ココア
Renon
獲得の歓喜
この世界は可哀想だ。
もう誰も見てくれない。聞いてくれない。
こんなにも世界は語りかけているというのに。
「今日の月、満月ですよ。」
だから、そう言い月を眺める彼に、私は呆然とした。まだ世界は見離されていなかったのだと。
「そうだったんですね。いつもより明るいなぁと思っていたところなんです。」
月の明かりか。あるいは教室から漏れた明かりか。夜の暗がりの中でわずかに照らされた彼の横顔は、ただ月に見惚れていた。今こうして月を眺めている人は世界に何人いるだろうか。答えの出ない問いを浮かべては、虚しさに溺れる。きっとそう多くはないとどこかで感じているからだろう。ありきたりな日常の一欠片であるこの景色に、人々はいつの間にか価値を見出さなくなった。だから、彼を珍しいと思うのも、仕方のない事だった。
「珍しいですね。この学校でちゃんと月を見いている人なんてもういないと思ってました。」
どこか大人びた雰囲気の彼は、片方の口角だけをあげて笑う。
「それを言うならあなたもですよ?」
なんだか慣れなくて、ぎこちなくて。少し不思議なこの状況に思わず笑みが溢れる。初めてだった。こうして世界を見つめる人に会うのは。嬉しくて、楽しくて、高揚感が身を包む。
「夜の世界は綺麗ですよね。見ないともったいないくらい。」
「わかります。でも、夜に歩いてる周りの人とかは怖く感じちゃうんですよね。」
どうしたって不審者など悪質な人々の報道が世間から絶えることは無い。過剰にすら感じる自身の心配性に対し、彼は首を傾げた。
「なら、今度一緒に散歩でもどうです? 二人なら怖さも多少は和らぐかと。」
私は少しの躊躇いの後、「お願いしたいです。」と答えていた。四月の夜風は肌寒さを含んだまま。好奇心がほんの少し体温を上げる。会ったばかりの人の嘘かもしれない誘いに乗るなど、自分の判断が自分で理解できない。ただ、何か面白そうな気がする。そんな確証のない曖昧な感情に私は胸を躍らせた。
彼はふと我に返ると、時計を見て「あっ」っと声をもらす。
「僕、今から授業なんですよ。定時制の四年で。」
彼は慌てた様子で「では。」と軽く会釈をし、明かりのついた教室へと向かった。会釈し返すことしか出来なかったが、暗い中、彼の後ろ姿をよく見ると、確かに私服だった。
校長像のすぐ傍にある時計を見れば、時刻は七時。定時制の授業開始は五時半頃。
「遅刻じゃん…」
私より二年も先輩だったこと。慌てる必要もない程遅刻していたこと。突然の情報に目が眩む。なんだか久々に誰かと言葉を交わした気がした。それも自分の意思で。過去の記憶を遡れば義務であるものが大半だった。たまには自習室に残るのも悪くないなと思う。
もう先輩はいないけれど、高揚感の残り香が足を止める。左手に持っていた缶のココアを一口飲むと、過度な甘さが口の中を満たした。せめてこれを飲み切るまでは、月を眺めていよう。
日が昇り、沈み、また昇る。
一週間経っても、二週間経っても、先輩に会うことはなかった。
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