第5話 負のスパイラル
そんな時代に、K市では、もう新しい産業に着手するのに疲れたのか、マンション経営であったり、土地の有効活用が中心になってきた。
そして、無難なところで、街を挙げて何かをするというわけではなく、土地、建物を貸し付けることで、そこで、チェーン店の展開であったりと、いわゆる、
「他力本願的なところ」
が、多くなってきた。
そもそも、他の街はすでにそういう体制に移行しているところが多い。ここは、商店街など、昔から、結束の強い街だったこともあって、他とは違った、昔からの体制があったのだった。
本当であれば、もっと早くに気づくべきだったのだろうが、どうしても、県庁所在地を囲む街同士での確執のようなものがあり、
「あそこの市には負けられない」
という意識が昔から強かったのだ。
特に、隣のO市とはその傾向が強く、市制が敷かれたのも、昭和二十年代と、まわりの地区に比べて早かったのだが、O市から比べると、若干遅かった。
その件に関しては、お互いに意識はしていたが、どうしても、
「やった方よりも、やられた方の方が、どうしても意識過剰になってしまう」
という傾向の通り、
「O市には負けられない」
という思いは、O市が、K市に対して感じるよりもかなり強いのだった。
一種の逆恨みに近い要素があるのだろうが、張り合っているだけで、別に恨みがあるわけではない。
実際には、昭和の頃の、水不足の際には、ダムを確保していたO市に比べ、K市は、人口の急激な増加に対応できておらず、その間に起こった水不足だったので、絶対的なミスが不足していた。
O市も決して、余裕があったわけではないのだろうが、
「隣の市が苦しんでいるのを、黙って見て見ぬふりはできない」
という意識からか、水を分けてくれたのだった。
それは、まるで、内陸部にいるため、まわりの要衝を抑えられてしまったことで、塩が入ってこなかった、戦国時代の甲斐国の戦国大名であった武田信玄に対し、敵でありながら、好敵手としての度量を発揮し、越後の上杉謙信が、塩を送ってくれたことのエピソードのように、
「敵に塩を送る」
という言葉通り、美談が伝えられた。
K市とO市というのは、そういう意味での、最適な好敵手なのかも知れない。
確かにライバル視は絶えずしている。ただ、それは、
「常に高みを目指して、先に進んでいく」
という意識の表れではないかと言えるのではないだろうか?
お互いを意識し、ライバル関係にあるということで、
「相手よりも、少しでも上を目指す」
という意味で、お互いをライバルとして認めあっていた。
しかし、それぞれに考え方は違った。
「相手のいいところは認めて、真似できるところは、吸収していこう」
というO市と違って、
「ライバルと同じことをしていては、絶対に相手よりも上にいけない。しかも相手が先だったら、永遠に二番煎じに甘んじるということであり、その時点で敗北なのだ」
という意識を持っているので、
「決して、相手と路線は同じであっても、やり方がかぶることはない」
というのが、K市の基本的な考え方であった。
O市はすでに、産業の拡張は考えていなかった。どちらかというと、自由な商売を、他から来た人に提供するという、
「開けた街の実現」
というものを、世紀末あたりから、行っていた。
それは、バブル崩壊を目の当たりにして気づいたことのようだった。
バブル経済というのは、
「実体のないものだ」
と言っていいものである。
つまり、バブル期の場合は、ある意味、
「限りのないもの」
という意識があり、
「やればやるほど成果が出る」
という分かりやすく、目指すものがハッキリしていた。
ということは、
「事業を拡大すればするほど、売り上げが増えれば増えるほど、利益が上がる」
という算数の計算通りにあるのだった。
だから、何も考えることはない。事業を拡大するために、信用を得て、銀行から融資を受けて、どんどんそれを使って、資産運用していく。それがバブルだったのだ。
だが、形あるものに、限界がないなどという発想は、そもそも、おかしな発想だった。
それを皆バブルが弾けて知ったのだ。
もっとも、知らない人たちがいて、それをバブルが弾けても、いまだにできると思ったのが、
「自費出版社系の会社」
だったのだ。
「とにかく、会員を増やせば、本を出したいという人が増えてくる。そうなると、後は適当に言いくるめて、利益を産んでもらえる」
という考えだったのだ。
そのことが、自転車操業であるということは、さすがに彼らだって分かっていたはずなのに、まるで感覚がマヒしているというのか、誰も何も言わなかったのは、上司が怖いからなのか、それとも、真剣大丈夫だとでも思っていたからなのか、果たしてどっちなのだろうか?
とにかく、やはりと言えばいいのか、どうしても冷めた目で見て、自費出版社は、
「潰れるべくして、潰れていったのだ」
と言えるのではないだろうか。
さんざんバブルの時代に、
「事業拡大を行って、過剰融資をしてしまったことで、まず、
「絶対に潰れない」
と言われていた銀行が破綻した。
「貸付金が焦げ付いた」
というわけだが、これ自体が、自転車操業のようなものではないか?
バブルの時代だったから。企業は銀行に頼んで融資をしてもらい、事業を拡大し、利益が生まれる。その利益を銀行に払っていけば、信用となって、銀行もいくらでも金を貸す。それはあくまでも、すべての歯車がうまく行っていたからだ。
しかし、すべてがうまく行く時代がそんなに続くわけもない。
これが一つの機械だとすると、それぞれの場所でいくつもの部品が機械を形成しているのだが、その歯車がさびてくればどうだろう?
同じ時期にできたものであるとしても、機械なのだから、負荷のかかる場所が、すべて均等だというわけではない。そうなると頻繁に利用されるところが一番最初に摩耗してくることになるだろう。なにしろ、機械というものが、消耗品なのだからである。
そんな機械が、次第に、バランスがおかしくなる。すぐに気づいて部品を取り換えればまた違うのだろうが、なかなかそうもいかない。
すると、それまでの動きが明らかに鈍くなり。まだ持つはずの場所までガタが来るようになる。
その理屈に気づけばいいのだろうが、まず経営陣に気づく人はいないだろう。その時に気づくくらいなら、最初から、バブルの欠点について真剣に考えて、崩壊した時の恐ろしさをシミュレーションする人だって出てきてもいいはずだ。
そんな人が現れないのだから、バブルが崩壊した時は、ある意味、
「皆気づかなかったので、しょうがかい」
と言えるのだろうが、そんなバブルを目の当たりにしてきたくせに、バブルで趣味に走る人が増えたということで、その人たちをターゲットにし、それまで、小説を書いていた人の不満をうまくくすぐるというやり方は、最高にうまいと言えるのだろうが、それだけ回転の速い頭を持っていながら、
「自転車操業というものが、決して成功するものではない」
ということに、なぜ気づかなかったというのだろう。
いや、気づいている人もいただろうが、社長がワンマンで、社員のいうことを聞かないだとか、会社がブラックで、舌からの意見を無視したり、意見をしてくる社員を、簡単にクビにしたりなどとできたのだろう。
実際には簡単にはクビにできないのだろうが、そこはブラック。元から、何となく会社に疑問を感じている人であれば、ちょっと、つつけば辞めていくだろうという考えであっただろうが、辞めた後のことを考えていなかったのも、会社の経営者の傲慢さだったのかも知れない。
辞めていった人の中には、本を出した人の大多数の中でなので、少しは、
「何か怪しい」
と思っている人もいるだろう。
そんな人は、かつて自分が直接担当した人の中にもいるのが分かっていると、辞めた後に接触することもある。
「もう自分はあの会社に見切りをつけた」
ということで近づいて、同じような不信感を抱いている人たちを募り、
「被害者の会」
なるものを立ち上げ、会社を告訴するのを裏から手伝っていた人もいるだろう。
内情を知っているのだから、弁護士と相談して、
「どこを攻めればいいか?」
ということも分かっているので、弁護士もやりやすい。
そうやって、告訴に加わる人が増えてくると、出版社もたまらない。
ただでさえの自転車操業。宣伝費を使って、人に関心を持たせることが始まりなのに、話題としては、
「バブルが弾けてかなり経つのに、いまさらながらの自転車操業。明らかな詐欺行為は、人の心理を巧みに使ったもので、騙された人は数知れず」
という見出しの元に、週刊誌がどんどん書いたりすると、新規の人が入ってくるはずもない。
そこまでくると、やっと詐欺だったことに気づいた、本を出した人は、出版社への告訴に対して、被害者の署名という形で協力をするのだから、出版社はあっという間に破綻してしまう。
負債額も相当なもの、せっかく作った本も、元々、売れるわけがないので、倉庫に眠らせることになる。
本を作れば作るだけ、在庫が膨れ上がり、それこそ、
「紙屑の方が、また使い道がある」
とまで、本に対しての感覚がマヒしてしまうほどに、出版社の人も感じているのではないだろうか?
破綻寸前になって、社員たちも、やっと、
「自転車操業がうまく行くはずない」
ということに気づく。
まるで、バブルが弾けた時に、経営者が気づいたあの時のようではないか。
10年も前に分かっていたことを、何をいまさら感じないといけないというのか、さぞや、社員たちは、一律に、自分たちのバカさ加減に気づかされたに違いない。
それが一体何を意味するというのか、きっとあっという間に、それまでは必至で仕事をしていたはずなのに、
「いつの間にか、犯罪者の片棒を担ぐようになっていたなんだ」
という後悔をすることになるのだ。
そのせいもあって、
「うまい話には、必ず裏がある」
ということを思い知ったことだろう。
それは、本を作った人たちにも言えることだ。確かに、本を出したいという意思は尊いもので、汚してはいけないものなのだろうが、明らかにおかしいこのことに、どうして気づかないのだろう?
「定価1000円の本を1000部作るので、共同出版で折半しましょう」
と言ってきていて、そして、著者に対しての出資金の見積もりが、
「150万円を出資してください」
というのである。
掛け算ができれば、これがおかしいことは小学生だって分かるはずだ。それを。
「おかしいのではないか?」
と指摘すると、相手は。
「いいえ、これは、本屋に置いてもらったり、宣伝のための費用もあるので、これくらいかかる」
というのだ。
しかし、ちょっと考えれば分かるはずだ。
「宣伝費や、販促費も含めたところでの定価なんじゃないですか? 製作費と合わせたところでの出資金と定価の差が、利益になるんじゃないですか? じゃあ、この定価ってなんなんですか?」
というと、相手は何も言えなくなってしまう。
普通に考えれば分かることなので、相手も、それこそ断られるのは、百も承知で、
「下手な鉄砲」
を数打ってきているのではないだろうか?
つまり、1000人に対して、同じことを言って、そのうち50人でも、了承してくれれば、
「御の字だ」
と思っているのだろう。
分母が100でも1000でも、分子が50であれば、それでいいという考え方であった。
相手が詐欺であることは、見積もりを見た瞬間に分かりそうなものだが、それでも、期待して、中には、
「借金をしてでも、本を出す」
という人もいるくらいだ。
それだけ、洗脳がうまいというのか、それとも、著者が自分に対して一縷の望みだったはずの作家への道を、傲慢にも、
「自分にも、作家になれる」
という感覚を持ったからだろう。
それだけ、出版社の批評が巧みだったかということであるが、やはり、著者の傲慢さがそこに含まれているのだろう。
傲慢と言ってしまうと、申し訳ないと言ってもいいのだろうが、結果、さらなる被害者を産むことに加担した形になるというのは、本人たちもたまらない事実だったに違いない。
出版社側も、最初の成功が、大いに味を占めることになったのだろう。
当初の予想よりも、はるかにうまく行ったのかも知れない。
これは、大東亜戦争と同じで、本当なら、
「ある程度のところまで儲ければ、下手を打つ前に、さっさと撤退して、それを資金に、別の事業を展開しよう」
と思っていたのかも知れない。
「それは、自転車操業がどれほど怖いものか?」
ということが分かってのことではないだろうか?
要するに、彼らとしてみれば、
「最初にうまく行きすぎてしまったので。引き際を間違えた」
と言っていいだろう。
そもそも、詐欺というものは、そういつまでも続くものではないことくらいは分かっていたはずだ。
だから、ちょうどいい塩梅のところで手を引けば、詐欺として訴えられることもなく。もし、誰かが詐欺だと気づいて騒ぎだしたとしても、そこは、実体はないということで捕まるわけはないという考えだったのかも知れない。
しかし、世の中、うまい商売を、まわりが放っておくわけもなかった。二番煎じの会社がいくつもできて、
誰もが、ハイエナを狙ってくるのだ。そうなると、本当は、地道に会員を増やそうと思っていたところに、ライバル会社が増えたことで、危機感が増してきてしまい、引っ込みがつかなくなるくらいに、他の会社をライバル視し、少しでも、
「相手よりもたくさんの売り上げや利益を」
と考え始めると。最初に考えていた、
「うまいところで手を引けばいいんだ」
という考えが完全に瓦解してしまうことになるだろう。
「目標を見失ってしまった」
といってもいいかも知れない。
それは、ある意味、
「大東亜戦争の失敗」
を、地でいっているようなものだ。
というのは、あの戦争が、
「かなうはずのない強敵に対し、どうしてもしなければならない戦争だった」
ということであり、
「勝つための戦争ではなく、負けないようにするための戦争」
ということだったのを、忘れてしまい、最終的に、国土は焦土となり、最終的には、無条件降伏を受けれなければならなくなり、
「負けないための戦争」
というものが、最期には、
「破滅を迎える戦争」
になってしまったのだ。
それは、戦争当初での、
「連戦連勝による不敗神話が、傲慢に繋がり、相手に情報が洩れていることも分からず、視界として見えている部分も、見えない部分も、盲目となり、戦争を遂行しなければならなかったことが、敗因だった」
と言ってもいいだろう。
それと同じことが、戦争が終わってから、60年経ってから、
「いまさら」
とばかりに、起こったのだ。
しかも、バブルの時代の反省もないままに、突き進む、どちらの反省も考慮していなければ、しょせんは零細企業、まわりの人間が詐欺だと気づけば、ひとたまりもない。
むしろ、
「よく、数年とはいえ、こんな繁栄がもったものだ」
と言えるのではないだろうか。
一時期は、自費出版社系の会社が、出版部数だけでは、日本一というのが、2年ほど続いていたのだ。
それはそうだろう。
有名出版社は、有名作家を抱え込んでいて、その人たちに正規の原稿料を払うことで、厳選した作品を世に送り出してきたのだ。
しかし、自費出版社系の会社が出す本というのは、素人は趣味程度に書いた本を、作者のお金で出版させるという形を取っているから、部数だけなら、多いのは当たり前だ。ただし、それらの本は、決して本屋の店頭に並ぶことはない。あくまでも、
「本を作るだけ」
なのだ。
そして、それらが在庫となって、在庫を抱えることで、倉庫代もかさんでくる。
そのことも、どうせ最初から考えていたわけではないのだろうから、考えが浅いと言われても仕方がないだろう。
そんな自費出版社のライバルは、有名出版社ではない。後からハイエナのように出てきた連中だった。
そうなると、当初の目的だったはずの、
「ある程度のところまで稼げれば、撤収すればいい」
と考えていたことなど頭の中にあるはずもない。
当初に連戦連勝で勝ちすぎて盲目になった、大日本帝国の戦争指導者と同じではないか。いや、大日本帝国の場合は、仕方のない部分もあった。
なぜなら、連戦連勝をマスゴミが宣伝することで、
「日本は負けるはずがない」
という不敗神話を証明した形になり、実際には、
「引くに引けない状態になってしまった」
と言ってもいいのではないだろうか。
それが、大東亜戦争における、大日本帝国と、バブルが崩壊したにも関わらず、いまだに、詐欺と自転車操業で、やっていこうと考えた連中の大きな違いではないだろうか。
そういう意味で、自費出版社系の会社の罪は、
「救いようのない罪」
として、語り継がれることになるだろう。
そんな自費出版社系の会社の罪を全体的に考えると、
「騙されるやつらがいるから、騙す奴が出てくる」
という考えに落ち付いてしまい、まるで、
「ニワトリが先か、タマゴが先か?」
という禅問答の回答が出ない限り、永遠にこの負の連鎖、つまり、
「負のスパイラル」
は、続いていくものではないかと思うのだった。
そんな時代、何も自費出版社系の会社だけが、詐欺を行っていたわけではない。ネットの普及により、爆発的に詐欺が横行していた。
それまでは、騙されるべくして騙されていたという詐欺だったが、いつの間にか、
「誰だって、引っかかってしまう。詐欺はあなたのすぐそばまでやってきている」
と言われるようになった。
逆にそんな時代だから、自費出版社関係の会社に対し、
「これくらいは、詐欺なんかじゃない」
という詐欺に対して、感覚がマヒしているところに付け込んできたことが、最初の成功にも拍車をかけたのかも知れないのだった。
そんな詐欺に近いような連中なので、破綻する時はあっという間だった。
しかも、誰の迷惑をかけることなく破綻するのならいいのだが、やつらの破綻が、人に迷惑をかけっぱなしだった。
一般企業が、破綻して、民事再生を申告した時、基本的に、民事再生を申請した会社を助けることを基本とするので、いわゆる、
「債権放棄」
の方法を取る。
「例えば、一年以上前の債権は、放棄する」
というようなやり方だ。
もちろん、債権には、時効というものがあるので、期間はそれによって決まってくうのだろうが、そして、民事再生を申告した会社と取引をする時は、
「基本現金払い」
とするのだ。
要するに、お金がないと、商売ができないということである。
そして、再建するために、いくつかの、
「スポンサーと言われる企業を見つける」
ということが大切だ。
「今後、この企業がやっている事業は、これから伸びるので、出資してもいいという会社がなければ、再建はできないということで、一種の銀行側が融資するための、連帯保証人というか、会社としての担保」
のようなものだということだ。
つまり、民事再生というのは、民事更生のように、
「経営陣の総入れ替えが必要」
であったり、それなりの厳しい処置があるわけではない。
あくまでも、その企業が存続できるかどうかということだけが問題なのだ。
ただ、さすがに詐欺でなりたっていた会社のスポンサーになるところが現れるはずもなく、完全破綻してしまったのだが、問題は、
「倉庫に山のように残った在庫」
だったのだ。
このまま放っておいても、賃貸料だけが発生する。弁護士が作者に対して提案したのが、
「本となったものは、定価の8割掛けで、皆さんにお売りします。買い手がなければ、廃棄します」
というものだった。
これには、さすがに著者はたまったものではない。
「これは共同出版なんだから、企業が破綻したのだったら、在庫をただで引き取るのが当たり前じゃないか。そもそも、そっちが売るということで、本にしたのだから、売り切ってもらうのが筋じゃないか? それができないのだったら、そっちで買い取ってもらうというのが、本当じゃないのか?」
と被害者の会の会長はいう。
しかし、企業側の弁護士はいろいろ言って、結局、企業側の言い分を呑むしかなく、
「破棄もやむなし」
と考えた人も多いだろう。
「確かに、頑張って書いた作品ではあるが、こんな詐欺の会社で本にされて、さらし者になるくらいだったら、ここで葬ってあげた方が、いいかも知れない」
と感じる人もいるだろう。
しかし、作品に未練のある人は、泣く泣く買い取ったという人もいるだろう。
最初に、200万払った人は、追加で150万払うというものだ。
しかも、もう存在していない会社から出た本である、価値は正直言ってないだろうし、いわくつきという意味では、マイナスしかないので、破棄した人が本当は正解なのかも知れない。
ただ、これも、詐欺ということを分からなかったことが招いた悲劇であり、自業自得とも言えるだろう。
そういう意味では、決して同情されるべきっことではない。もし、これが同情されるような出来事だとすれば、このような事件は、この世から決してなくならないだろう。それだけ詐欺を行う連中は、あの手この手で、人を騙すことしか考えていないからではないだろうか?
バブルが崩壊したそのツケを、
「負のスパイラル」
という形で、表した、時代の新しい形を、
「負の遺産」
として、後世に残す結果となった一つの例であっただろう。
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