第12話

「神主殿もキセルの女狐のことはご存じなかったんスね」


「初耳だ……他の村人たちも知らないだろう」


 先に帰ってきた征司とサスケは、今日あったことを筋肉神主に報告していた。


「お前さんたちが無事に帰ってこれてよかった」


「はいっス!」


「女狐のことは気になるな。化け狐の姿がなかったのも……」


「京弥の兄貴も同じようなことを言ってたっスね」


 同行しなかった小紅は、筋肉神主の妻と晩御飯の支度をしている。


 筋肉神主は文机で書物の整理をしていた。


 古びて色褪せた表紙はなんと書いてあるか読めない。しかし、中をパラパラめくると真っ黒な墨ではっきりと文字が書かれている。


「これは?」


「代々受け継がれている書物だよ。最近目を通していなかったから、保存状態が心配だったのだ」


 筋肉神主はうなずくと、自分の前に置いていた書物を机の端に寄せた。


「ところで、道中にキツネを見たか?」


「女狐のキセルの煙でできたキツネなら……」


「そうでなく野生のキツネだ」


「見た覚えはないっス」


 二人して首を振ると、筋肉神主は目を伏せた。分かってはいたが残念、とでも言いたげに。


「何かあったんですか?」


「以前、な」


 言い淀んだ彼の様子に、二人は顔を見合わせた。


「京弥も菊光も帰りが遅そうだし……せっかくなので教えてください!」


 筋肉神主は”いやいや……”と照れくさそうに顔をほころばせた。


 言いたくない話ではないらしい。声が嬉しそうだ。


「化け狐の山に子どもたちが遊びに行ったことがあったのだよ。禁止しているというのに……。その内の一人が迷子になったと慌てて帰ってきてな、村総出で探しに向かった。私ももちろん山に入ったのだが、そこで美しい白いキツネを見つけたのだ」


 彼は懐かしそうに目を細めた。


「白いキツネ? そんなものがいるんですか」


 征司とサスケは正座をして聞いていたが、見たことのない存在に身を乗り出した。


「この村に訪れた学者先生に聞いたことがあるのだが、突然変異でそういうものが生まれることもあるらしい。反対に真っ黒なキツネが生まれることもあるんだそうだ」


 ”これは先生が教えてくれたことを記したものだ”、と筋肉神主は書物の山から一冊抜き取った。薄緑の表紙で、その書物だけ真新しい。


「その白いキツネが大きな岩の近くで横たわっていたのだ。足に大きな傷があって、美しい毛並みは血で汚れていた。川で体を洗ってやり、持っていた手ぬぐいを裂いて包帯にしたんだ。弱って歩けないようだったからここに連れて帰ってきたのだよ。一週間もしたらすぐ元気になって山に戻っていった」


「へー!」


「もしかしてそのキツネがお礼に来たんですか?」


 征司が期待に満ちた表情で見つめると、筋肉神主は首を振った。


「白いキツネがお礼参りに来ることはなかったが……ほどなくして小夜さよがこの村へやってきた。言葉を交わす内に惹かれ合い、結婚したのだよ」


「鶴の恩返しみたいなことは起きなかったんですね」


 おとぎ話を信じる子どものように澄んだ心。この少年たちがここへ来てくれてよかった。話しているとこちらまで明るくなるようだ。


 特につい昨日、葬式を終えたばかりだ。それも村が頭を悩ませる存在に心を苦しめられた、若い男の。


 彼だって征司のように生き生きとしていた。妻と一緒だった頃までは。きっとまた明るい顔を見られると思っていたのに。


 筋肉神主は心のわだかまりを消してくれる笑顔に、フッとほほえんだ。


「まぁな。でも、あのキツネが山で元気に暮らしてたらそれでいい……」


 筋肉神主は縁側から見える山の頂に目を細めた。


 山はいつもの緑に加え、赤や橙が混ざり始めている。山でも木々は美しく色づいているのだろう。


 いつか面倒事が片付き、あの山で紅葉狩りができる日が来るだろうか。


 しかし、村の老人たちの目が気になって動けない自分にやきもきした。











(奥さんが教えてくれた月まじない……叶うといいな)


 皆が寝静まった頃、小紅は布団をそっと抜け出した。


 掛け布団を蹴り、畳の上で転がっているサスケに布団を掛けてやってから。菊光は寝た時と全く変わらない姿勢で眠っていた。


 雲一つない空で月が輝く夜、清らかな気持ちで祈りを捧げると願いが叶う。


 料理を手伝っていたら小夜が教えてくれた。


『いいこと教えてあげる』


『いいこと?』


 綺麗な花柄の着物の上から割烹着を着た彼女。青藍せいらん色の長い髪を後ろで束ね、あねさんかぶりをしている。


 結婚して台所に立ったら彼女のようにいかにも奥さん、になれるだろうか。手際よく調理する小夜の姿に憧憬してしまう。


 小夜は 和え物を混ぜ終え、木の器を机の上に置いた。人差し指を立てて首を揺らす。


『恋のおまじない』


『恋の……?』


『そう。小紅ちゃんは征司君のことが好きなんでしょう?』


『ひえっ!?』


 唐突だったので鍋のフタを落としそうになった。鍋とフタの隙間から湯気がこぼれ、手元が熱くなる。


 そっとフタを手元に置くと、小夜はクスクスと笑った。


『征司君のことしか見えない、って感じだもの。ずっと』


『そんなに見てましたか……?』


 小夜はうなずきながら小紅の横に立った。彼女からは爽やかな草木の香りがする。一緒にいるとまるで、静かな山の中にいるようで落ち着く。


『うん。京弥君があなたにちょっかいを何度もかけていたよ? でも小紅ちゃんはほとんど気づいていなかった。なんでだろ、って観察してたら征司君のことばかり目で追ってたの』


 そこまで見ていたなんて。征司を見ていたことも、小夜にずっと見られていたことも恥ずかしい。京弥のことはどうでもいいが。


『でも征司は全然気づいてくれないんです……』


 バレてしまったのなら変にごまかすことはない。というか手遅れだ。小紅はずっと想い続けていることを打ち明けた。


 幼い頃からずっと一緒で、京弥のように特段顔が整った少年がそばにいても、目移りすることはなかった。


『それなら……このおまじないは教えなきゃ』


 小紅の想いを静かに優しく聞いていた小夜。人差し指を唇に当ててほほえんだ。






(いつか征司と両想い……結ばれますように!)


 心の中で気持ちを込めて唱える。誰かに聞かれているわけでも、声に出したわけでもないのに顔が熱くなってくる。火照った頬を秋の夜風が優しくなでてくれた。


 ざわざわと草木が風にそよぐ。虫たちが涼やかな音で合唱している。


 空には金色に瞬く星、銀色に輝く月。


 こんな美しい夜空の下、征司と二人で歩きたい。年頃の恋人同士のように眠くなるまで話していたい。


 いつかを考えていたら妄想が止まらなくなってしまう。煩悩にまみれた自分が恥ずかしくなり、そそくさと寝床に戻ろうとした。











 娘は月を見上げた後に両手を組み、難しい顔をした。目をぎゅっととじ、唇を固く結んでいる。


 しかし、再び月を見上げた時には晴れやかな表情をしていた。その頬は柔らかく赤みを帯びている。


 娘はニヤけた様子で頬を押さえ、頭をブンブンと振った。


 月まじない。女狐もそれを知っている。やけに感傷的になり、夜空に向かって紫煙を細く吐いた。


 黒い狐たちが娘を襲うか聞くように唸ったが、女狐はそれに気がつかなかった。


『こうしてね、雲一つないまっさらな夜空の日に、月に祈るんだ。叶えたいこと……なんでもいい』


 そう言って彼は夜空を仰いだ後、こちらのことを見てほほえむ。


 いつのことか思い出せない記憶。女狐は煙管に口をつけた。


 その”彼”というのが顔がうまく想像できない。二つの顔がダブるのだ。


 一つは顔の上半分を狐の面で隠し、豪奢な着物姿の男。


 もう一つは地味な顔立ちだが優しいほほえみを浮かべ、薄汚れた作務衣を着た男。


 前者はかつて夫であった山のヌシだ。彼は妖力を使い切ったのと愛娘がいなくなって心を病んでしまい、死んでしまった。


 後者の男は分からない。ある日突然夢に出てきて別れを告げられた。


 誰なのかを聞こうとしたら悲しそうな顔で消えてしまった。それ以来、ふとした瞬間に思い浮かぶ。


(……お主は誰じゃ。なぜこうも妾の記憶にとどまっておる?)


 煙管を下ろして月を仰ぐと、狂暴な唸り声が耳をかすめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る