれたことがない鋭さをはらんでいた。
瞬間、異様に冷たい風が強く吹いた。まるで冬のような寒さに包まれ、思わず身震いをした。
「主ら……懲りずにまた来たのかえ?」
「女狐!」
黒い雲に乗った、花魁のような姿をした人外。特徴的な吊り上がった目は忘れもしない。
女狐が冷めた顔で地上に降り立つと、黒い雲が霧散した。着物の合わせから白い裸足がのぞく。
彼女がキセルをふかすと、それはたちまち杖のような長さに巨大化した。
「小夜、下がりなさい」
「旦那殿こそ……!」
前回来た少年たちの他に大人が二人いる。しかも夫婦らしい。
女狐はキセルを地面に下ろすと、目を伏せた。
自分にも夫がいた。狐の顔と人間のような体を持った、この山のヌシだった。いつも顔の半分を狐の面で隠していた。
女狐はある日突然、この山にいた。いた、と言うのもおかしい表現だが、それ以前の記憶がないのだ。
質素で薄汚れた着物に身を包み、赤い布で腕から手を覆っている自分の姿が一番最初の記憶だ。
なぜかその時は必死に走っており、息は上がって喉はカラカラで肺まで乾燥していく。草鞋を履いた足は疲れて、ふくらはぎまで腫れあがっているような気がした。
額から汗が流れ、首筋まで垂れていく。気づけば体中がべとべとして気持ち悪かった。
『待て!』
後ろから大きな声で呼び止められるが、自分はそれを無視して走り続けていた。
声の主はかつての山のヌシだ。その時の自分がなぜ彼から必死に逃げていたのか、今となっては理由は分からない。
彼の声は青年にも老人のようにも聞こえる、不思議な声だった。時々、子どもや若い女のように聞こえる時もあった。
その声が聞こえなくなる距離まで……と足を動かし続けていたら、もつれて倒れ込んでしまった。疲れには勝てなかったのだろう。その先に岩があるのに気がついたが、避けることができなかった。
『お前……!』
山のヌシが息を呑むのが聞こえた。目だけ上げると、手を空中で中途半端に伸ばして震えている。
それも当然だ。自分は血を流して動けずにいるのだから。
岩で頭をぶつけ、当たり所が悪かったのだろう。顔の横に投げ出した手にまで血が流れてきた。
いつの日かもこんな風に血を流したことがある。その時は手早く自分の衣を裂いて手当をしてくれた。何年も着古した着物を仕立て直したばかりだと言うのに、ためらいなく。
晴天の空と同じ、綺麗な薄水色の布が真っ赤に染まった。まるで夕日のように。
しかし、その顔は山のヌシとは違うように思えた。顔に布はなく、目や鼻がぼんやりと浮かぶ。
(あなたは……誰……)
次に目覚めた時、自分の体がなんだか軽く感じた。このまま空にでも飛んでいけそうな。
夢を見ているわけでもない。体の下にはふかふかの布団が敷かれ、同じくふかふかの布団がかぶせられていた。
頭をさわると、そこには血はついておらず傷口すらなかった。痛みもない。
布団から起き上がってまず驚いたのは、周りに灰色のキツネがたくさんいたことだ。しかも人間のように言葉を交わし合っている。
皆、着物や袴を身に着けて何やら忙しそうにしていた。どうやら桃色の着物を着ているのが雌で、水色の袴をつけているのが雄らしい。二足歩行で移動している彼らは、キツネの姿をした人間のようだ。
「お目覚めですか」
いつの間にかすぐそばに雌のキツネがいた。他の雌より華美な着物だ。まなじりは真っ赤に染まっている。彼女と目が合うと、目を糸にした。
「お加減はいかがですか、アマツキ様」
「アマツキ……?」
「あなた様のお名前ですよ。ヌシ様が授けられたんです」
彼女はスッと立ち上がり、新たに現れた人物に場所を譲った。
山のヌシだ。白、赤、紫、金などの色をふんだんに使った豪奢な着物をまとっている。歩くと重たそうな衣擦れの音が後を追った。
見たことのない派手な着物に目を細めると、彼がそばであぐらをかいた。
顔半分を覆ったキツネの面は、よく見ると目の部分は黒く塗りつぶされていた。
むき出しになっている顔の下半分は、他のキツネたちとあまり変わらない。キツネの仮面をつける意味はあるのだろうか。
彼のことをまじまじと見つめていると、居心地が悪くなったのか咳払いをした。拳を膝の上にのせ、キツネのヒゲが生えた口を開いた。
「お前のことは食べない。死にかけたお前を見て、とっさにわしの妖力を分け与えた。お前は今日からわしの妻じゃ」
「あなたの妻……?」
「さよう。お前のように美しい女は久しぶりに見た。胃袋に入れてしまうのはちと惜しい」
食べるつもりで追っていたのか。今さらだが背中に悪寒が走る。それでも、自分が頭を打ち付けた時のあの表情は、本気で心配してくれたように見えた。
「でも私は……」
「姿かたちならば心配ない。わしの妖力を分けた時にお前は不老不死になった」
不意に頭をなでられ、反射で肩が跳ねる。傷口があったであろう場所だ。山のヌシだからこそ、これを数刻で完治させられたのだろうか。
そこからはキツネたちの言うまま、するがままに彼と婚姻の儀を上げた。
絹の寝間着から白無垢に着替えさせられ、鏡の前に立たせられた。
そこにはキツネのように目が吊り上がり、雪のように真っ白な肌の女がきょとんとしていた。
自分はこんな姿だっただろうか、以前はもっと土煙にまかれたような肌色だったような……。
しかしそれを思い出させるような余裕はなく、化粧をほどこされた。おしろいをはたかれ、唇には紅を引き、まなじりを強調するように朱を入れる。
気づけば山のヌシの横に座り、酒が注がれた杯を差し出されていた。
どうしたらいいのか分からずに戸惑っていると、雌のキツネが近づいてきて受け取るように言われた。
「一口だけ呑むのですよ」
先ほどの華美な着物をまとったキツネだ。かんざしなんかを身に着けて、お祝いの気持ちを表している。
やはりここでも言われるがまま、両手で持った杯に口をつけた。随分強い酒だ。においだけで酔えそうだ。
喉から胃にかけてじんわりと熱くなる。酒独特の風味に水を飲み干して洗い流したくなった。
そんな自分と違い、山のヌシは片手で一気に杯の中身を飲み干してしまった。大層うまそうに。
彼のそばで控えていた雄のキツネが眉をひそめるのも構わず、口元を乱暴に拭う。一連の行動に注意されたようだが、彼は軽く笑ってみせた。
「天に浮かぶ月のように美しい女が妻になるのじゃ。嬉しくて一気呑みもしたくなるわい」
「ヌシ様……。一時的とは言え、妖力が弱くなっているのです。お体に障ることはお控えください」
「口うるさいのう」
山のヌシがぶうたれた瞬間、晴れているというのに雨が降ってきた。
いつの間にか雲が移動してきたのだろうか。その割には切れ切れの雲ばかりだ。
「祝福の雨じゃな」
山のヌシが番傘を掲げ、雨を遮ってくれた。目は見えないが、こちらを見下ろす表情は優しい気がした。
(天の月……)
『夜空の月のように美しいな、お前は。いつでも俺のことを静かに見守ってくれる』
似たことを誰かにも言われたことがあるような。こんな優しい表情と共に。その時に教えてくれた月まじないは、後に生まれた娘に教えてやった。
婚姻の儀を上げて少しもしない内に娘が生まれた。白く長い髪が美しい少女だった。”かあさま、とおさま”と舌足らずな声で呼ばれるのが愛おしくてたまらなかった。
しかし、娘は自分たちのことを裏切って山から出ていってしまった。それは山のヌシが死んだ直後だった。
妖力を分け与えてくれた彼に、元の妖力が戻ることはなかった。”もう歳かもしれない”と、晩年は心も弱くなっていった。
元気になってもらおうと、彼の好物である若い娘の血肉を口元に寄せても、彼は口にしようとしなかった。以前は自分で連れ去っては、骨が綺麗になるまで血まで舐めつくしていたと言うのに。
自分に妖力を分けたのが原因であれば、自分を食べてほしいと懇願したこともある。しかし、彼は頑なに首を振った。
「この山を守っておくれ……お前にしか頼めぬ」
そう言い残して死んでしまった。黒い灰だけを残して。
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