第54話伯爵夫人の憂鬱【ベアトリーチェ視点】

壁に掲げられた蝋燭が、揺れている。明け放たれた窓から吹き込む夜風に嬲られて、酷く心細げだ。

心許ない光では、部屋に張り付いた影は一層色を濃くするばかりで、室内は闇に溶けるように暗く沈んでいた。

長椅子に投げ出した私の足先だけが、白々と浮き上がって見える。


───まるで、虚構のような白さだわ。


心の中で呟くと、思わず可笑しさが込み上げる。

ほんのりと唇を撓らせて、蒼白い自分の爪先を白痴のように眺めていると、その前を行ったり来たりする長い脚が視界に端にちらついた。

突き刺すような鋭く、神経質な足音が、男の不機嫌と焦燥をよく物語っていた。


「ベアトリーチェ、ソルと連絡が取れないんだ。ローゼリンドの行方も分からない!私の知らない何かが起こってる!!」


蝿がブンブンと耳元で羽音を立てるような、煩わしいヘリオスの声を、肩から流れ落ちる髪に指を絡めて聞き流す。

自分の悩みに恋してしまっている坊やには、私の返事なんて、どうせ聞こえやしない。


「それにフロレンスも公国を発ったという連絡がない!!ベアトリーチェ、どうしよう…私は、どうしたらっ」


私は、膝の上に崩れ落ちた憐れな男に、ようやく視線を向けた。

太陽と評される耀かしい美貌は疲労に歪んで、影の落ちた顔は老人のように老け込んで見えた。


憐れな人。

そして、憐れな私。


こんな男のために、自分の身体を使っているだなんて。

髪に絡めていた指を、ヘリオスに伸ばす。

さらさらと崩れる、黄金を溶かしたようなヘリオスの髪を撫でて、そのまま指を顎まで伝わせた。

指先で彼の顎先を掬い上げると、蕩けるように眦を緩めてみせた。


「どうぞ落ち着いて、ヘリオス様。貴方の目的はなに?」

「ローゼリンドを殺し、ヒルデを妃に迎えて…君に公国を贈ること。そして、君を…僕の物にするんだ」


私は満足して微笑むと、犬を褒めてやるようにヘリオスの顎から喉元まで一度、二度と撫で辿る。

彼は歓喜するように震える吐息を漏らして、私の掌を湿らせた。


憐れなこの公子の目的は、唯一ただひとつ。私の歓心を買うこと。

私の唯一ゆいいつの目的は、公国の簒奪者になること。

10年前のように公国を混乱に陥れられれば、あるいは、馬鹿な公子様が私の娘と婚姻すれば、エスメラルダ公国は私の物になる。


───それでようやく、私は自分の人生を生きることができるのよ。


私を道具として敵国に送り出した祖国も、白豚のような伯爵に宛がった公国も、嘲笑ってやれる。

心の中で希うように呟くと、何とも言えない歓喜と、子宮が凍りつくような快楽が湧き上がってきた。


「そうよ、良い子ねヘリオス様。駄目だったなら、またやり直せば良いわ。方法は幾らでもあるでしょう?」

「ああ、ああ、そうだね。ベアトリーチェ…その通りだ。いつだって、君は正しい」


両手で彼の頬を掬い、私の方へと引き寄せた。

私の肉の内側から立ち上る甘く熟れた匂いが、ヘリオスを包み込む。

酩酊したように瞳を閉じたヘリオスの唇を塞ぎながら、願った。


死を運ぶ馥郁たる香りが、どうぞローゼリンド公女にも届きますように、と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る