開封の余韻
「空が泣いている」と表現したのは誰だっただろうか。遠い昔の人であることは確かだろう。白雨、甘雨、緑雨。目の前の雨に一つ、また一つと言葉を探す。美しい言葉が列を成す。昔の人は、SNSもない時代で、きっと世界を愛していたのだろう。一つの天気にこれほど多くの言葉が存在する事が何よりもの証明だ。その時代に生まれていれば、私もみんなと楽しく笑い合えただろうか。降り頻る雨の中、無意味なたらればに思考を巡らせる。
梅雨はまだ止むことを知らない。黒の増した雨雲。じめっと肌にまとわりつく湿度。屋根の下、立ち尽くすことしか出来ない無力さが時間と共に色を濃くする。いっそのこと走って駅まで向かおうかと思い始めた時、見覚えのある姿が視界に映った。
「先輩…?」
無意識に声をかけてしまったが、前回会った時が暗かったものだから、本当に同一人物かと少しの疑念が残る。彼はビニール傘の雨をはらいながら私を見ると「おぉ、久しぶり。」っと軽く手を振った。
どうやら間違いではなかったみたいだ。先輩に手を振るのはなんだか気が引けて「お久しぶりです。」と会釈で返す。
まだ五時を過ぎた頃。
「今日は遅刻じゃないんですね。」
「いつも遅刻してるわけじゃないですよ。あの日はたまたま…」
先輩の視線がある一点で止まり、言葉はフェードアウトしていく。
「どうかしました?」
「あぁ、いや、傘忘れたの?」
「そうなんですよ。今朝、天気予報を見るの忘れちゃいまして。」
そう言うと、先輩は少し悩んだような、思い返すような顔をした後、「なら、今日の夜、前に話した散歩でも行きませんか?」そう私に問いかけた。忘れられていなかったのだという安堵と同時に、あの日の好奇心が戻ってくる。外の雨に反して、私の心には青空が澄み渡っていた。
「今日二限しか無いですし、丁度そのくらいに雨も止むみたいなので。」
そう片方だけ口角を上げて微笑むと、思い出したように付け足して、「あ、嫌だったら僕の傘貸しますよ?」なんて心配そうな顔をした先輩は、自分の傘を差し出す。
「ふふっ、大丈夫ですよ。終わるまで自習室で待ってますね。」
そう返せば先輩は安心した様子で「わかりました。」と言い教室に向かった。後ろ姿が上機嫌に見えたのは、きっと私の気のせいだろう。雨音が跳ねるように鼓膜を揺らす。それは私の心のようで、“仲間だね“なんて届かないそれに思いを馳せる。雨は一つ音を上げた気がした。
中庭を一望できる渡り廊下。そこに自習室は設備されている。机の上には課題として出された英語の問題集。片手にペンを持ちながらも、視線は中庭とその空に吸い込まれる。傘の役割を果たしきれなかった木々により、濃い茶に変わる木製のベンチ。タイルの隙間に生えた雑草が雨に歓喜の声をあげる。あの日と同じ自習室。違うのは目の前の景色だけ。タイムラプスと化した窓は、通り過ぎる雨雲の躍動感を魅せつけた。
夕日が眠りにつき、星々が光を取り戻した時、「お待たせ。」と先輩の落ち着いた声が上から聞こえてくる。
「全然進んでないじゃん。自習してなかったでしょ。」
微笑む先輩の言う通り、結局一文字も書かれなかった問題集が机の上に堂々と居座っていた。
「い、いいんですって。ほら、早く行きましょ。」
いつになく上がる語尾。きっとそれは無意識の高揚。足早に昇降口へ向かうと、雨上り特有の湿度を含んだ空気が身を包む。同じようで同じじゃないあの日と重なる世界。歩く度にぴちゃぴちゃと鳴る水の音は心地良い。水たまりに反射した自分の姿。今だけは少し好きになれた。
先輩に連れられるがまま少し歩けば、ビルや飲食店の立ち並ぶ大通りに出る。朝はちょっとしたニュースが流れるビルの大型ディスプレイ。今は様々な広告が忙しなく映る。仕事が億劫そうだったサラリーマンは、仕事終わりの時間を満喫していた。車の走行音と足音は、人々の話し声へ。通行人の香水の香りは飲食店の香りへ。時間が変われば世界が変わる。だから、「見ないともったいない。」たった数分でありながらも、先輩の言っていた事が少しわかった気がした。私が見ていた朝の世界。それはほんの一部に過ぎなかったのだと。裏の顔を見たようなほろ苦い特別感がそこにはあった。
「夜の世界も綺麗ですね。」
街の光に照らされた先輩は、隣でそっと微笑みを浮かべる。優しくてどことなく自慢げな微笑みを。
会話が弾むわけではない。それが気まずいわけでもない。目の前に広がる世界を言葉にするのに、私の持ち合わせた言葉では到底足りないだけ。でも、先輩に微笑み返せばこの気持ちが伝わった気がした。
大通りを曲がると広告や人混みの喧騒が薄れ、小洒落たカフェや古着屋が顔を出す。朝は準備中でしまっているお店も多いため、人で賑わっているところは見たことがなかった。どれも新鮮で真新しい光景。その先の住宅街を過ぎれば、また雰囲気の異なる通りに出る。
そうして数十分が経った頃、見慣れた学校の最寄駅が見えた。
「そろそろ帰ろっか。」
満足げな先輩に対し、「そうですね。」と返す私の言葉は無意識にも少し名残惜しさを含んでいた。改札前。過ぎゆく人の流れ。交通系ICの音が終わりを知らせる。その中ですっと先輩の声は耳に響く。
「また一緒に帰ろう。近いうちに。」
先輩は優しく微笑むと「じゃあ、またね。」そう言って人混みの中に姿を消した。軽く振られた手に振り返すことが今の私には精一杯。また会えるんだ。私でもいいんだ。誰かに求められたことが、嬉しくて、懐かしくて。少し寒い空気の中、ココアを飲んだ後みたいな暖かさが残る。電車の窓から見える街の灯りは、いつもよりも彩度を増していた。
あの日から、一月に一度くらいは先輩と帰るようになっていた。違う道に遠回りしたり、時間があれば別の駅で降りてみたり。唯一の価値観の共有者。少なくとも私は先輩のことをそう思うようになっていた。気を許したと言い切るにはまだ心許ないが、かなり近しい状況であるとは言えるだろう。皆が目を向けない世界を見つめる時間。それは少しの優越感と感動をくれる。だから何度も、何度も、夜に見惚れては耳を傾ける。
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