第16話

「あ……」


 灰になっていく女狐。着物や髪を燃やしながら、煙は空へと昇っていった。


 征司が手を伸ばすと、女狐の姿はなくなった。


「う……母様……」


 筋肉神主の腕の中で気を失っていた小夜が目を覚ました。うめき声を上げたが、先ほどのように苦しんではいない。


 彼はキツネの姿を見て驚いた。にじんでいた血は消え、乱れていた毛並みは綺麗に整えられていた。


「大丈夫か、小夜」


「えぇ……。夢の中で母様が治してくれました」


 白いキツネの姿のまま、小夜は弱々しくほほえんだ。


 筋肉神主は膝をつくと、小夜を地面にそっと下ろした。彼女はどこも痛がることなく足をつき、人間の姿に戻った。


「夢に母様が出てきました……。あやかしになる前の、おそらく人間だった頃の姿で……とても優しい女性でした。母様は大きな桜の木の下で私に膝枕をして、頭をなでてくれました。ずっとごめんなさい、幸せになってねと言って消えてしまいました……」


 なぜ気づかなかったのだろう、思い出せなかったのだろう。さらわれた女の名前も”サヨ”だということに。


 小夜はなぜ、母親の人間だった頃の名前を名乗っていたのだろう。”ヨヅキ”と名付けられたのに。きっと知らなかっただろうに。


 筋肉神主は寄り添った小夜の頭をなで、抱き寄せた。


 初めて分かり合った母親との別れに耐えているのだろう。彼女は肩を震わせ、筋肉神主の胸に顔を押し付けた。


「母様の隣には男の人がいたんです。あれは……気落ちする前の伊吉さんでした。朗らかに笑っていて、母様を連れて桜の木の向こうへ二人で消えました


「そうか……おサヨのことを迎えに来たのだな。二人はやっと会えたか……そうかそうか」


 筋肉神主は涙ぐみ、小夜を抱きしめる腕に力をこめた。


 伊吉の最期は目も当てられないほどやせ細り、目は落ちくぼんでいた。食事は定期的に運んでやらねば食べようとせず、以前のように畑仕事に精を出すこともなくなった。


 そんな彼が、小夜の夢の中で愛しい人に再会できてよかった。


 運命が違えば、小夜は伊吉とおサヨの娘として生まれていたかもしれない。


「あの、ところで……」


 小夜は顔を上げると、筋肉神主の目尻を拭った。


「私の正体については……」


「それは私たちの秘密だな」


 不安そうに見上げる妻の頬をなで、額を突き合わせた。


 あの化け狐の娘だと分かれば、年寄り連中はいい顔をしないだろう。他の村人たちも。


「お前が誰だろうが、誰の子どもだろうが、お前は私の大切な妻だ。お前ほど清らかな人間はどこにもいない。これからもずっと一緒にいよう、小夜」


「……はい!」


 小夜は露のように透き通った涙を流した。






 伊吉が亡くなったことを女狐に知らせることができなかった。彼女と伊吉があの世で一緒になれたらいいな、と皆で祈った。


 筋肉神主はその後、おサヨの灰を手ぬぐいに入るだけ入れて端同士を合わせてしばった。


 征司と小夜は、灰の上に突き刺さっている白いかんざしを拾い集めている。


「小夜さん、これはなんですか?」


「これは骨よ……」


 思わず手放しそうになったが悲鳴を飲み込み、黙って拾い続けた。


「さらわれて食べられた娘たちの遺骨よ。旦那殿、村に埋葬させていただけませんか? 母様の遺灰は伊吉さんの隣に……」


「もちろんだ。手厚く葬ろう。村の皆にも報告しよう」


 この山にあるじはいなくなった。娘がさらわれることも、怪しげな狐火が出ることもないだろう。


 これからは子どもたちが自由に出入りし、村人たちが山の幸を収穫できる。獣たちものびのびと過ごせるようになるだろう。


「皆、そろそろ村へ戻ろう」


「はいッス!」


 花を摘んでいたサスケたちが腰を上げた。


 村に戻って墓を建てた時に供えるためだ。小紅の腕には特にいっぱいの花が抱えられていた。


「おっ、さすがだな小紅。いいのばっかじゃん」


「この山……綺麗なお花ばっか咲いてるから……」


 征司が花束に顔を寄せると、小紅の頬は真っ赤な紅葉と同じ色になった。


「人の手がほとんど入らなかった山だからこそ、だろうな。俺でも見たことない花がたくさん咲いていたぞ」


 ”な?”と、京弥は菊光の頭に手を置いた。菊光の腕にも小紅に負けないくらい花が抱えられていた。


「さわるな! ……まぁ、種類が多いのは同感だ。ボクの家にも届けられたことはない花ばかりだ。これも、これも……」


「家?」


「菊光ちゃんの家はお花屋さんなの?」


 自分が持っている花を視線でさし示すと、皆に注目されていることに気がついたらしい。花を取り落としそうになり、慌てて京弥が腕で支えた。


「あぶねー……。せっかく摘んだんだろ、気をつけろよ」


「悪い……」


 花を持ち直すと香りが漂った。周りに花びらが舞ったようだ。


 その隣で小紅が高い声を上げた。


「わ、征司! 持てるよ、大丈夫だって」


「まかせろ! ずっと花摘んでただろ、しゃがんでてキツくなかったか?」


 征司は遺骨を筋肉神主にまかせたようだ。手ぶらになり、手持ち無沙汰になったらしい。小紅のことを抱きしめるように腕を広げ、花束を包み込んだ。


「ま、さし……!」


「すんげーいっぱいあるじゃん! 皆喜んでくれるな。お墓の周り、全部花で囲っちゃおうぜ!」


「ちょっと落とさないでよ!」


 征司が走ると、その後ろに一輪二輪と花が舞う。それを拾いながら小紅は後を追った。


「なんだ菊光。うらやましいのか」


 二人のことを目で追うと、上から声が降ってきた。


 京弥に腕の花束を奪われそうになったが、菊光は体ごとそっぽを向いた。


「別に……これくらい自分で持って帰れる」











 村に戻ると、たちまち京弥が村の女子おなごたちに囲まれた。


「京弥! おかえり!」


「化け狐はどうなったんだい?」


「ねぇ、今夜ウチに晩御飯を食べに来てよ」


 袖を、腕を引かれる京弥の腕から花がこぼれそうになる。サスケが慌てて受け取り、彼のそばから離れた。


「おいおい、俺は一人だぞ。いっぺんに話しかけるなよ」


 とは言っているが、その顔はまんざらでもない。菊光はその腑抜けた表情を睨みつけた。


「神主殿、奥様。おかえりなさいませ。化け狐の討伐に行かれた、とのことですが……」


 村の女子おなごたちが集まっているのを不思議に思ったのだろう。村人たちが集まってきた。


 筋肉神主は一行の前に一歩出ると、皆に向かってほほえみかけた。


「皆、聞いてくれ。化け狐はとうに死んでいた……。その妻、女狐もいなくなった。もう化け狐たちに恐れることはない。山に自由に行き来しても大丈夫だ!」


 最後の一際大きな声には、やっと化け狐の恐怖から解放された喜びがこめられていた。


 その瞬間、村人たちは手にしている物を放り投げた。近くの者と抱き合ったり、腕を高く突き上げて歓声を上げている。涙ぐむ者もいる。


「神主様、とうとう……!」


「旅人ご一行さんもありがとう!」


「きゃー京弥君! きゃー!」


 村人たちに肩を叩かれたり、手を合わせられて感謝を伝えられた。


 これが本当のこの村人たちの姿なのだろう。化け狐たちに恐れることなく、自分らしく明るく振舞う晴れやかな顔。見ていて気持ちがいい。


 娘たちは京弥を取り囲み、腕に絡みついている。頬に口づけようとした娘のことはさすがに制していたが。


「皆、お祭り騒ぎの前に手伝ってほしいことがある。村の娘たちの遺骨があるんだ────」






 娘たちを村の者全員で葬った。摘んできた花で墓石を囲い、今年一番の出来の酒を供えた。


 それには村の老人たちも手伝い、墓石の前で涙を流しながら手を合わせた。”すまない”、と何度も手をこすり合わせながら。


 ずっと後悔していたのだろう。娘たちを生贄のように扱い、化け狐のやることを黙っていたことに。


 村人たちはそんな老人たちを冷めた目で見ることはなく、一緒に泣いて手を取り合った。


 その後は収穫したばかりの米や山で狩った獣の肉、果実、酒を持ち寄って祭りが開かれた。


 どんちゃん騒ぎは三日三晩も続き、征司たちも参加した。まだ酒を呑んだことがないというのに酒の匂いに囲まれ、匂いだけで気持ち悪くなった。


 祭りが終わった次の日の朝、征司たちはこの村を発つことにした。











「大きな山では不思議なことが起こるのだよ」


 筋肉神主が山を見つめながらそうつぶやいた。


 征司たちが以前訪れた村でも、山を探索して山姫さんきや神、神の楽士に出会った。


 そして今回も。征司たちは神牛しんぎゅうたちの前で神妙な顔つきをしていた。


「だが、お前たちなら大丈夫だ。神貴しんきがあるから、だけじゃない。相手の気持ちを想像できる。勇気もある」


「神主殿……!」


 筋肉神主の笑顔に、征司はこらえきれなくなった涙を派手に飛び散らせた。そのまま彼に飛びついて大泣きし始めた。その隣ではサスケも。


「おいおい、どうした。次の村に行くんだろう」


「だ、だってぇ~……」


「少年、神牛が飛びたくてうずうずしています。早く出発しましょう」


泰親やすちかー! 別れの邪魔をするな!」


 頭のてっぺんで髪を結んだ男がため息をついた。その後ろでは菊光が神牛の体をなでている。


 京弥の方に振り向くと、彼は毛先をいじっていた。


「次の村は? 呼ばれたんだろ?」


「そうだ。七宝しっぽう村の神主殿直々にな」


 昨晩、故郷の清命に連絡をとったところ、”行ってほしいところがある”と言われたのだ。


 硝子が埋め込まれた木箱に、遠く離れた人の顔が写って話せる。この技術の仕組みは理解できない。未だに不思議だ。


『七宝村の神主に頼まれたんだ。冬が来る前に神社を建て直したいらしい』


『え~大工仕事~? そんなのやったことないですよ……』


『大丈夫だ、力仕事は村の者がやる。お前たちには簡単な片付けをお願いしたいんだと』


『え、それだけですか? 人外退治とかは……』


『文句が多いヤツだな……たまには平和な仕事もいいだろう』


 目的だったとは言え、人外に接する機会が予想以上に多かった。征司は不服のようだが、たまにはのんびりとした滞在をしてもいいと思う。


「次の村でも頑張ってね」


「はい! 小夜さんたちもお元気で……。お体、大事にしてくださいね」


 小紅がはにかむと、小夜は腹部に手を当ててほほえんだ。


「ありがとう、小紅ちゃん。次遊びに来るときはこの子と遊んであげてね」


 おサヨを葬った直後、小夜の妊娠が分かった、村人全員が集結している時に倒れ、慌てて医者が診たのだ。


 そこからは皆が大はしゃぎ。祭りは小夜と神主に新しい家族ができたことを祝うためでもあった。


「二人も、好きな人は早くつかまえるのよ。歳の差も身分の差も、種の違いも関係ない。愛情さえあればずっと幸せでいられる」


 小夜は小紅の手を握った。自分は関係ない、と聞こえないフリをしている菊光の頭をなでる。


「今度はあなたの、本当の姿を見せてね」


「────っ!?」


 菊光は目を見開き、素早く小夜から距離を置いた。地面にしゃがみ、袖で口元を覆う。瞳は震えていた。


 小夜はさして驚くことなく、筋肉神主に寄り添った。


「じゃあね、旅人さんたち」


「いつでも来るとよい。歓迎するぞ」


 神主によって黄色の矢飾りが屋形に結ばれた。”よい旅になりますように”と願いをこめられたそれは、行き先に向かって元気に矢を向けていた。

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