それぞれの想い
第53話悲しみのアゼリア【アゼリア視点】
息を殺しながら、爪先立ちでそっと歩く。
寝静まった邸内を彷徨うのは、何となく恐ろしくて、思わず私は背中を丸めてしまった。
こんな危険を味わうのは、どれくらい振りだろう。
子供の頃に夜中にアーベントに会いに行って、呆れられながら一緒に焼き菓子を食べて以来だっけ。
私は楽しい思い出を振り返って、今から行かなきゃいけない場所のことを、出来るかぎり考えないようにしていた。
それでも、気を抜くと馬車に乗った時の記憶が、甦る。
聖堂のフレスコ画で描かれた精霊様とよく似た、美しい人が、恐ろしいこと言っていた。
『あなたの母親…シュルツ伯爵家のベアトリーチェには、国家反逆罪と殺人の容疑が掛けられています』
綺麗に澄んだ声で告げられた言葉が、頭の中で繰り返される。
私は頭を左右に振って、考えを追い払った。
そんな筈ない。
絶対にある筈、ない。
私に関心を向けてくれない、お母様。
お母様に生きる道を決められて、歪になってしまったお姉様。
お母様を愛しすぎて言いなりになる、気弱なお父様。
政略結婚で、関係の良くない国から嫁いできたお母様のことを考えると、愛してくれないのは仕方ないことなんだって、私は諦めていた。
だから、せめて家族と家の支えになりたいと思った。
お母様の邪魔にならないように、手間の掛からない子になった。
お姉様が辛い時には、私がお人形の代わりに慰めた。
気弱なお父様の代わりに、一生懸命勉強をして外交の真似事もした。
家のために、貴族としての誇りを守るように生きてきた。
高潔に、公正に、公国の民のためになるようにと。
愛されないのは、仕方ない。
なら、せめて、私が大切にしてきた貴族としての誇りは、守られているって、思いたかった。
私は自分の願いを守るように、両手を強く握り合わせて、暗く長い廊下を歩いていった。
一階の回廊から中庭に降り立つと、短い庭芝についた夜露で爪先が濡れて、冷えていく。
靴音が響くのが怖くて、裸足できたけど間違いだったかと一瞬だけ悩んだ。
でも、今さら引き返す訳にもいかない。
きっと今戻ったら、確かめにいく勇気なんて無くなってしまうから。
中庭を通り抜け、樹木で出来た囲いへと分け入っていく。
お母様の温室は、庭園の奥の庭木に隠された場所にひっそりと佇んでいた。
決して大きくはない硝子の小部屋。
普通なら色々な植物を植えて、お茶を楽しめる空間にする筈なのに、硝子の中一杯に、一つの花だけが咲き乱れていた。
綺麗で、毒々しい、赤い花。
精霊のような男の人が言っていた、花。
気付けば私の指は、震えていた。
「そんなはずない。お母様が、人殺しなんて…そんなこと、するはずない」
言い聞かせるように溢した声が、掠れていた。
花があったとしても、本当に毒か分からない。
毒があったとしても、知らなかったかもしれない。
全ては、持っていったら、分かること。
私は意を決して、硝子扉に手を掛けた。
その瞬間、肩に何かが触れた。
「っひ」
声が裏返った。
私は弾かれたように振り返る。
「アーベント…?」
目の前に、静かな眼差しの人がいた。
沈黙が肉体を持ったなら、こんな顔をしているのかもしれない。
「アゼリア、部屋に戻れ」
低くて心地よい声が、今は暗い暗い海底から響いてくように重く、恐ろしかった。
思わず後ずさると、背中はすぐに温室の硝子に触れてしまう。
この温室に、出入りしたのを見掛けたのは、お母様ともう一人、目の前のこの人だけ。
途端に、私の背中を冷汗が舐めていく。
「…私、約束したの。花を持っていくって」
「誰に言われた」
喉が干上がっていくみたいに、痛くて声が出なくなる。
今にも途切れそうな糸みたな呼吸が、自分の喉から細く漏れた。
上から覆い被さるアーベントの影に押し潰されるように、私は膝を震わせて崩れ落ちる。
「ね、アーベント、お母様が、人を殺したなんて…嘘よね?」
精霊に祈るように、両手を強く握り合わせた。
見上げた彼の姿は鬱蒼とした木々を背負って、はっきりと見えない。
だけど、お母様と同じ柘榴色の瞳に、悲嘆の影が落ちていくのが分かった。
「嘘って言って。お願いよ」
縋る私の目に、孤月に似た寂しい銀色の輝きが映る。
それは、アーベントが引き抜いた刃の輝きだった。
「…さよなら、アゼリア」
寂しげな声に、私は答えられないまま目蓋を閉ざした。
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