Track3 ジャスト・ワン・オブ・ゾーズ・シングス

 

 天井から吊るされたスポットの光が、私を照らしていた。

ひたいからほほまで汗が垂れる。30人ほどの客の視線が、そこに刺さる。


ピアノに向かった私は、両手で和音のうねりを産み続けていた。



 ステージ上で私は、”チュニジアの夜”のイントロを始めていた。


さとるの指示どおりのイントロは、ルバート(※テンポに縛られない演奏)を経て、テンポを示唆する段階に入っていた。


この後に【7小節半のブレイク】があり、カルテット(※四人組のバンド)全員が入る。そう思っただけで、責任と緊張で汗の量がさらに増した。


 弾いたままの私は、ベーシストに視線をうつす。アイコンタクトを取る。

「ブレイクがある」という共通認識を彼と無言ですり合わせた。


 そして私は、両手でピアノの鍵盤を強くはじいた。


しかしその音はすぐにジャズバーの壁に吸い込まれる。


私の演奏が唐突に、しかし完全に止まった。

つまり……イントロ終わりの【7小節半のブレイク】が始まった。


1小節……

2小節……

3小節……

4小節……が過ぎた。


 客はステージ上で唐突に動きを止めたカルテットに異変を感じ、会話をやめた。


 5小節が過ぎる……。


 6小節が過ぎる……。


 さすがに長い。


客の咳払いが大きな音で、私の耳に突き刺さる。


ステージ衣装のドレスの背中にまで、冷や汗が垂れた。


 7小節が過ぎる……。


 そして、【7小節半のブレイク】が終わる。



 その瞬間、稲妻がかけ巡った音が聞こえたように、私は感じた。


うつむいて微動だにしなかったさとるが、サックスを天井のスポットに当たるほどに突き上げ、高速のパッセージを紡ぎ出していた。


その狂気すら内包する響きで、プレイヤーであるにも関わらずさとるの背中を見たまま、私は息を呑んでしまった。


 もちろん客も、完全にさとるとアルトサックスに釘付けになる。


咥えタバコの男は、驚愕の表情で止まる。


さっきまで大笑いしていた中年の女は、口を開いた。


バーテンダーすら手を止め、こっちを向いた。


 その中心で砲丸投げ選手のように足をふんばったさとるは、客の視線を引き付けたまま狂ったように「稲妻のスケール」を続ける。


 しかし私は我に返る。「目を奪われている場合じゃない、イントロが終わってテーマが始まる!」


私はピアノでコードを奏でる。さとるに導かれるように、カルテットの音が一点で交わった。


荒れ狂う嵐で難破しそうな船のようなさとるのアルトサックスの音列だったが、しかし、すぐにコントロールを取り戻し、”チュニジアの夜”のテーマにうつる。


 客席の視線を「一点」に集めた状態で、「西代にしだい さとるカルテット」のライブが始まった。




 初めて私——佐中さなか七緒なおが、西代にしだいさとるに出会った場所は、ジャズバーのステージだった。


その時の私は客で、彼は今日と同じようにステージ上でアルトサックスを吹いていた。


その一瞬で私は、彼自身に惚れてしまった。


あるいは正直に言うのなら……その時に私は「さとるに抱かれたい」と思ったし……実際にその夜に彼に抱かれてしまった。


 もちろん才能あるプレイヤーに出会うのは初めてじゃない。音大の中でも天才と呼ばれる人にだって会ったことはあったし、天才で無くても嫉妬を感じるプレイヤーは山ほど居る。


しかし西代にしだいさとるは、その誰とも違った。


個性に服を着せたような人間性に、即興演奏のように気まぐれで、ミュージシャンとは思えない情緒を欠いた性格、そして獣のような瞳。


ついでに言うなら……背なんて私より5cmは低い。


だいたいが毛並みの良い音大生の中で育ち、そのような男女の友達を何人か持つ私は、彼の様な人間は見たことが無かったし……とにかくさとるは、私のタイプの男ではまったく無かった。


 つまり、才能と個性だけで成った人の形を作った何か……それが、私にとっての西代にしだいさとるだった。


 だから私は、西代にしだいさとるに出会った時にはじめて知った。


圧倒的な才能の前では嫉妬心すら抱くことができず、ただその才能が発する暴力的なまでの「光」に惹かれるしか無いってことを……。


それはまさに「稲妻」のようであり、その前では、私のような凡人は抵抗すらできないと……。


だから西代にしだいさとるの前では、私のあらゆる抗いは、無駄に終わっていた。


別れることもできず――というか付き合っているのかも分からず、ただ西代にしだいさとるが言うがままに、ピアノを演奏をし彼を引き立て、全てが彼の言うがままになる人形……。


それが、私——佐中さなか七緒なおだった。

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