一口目の起伏

 終雪が作り上げた見渡す限りの銀世界。雪の上を歩く足取りは自然と重くなる。住宅街をゆっくりと、ゆっくりと。いつも通りの速さで歩く先輩に「速いですよ。」と伝えると、「そうかな。」と素っ気なく返される。先輩の深呼吸ですら聞こえてくる静かなこの場所。白い息が舞い、澄みきった空気に先輩の声が響く。

「今日が最後なんだ。」

 三月七日。卒業式前夜。分かりきっていた事だけど、なぜか今知ったかのように感情が揺らぐ。

「これでお別れ、ですよね。」

 凍てつくような寒さで声が微かに震える。少しの間の後、「そうだね。」と冷淡な声が耳に届く。先輩はこちらを見ない。ただずっと前だけを見て歩いていく。静寂は空間を支配し、言葉が消える。残されたのは、ザクザクと雪を踏みしめる音だけ。

 約十五分。学校から駅まで、遠回りも、寄り道も、何もせずに先輩と帰るのは初めてだった。短くて、長いその時間は、何事もいつか終わりが来ることを私に教えてくれた。

 

 改札前。見慣れた場所。でも今日は雪だからか、いつもより人も少なく静かで、違う場所のように思える。やっと立ち止まって私の方を見た先輩は、「今までありがとう。」と言い微笑む。少し伏目がちなまま。私が先輩に感謝される何かをしたような記憶はない。むしろ私の方がもらってばかりなのだ。先輩があの日声をかけてくれなければ、夜の綺麗さを知ることはなかっただろう。彼女達の言う雰囲気が変わったというのも、きっと先輩のおかげなのだろうと後から気づいた。感謝してもしきれない程のそれらを思い返す。しっかり深呼吸をしてから「こちらこそ、今までありがとうございました。」と微笑んだ。心に残る感情、記憶に残る思い出。それらはあれど、この場に多くの言葉はない。

「じゃあ、さようなら。」

「さようなら。」

 軽くお辞儀をすれば、先輩は次の何かに向かうように足早でこの場を去った。“さようなら“なんて、形式化された場面以外で発したのは初めての事で、なんだかむず痒い気持ちになる。


 一瞬、「さようなら。」と少女の声が聞こえた。バッと後ろを振り返る。そこには誰もいない。目の前を数少ない駅の利用者がカツカツとヒールを鳴らして通り過ぎた。淡々と終わったこれまでの日々にほんの少しの哀愁を。平然と始まるこれからの日々にありったけの想望を。

 ポッケに入れていた手はまだかじかんでいた。



 冬麗に寄り添うのどかな日差し。聞こえてくるのは窓から漏れた若者達の喧騒。時折吹く肌寒い風に身を縮めながらも、袖から手を空気に晒す。一番下の右から3つ目。押し慣れたいつものボタンの前で、なんとなく手が止まった。ぼーっとした頭のまま、手は一つ隣、右から4つ目のボタンへ動く。自然と目で自分の手を追うと、そのままボタンを押した。交通系ICを数秒かざせば、ピッという音のすぐ後にガコンッという物音が響く。重い腰で手を伸ばし、手に取ったのはペットボトルの温かいカフェオレ。表示されていたICの残金に目をやる。いつも千円程度は入れていたが、そこには四百円弱しかないと示されていた。

 まぁ、いっか。

定期しか使わないのだから、焦ることもない。歩く度、ローファーがタイルに控えめな音を鳴らす。いつものベンチの前で立ち止まると、なんとなくまた歩いては一つ奥のベンチに腰掛けた。ふぅっと息を吐いてはゆっくりと瞼を閉じる。からっとした空気の中で、微かに漂う木々の香り。寒風と日光はもどかしいくらいに私の体温を交互に変化させる。確か今は午前十時頃。相も変わらず昼の世界は心地が良い。


 安らぎの中、ふと今朝の事を思い返す。

目を覚ませば丁度日の出る時間で、冬の高い空が朝焼けによって曙色に染まる姿は、形容し難いほど美しかった。思わず窓を開けてしまって、想像以上の寒さに目が冴えてしまったんだ。二度寝する気にもなれなくて、久々に朝早くに家を出た。いつもと違う時間帯ってだけで小さな子供みたいに心が踊ったのも覚えてる。朝ごはんに食べたパン屋さんのクリームパンが美味しかった事も、電車の中で眠そうに仕事に向かうサラリーマンを応援したくなった事も、駅前の広告が昨日と違って美容系のものになってた事も、全部覚えてる。あの時感じた感動、歓楽、期待、魅力。全てが今起こったかのように蘇った。

 ふと、瞼を開ける。日の光によって一瞬視界は緑がかった。そして映るのは色鮮やかな世界の一欠片。

 あぁ、やっぱり世界は綺麗だ。誰もいないのに自然と口角は上がっていた。手に持っていたカフェオレを開ける。周囲に漂う懐かしい香り。そっと一口飲むと、まろやかな優しい味が舌を撫でた。でも少し、甘さが足りない。

 もの思いにふけりつつ、飲んでいると、校内放送が耳に入る。

「新三年生に連絡します。只今より、教室移動を行います。一組から順に自分の荷物を運ぶよう、お願いします。」

 少し機嫌の良さそうな教員の声。先生にとっても授業のない今日は仕事が楽で嬉しかったりするのかもしれない。三組はまだもう少し先だろうか。焦ることもなく私はしばらくそこにいた。いい頃合いだろうと教室のドアを開ければ予想は見事に的中し、移動を始めたばかり。

「あ、やっと帰ってきた!」

「どこ行ってたのー!」

 周りより三音程高い彼女達の声はすぐに私の耳に届く。声の方を見ればこちらに手を振っていた。

「ごめん、ちょっと出かけてた。」

 そう言うと、ふふっと笑いながら「間に合ったからいいけど〜。」と不満そうで、でも嬉しそうな顔をしていた。この学校はクラス替えがない。だから、彼女達と来年も同じクラス。そそくさと荷物をまとめて、彼女らと共にこの教室を後にした。

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