第5話

「それが、君の月光か」


 彼は静かに言った。雨音が葉を揺らすような声色だった。


「分かった気がするよ。君のピアノの、音色おとの理由が」


「ねえ、私も君に、聞きたいことあるんだけど」


 私はもう、我慢できなかった。知りたい。どうか、教えてほしい。


「君はどうして、あの日……その」


「死んだのか、って?」


 あれほどのピアノを弾く彼が、なぜ死んでしまったのか。私は不思議でたまらなかった。あれほど輝かしい未来があるだろうか。彼に、何かを悲観して自殺する理由があっただろうか。


「残酷な質問をするね、君は。——いいよ、教えてあげる。僕にとって、君はジュリエッタだから」


「え?」


 私は、唇から情けない音を漏らした。


 ジュリエッタ・グイッチャルディ。ベートーヴェンが慕い、月光を贈ったとされる女性。


「ねえ、それじゃあ君は、私にとってのベートーヴェン、なの?」


 震える声で、尋ねる。彼は、自嘲気味に笑った。


「そうだったら、よかったんだけどね」


 私の目から、言葉にできない感情が溢れ出した。それはもう、私が彼を殺したようなものだ。


 ——ベートーヴェンは、想っているのに結ばれない女性であるジュリエッタにこの曲を送った。叶わない想い。僕の月光も、だいたいはそんな感じだよ。


 ねえ、もしそうなら、彼の思いの対象は、いつから変わっていたの?


「私……そんなの全然」


「言ってないからね、それも当然だよ」


 彼はなんてことのないような口ぶりで、ピアノの鍵盤に目を落としながら言った。


 あるいは、あのピアノを弾く彼だからこそ、その感情を黒く染めてしまったのかもしれない。彼のピアノは、ベートーヴェンをリスペクトする重苦しい絶望の音色だから。その救いようのない音を奏でる彼だからこそ、私のピアノは彼にとって毒でしかなかった。


 希望が強く光り輝くほど、その絶望の影は濃くなる。


「そうだ。直接言えていなかったね。奨励賞受賞、おめでとう」


「嬉しくない!!」


 私は涙ながらに叫んだ。


「君がいなくなってしまう理由の奨励賞なんて、いらない! 私は、君のピアノが聴ければそれでよかった。あとは何もいらない。賞なんて、どうでもいい! あんなのは、ただの結果でしかない」


 私はステージの上の彼に向かって、必死に声を飛ばした。


「ねえ……何で死んじゃったの……」


 言葉の最後を、疑問符にする気力すらなかった。打ちのめされた私に、もうそんな余力はなかった。


「聞いてもいい? 君は、死についてどう思う?」


 残酷な質問なら、お互い様じゃないか。私は思った。だけど、自分なりに、時間を有して真剣に考えた。


「…… 死は、みんなが言うほど悪いことかな? 私はそうは思わない。食べたり、寝たり。死はその延長線上にある。死こそ、生命の営みだと思う。生きているから死ぬ。死とは、生の象徴だ。後ろめたいことなんか、何もない。でもね、死にはひとつ、弱点がある。それは、生きている人と、もう二度と触れ合えないってこと」


 私は反抗の意志をグッと込めた視線で、彼をそっと睨んだ。彼は少し驚いたような顔をしていた。


「君らしい意見だね。ああ、でも、聞けてよかった」


 そのあとそんなことを言って、ホッとしたような顔をする。ああ、そんな顔をしないでよ。私は君のそんな一挙手一投足を見るたび、ひどく打ちのめされているのに。


「ひどいよ……死んでからそんなこと言うなんて、君は最低だよ」


 私は両手で目のあたりを乱暴に擦った。だけど、涙はちっとも涸れてくれない。それどころか、とめどなく、想いが形を変えて溢れ出てくる。


 私は、気づいた。


 ねえ、私も、心のどこかできっと、思っていたんだね。


「君は、私のベートーヴェンだよ」


 彼がはっと息を呑むのが分かった。私はいつから君のピアノに、君に執着していたんだろう。君が死んでから気づくなんて、情けなくてたまらない。


「……ありがとう、ごめんね、こんな形で、君を悲しませることになってしまって。だけど僕のピアノは……溺れてしまった」


「え……?」


「君の月光が、希望の音が輝いた。それに伴って僕の音は、どこまでも深く、沈んでいく。いつしか、分からなくなったよ。自分が今まで、どんな月光を弾いていたのか。情けないだろ? 嗤ってくれ」


 ……やっぱり、彼のピアノを壊したのは、私だ。私の月光が、未来への明るい道筋を照らしてしまったから。


「私……君のピアノを殺したんだ」


 そのことに気付いた時、もうそこに彼の姿は見当たらなかった。どこにも見当たらなかった。代わりに、彼が座っていたはずの椅子から、濃くて赤黒い血が滴り落ちていた。

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