第3話

 どうしたらあんな月光が弾けるんだろうかと、ずっと思っていた。


 彼は小学3年、初めて参加したピアノコンクールで賞をとった。その絶望の音色は、私の知らない月光だった。


 対して私は、何も賞を得なかった。それも仕方ないのかもしれない。ピアノは、私が小学校に入ってすぐに亡くなった母から教わった。教室に通ったことはない。


 だから、というのはどうかと思うけど、私には「正しいピアノの弾き方」が分からなかった。正しい月光が、分からなかった。


 父が勝手に参加を申し込んだコンクールで、私はひどいミスをした。緊張で震える手で、何度も音を外した。最後まで弾き切ったものの、入賞があり得ないことは確信していた。


「君のピアノはすごいね」


 彼が賞をとった直後、私は称賛の意を込めて言った。


「ピアノが泣いてるみたいだった」


 私が思うがまま、そんな拙い感想を述べると、彼ははっと目を見開いた。


「……ピアノの泣き声か。そっか、僕のピアノは泣いているのか……ねえ、また君に会えるかな」


 彼が言うから、私はびっくりした。なぜ私に興味を持ってくれたのか、不思議でたまらなかった。


「あ、うん。ピアノは続けるから、またどこかのピアノコンクールで。……まあ、下手な私が、コンクールに参加できるかどうかは怪しいけど」


「君のピアノは、新しい。あんな月光があるなんて、知らなかったよ。だから、下手なんかじゃないさ。僕は君のピアノに惹かれた。やめるなんて、言わないでくれよ?」


 


 今でも、不思議に思う。彼はどうして、あの日、私のピアノをそんなふうに評価したのか。


「先に、君の意見を聞かせて」


 私は彼の青い夜のような目を見据え、そう言った。彼はひとつうなずき、口を開いた。


「絶望」


 重苦しい声。


「ベートーヴェンは、想っているのに結ばれない女性であるジュリエッタにこの曲を送った。叶わない想い。僕の月光も、だいたいはそんな感じだよ」


 彼は第1楽章の話をしているのだろう。いや、私もそのつもりで聞いた。けれどなぜか……胸がざわざわする。


「なんて言うか……模範だね」


 私は、知らぬ間にそんなセリフを吐いていた。彼の口からしか聞けない言葉が聞きたい。ネットの考察に載っているような文言じゃなく、彼自身が月光に対して抱く、リアルな感情に触れたい。そしたら私はまた、ピアノに向き合えるかもしれないから。


「……ここから先は、僕なりの解釈だけど」


 保険をかけるように、彼は前置きした。


「うん。私は正解が聞きたいんじゃない。君の感情を知りたいの。あなたがどうやって、あの月光を弾くのか知りたい」


 彼は目を閉じた。ひどく重い沈黙が空気を満たした。息が詰まりそうだった。


「あれは絶望や、恐怖の類の旋律だ。あるいは、底知らぬ恨みや悲嘆」


「ベートーヴェンの作曲の想いに忠実なのね……だから君のピアノはいつも、悲しそうに泣くんだ」


「……そう。想いを伝えられずに、声を押し殺して泣いている」


 彼は静かな声で言った。夜の月が、ため息をつくかのようだった。


「さあ、今度は、君の月光を教えてくれよ」


 彼は息を吸って、私にそう言った。私はしばらく考えてから、話し始めた。


「……ねぇ、こんな解釈をしたことはない? もし“月光”が、明日への希望を綴った旋律なら。暗い毎日からの脱出をテーマにした曲なら? そうしたら、月光は未来への明るい道筋になる」

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