第13話

「きゃっ……!?」


 家の中に戻ろうとしたら、背後から唸り声が襲った。


 小紅は振り向き、驚きと恐怖で尻もちをついてしまった。


 背後にいたのは三匹の黒いキツネ。狼のように唸り声をあげ、口の端からよだれが滴り落ちる。


 不穏な空気に月も姿を消してしまった。いつの間にか真っ黒な雲が立ち込めている。


(征司……!)


 じりじりと近づいてくる黒いキツネたち。喉からは荒い息が繰り返し吐き出され、心の中でしか助けを求めることができない。


 その内の一匹が額に十字傷を持っているのに気がついたが、今はそんなことはどうでもいい。


(足が……動かない……っ!)


 逃げようにも腰が持ち上がらない。後ずさりもままならない。


 すると、キツネたちがピタッと動きを止めた。その瞳は凶暴さを秘めたまま。飛びかかるつもりなのだろう。


「ま……さし……」


「小紅ー!」


 漏れ出た息で愛しい人の名を紡ぐと、彼が目の前に現れた。


 寝間着のままなのは分かるが裸足だ。じゃり、と足で小石を擦る音がした。


 同い年なのに、今はその背中が大きく見えた。


 黒いキツネたちは新たな人間が現れたことに驚いたようで、わずかに引き下がった。


「大丈夫か小紅!」


「大丈夫だ!」


 菊光の声だろう。小紅は口をパクパクとさせただけで、征司が代わりに答えてくれた。


 武器を持たずにキツネたちと小紅の間に飛び入ったのに、恐怖に駆られた様子はない。


 普段は呑気で何も考えていないようなのに、いざとなれば誰よりも勇敢だ。


 そんな彼だから好きになった。危機的状況であるのに胸が高鳴る。


「黒いキツネ……お前たち、女狐の手下だな? 何しに来た!」


 武器も持たずに現れた彼は、腕を振ってキツネを追い払おうとした。キツネたちは飛びすさるが、征司が他のキツネに目を向けたスキに小紅に近づこうとする。


「なんだなんだ……」


「旦那殿……!」


 騒ぎを聞きつけたらしい筋肉神主と小夜も現れた。二人も寝間着だが、草履を履いている。


 小夜は瞬時に状況を理解したのか、寝ぼけ眼の筋肉神主の前に飛び出た。


 すると、征司と小紅を狙っていたキツネたちが小夜たちに目を向けた。


 らんらんとした赤い瞳。小夜は灰色の瞳に強さを宿し、静かに見つめ返す。


「……帰りなさい。あなたたちの来る所ではないわ」


 キツネたちは唸り声を上げるのをやめ、おとなしくなった。


 そのスキに京弥とサスケがキツネを捕まえようとしたが、小夜は止めた。


「……もう大丈夫。おとなしく帰ってくれるはず」


 不思議と彼女の言う通りになった。キツネたちは尾をたらし、背を向けた。











 操ったキツネを山に呼び戻した女狐は、彼らのことを消し炭にした。


 指示にないことをし、ヤツらに気が付かれてしまった。もう少し観察していようと思っていたのに。


 しかし、おかげでおもしろい存在を見つけた。


(あそこにいるおなごたちはワケありばかりだのう……)


 紫煙をくゆらせ、里の方に目を向ける。その吊り上がった目は愉快に細められた。











 今日は筋肉神主たちも山へ同行することになった。


 強く止めることはしなかったが、山に入ることにいい顔をしなかった彼だ。他の村人の目もあるだろうに。


 紅葉が始まった山の中を妻と並んで歩く。彼は木を見上げながら感嘆のため息を何度ももらした。小夜も楽しそうだ。


「本当によかったんですか? さっきだって村のお年寄りに見られてませんでした……?」


「そうだな。でも、化け狐が出てこなくて女狐だけが出てきたというのが気になって……。しかも里にまで使いを寄越しただろう。ここしばらくはこちらに干渉してくることはなかったから気になってな。それに……今日、共に参ろうと決めたのは小夜の方なのだよ」


 今日は京弥がいない。気分じゃないから残ると言っていた。


 彼は一番遅くまで寝ていて、他の者たちが朝食を食べ終えた頃に起き出した。


 山へ行く準備を終えた神主はこれ幸いと社務所の鍵を渡した。


『それならば神社のことをお願いしたい。村人が私のことを訪ねてきたら用件を聞いておいてもらっていいか?』


『もちろんですよ』


 京弥は寝ぐせをなでつけながら笑んだ。長い髪をほどいた姿は相変わらず女にしか見えない。


『小紅も行ってこいよ。俺と残るのは嫌だろ?』


『私も小夜さんたちと行く……』


『神貴は忘れるなよ、昨夜の征司みたいに』


 当たり前じゃん、とムッとした小紅を横目に京弥は征司の脇腹をつついた。


『昨夜は随分必死だったな……お守りなんだろ、じいさんの刀。それを置いてキツネの前に立ちはだかるなんて……お前もやるなぁ』


 肘でつつかれた征司は後頭部をかいた。その横で小紅はうつむく。その表情は嬉しそうで照れくさそうだ。


『何かを考える余裕なんてなかったよ。菊光が小紅がいないって気づいてくれて本当によかった』


 話をふられた菊光は着物の中で腕を組んでいた。征司のことを半目で見ると、片頬を上げた。






 昨日来た時は恐ろしいと思えたのに、今日の山はただただ美しかった。


 紅葉も、穏やかな川のせせらぎも、時折吹きかける風も。


 赤や黄色に染まった木々から差し込む陽の光が優しい。菊光は手をかざしながら頭上に目をやった。


 今日はよく晴れている。山に入る前に小夜が、”今日は一日お天気だからお布団を干しておこうかしら”と言っていた。


 こうして滞在させてもらっているのだから、と菊光はそれを手伝った。


 細腕で布団一式を持ち上げると、小夜が感心して拍手をしていた。”こんなに愛らしいのに力持ちなのね"と。


 さすがに知り合って日が浅い人に激昂はできない。菊光は聞こえないフリをし、まだ寝ている京弥のことを転がして布団を縁側へ運んだ。


 筋肉神主夫婦の寝室からは筋肉神主が布団を運び出していた。しかも二人分を同時に。


 一つを小夜が受け取ろうとしたが、”大丈夫だから”と頑なに渡そうとしなかった。彼は縁側に置くと、一つずつ物干し竿へかけていった。


(うらやましくはないが……なんなんだろうな)


 菊光は前を歩く夫婦と、小紅と征司のことを細目で見た。


 小紅に感化されているのか知らないが、男女のなんとやらが妙に気になる。


「菊光ちゃん、疲れてない?」


「平気です……って、ちゃん?」


「愛らしいからつい。どうもしっくりくるのよね」


「そうだな。女の着物も似合いそうだ」


「誰が……!!」


 京弥たち相手だったらここで言い返すが、お世話になっている人には強い態度をとれない。菊光は顔を真っ赤にさせて押し黙った。


 その様子を夫婦はほほえましく見守っている。征司と小紅も笑っていた。サスケも一緒になって吹き出したので、額を中指で弾いてやった。


(なんで京弥の名前が真っ先に出てくるんだ……! あんな女たらしの遊び人なんか……)


 菊光は袖で赤くなった頬を押さえると乱暴に拭った。


「菊光の兄貴……本当に見た目に反して力が強いッス……」


 サスケが文句を言っているが無視を決め込んだ。

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