第2話

 私は、コンサートホールの客席側に立っていた。私と彼が参加したピアノコンクールの会場だ。ステージの上には彼がいた。何食わぬ顔で、ピアノを弾いている。“月光”を、弾いている。


 ピアノソナタ第14番嬰ハ短調 作品27-2 『幻想曲風ソナタ』、通称“月光”の第1楽章。楽聖ベートーヴェンが作曲した、様式破りのソナタ。私と彼の、勝負曲。


「“月光”を聞くと、どういうわけか、本当に夜の月を思い浮かべるんだよね」


 彼が弾くピアノの旋律に重なって、そんな言葉が耳に入った。


「荘厳でいて美しく、もの悲しい音色は、不思議と夜の月の歪な光を思い起こさせる。君もそう思うだろ?」


「……月光という名前だからだよ」


 死んだはずの彼と話しているこの状況が、私には全く気にならなかった。きっと私は心のどこかで、まだ願っていたのだ。彼が、実はまだ生きている世界を。


「月光と聞いて夜の月を思い浮かべるのは当然だよ。この旋律に、夜の月を明確に表す音は存在しない。もっとも月光というのは通称で、詩人ルートヴィヒ・レルシュタープが『スイスのルツェルン湖の月夜の波に揺らぐ小舟のよう』と形容したことばに由来しているという説が濃厚だけど」


 私が一息に言うと、彼は仄かに笑みをこぼして、


「さすが、君は物知りだ。ベートーヴェンの月光を、よく分かっている」


 と静かに息をこぼした。




 彼とは、小学生以来の仲だ。互いにピアノを始めた時期が一緒だったから、通う学校は違えどすぐに打ち解けた。


 その出会いの始まりは、小学3年生の頃に私が初めて参加したピアノのコンクールだ。課題曲はベートーヴェンの月光。他の参加者たちのつまらない演奏を聞くなか、私が息を呑んだのが彼のピアノだった。


 そんな楽譜の解釈よみかたがあるのか、と幼いながらに驚嘆した。


 ピアノに正解はない。楽譜はあれど、それらはすべて演奏者の解釈に委ねられる。ベートーヴェンは何を思い、ここにクレッシェンドを用意したのか。何を思い、ピアニッシッシモを用意したのか。私たちは作曲者ではないから、その楽譜に作曲者がどんな思いを込めたのか、想像して弾くしかない。


 けれど、それが楽しい。自分が楽譜を解釈するのも、また他人が解釈した演奏を聴くのも、楽しい。私は初めてピアノを触ったその日から、ピアノの虜だった。


 そんな私が、同世代のピアニストに対して初めて抱いた感情。——ああ、この人のピアノをもっと聞いていたい。


 その日から、私と彼は互いによきライバルとして、それぞれの技量を磨いてきた。




 だから、私は納得できなかった。彼が、突然自殺してしまった理由が、全く分からなかった。


「なあ。ひとつ、聞きたいことがあるんだ」


 彼はそう言って、演奏をやめた。ホールは、しんと静まり返った。


「“月光“は、どんな曲だと思う? 君の意見を聞きたい」


 彼は椅子に座り直して、私に挑戦的な笑みを向けてきた。

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