異世界で遥か高嶺へと手を伸ばす 「シールディザイアー」

第三十三話： 紅い霧を見下ろす幼児

　みんなで一晩を過ごした簡易岩屋（ロッジ）から外へ出て、早朝の青空を見上げながら僕は思う。

『夜になり、また朝になり、このダンジョン内で丸一日を過ごしたわけだが、言われなければ、外との時差なんてまったく気付けないものだな』

「ふわぁ～あ……うん、まぁ、特に気にする必要もないことだしねえ」

『だが、不思議に思わないか？　あの空はどうなっているのやら……。よく出来た書き割りか、あるいはスクリーンか何かに、半日遅れで外の景色が映し出されているのだろうか、むむむ』

「どうでもいいよ。風の精霊に我は請う（デザイアエアー）……」

『はぁ、本当に適当な奴だな。お前が僕の一部だということが信じられなくなってくる』

　端（はた）から見れば独り言じみた、そんな会話をしながら、仄（ほの）かな熱や光に牽かれてだろう夜の間に集まってきたゴミダマ――サッカーボール大の甲虫型モンスターを遠くへと吹き飛ばしていく。

　動きが鈍くて大人しい、割りと無害なモンスターではあるのだが、でかくて硬いため、近くに群がっていられると非常に邪魔なのだ。戦闘中など、足下（あしもと）にいられるだけで困ってしまう。

　そうこうしているうちに、岩屋の中からぞろぞろと支度を調（ととの）えた仲間たちが出てきた。

　ダンジョン探索、二日目の始まりだ。

　　　　　◇　◇　◇　◇　◇

「それでは出発するぞ！　皆の者！　行けるか、シェガロ？」

「うん、パパ」

　昨日もしていたように、風の精霊術で限界高度――地上十数メートルまで垂直上昇していく。

　一人、上空へ向かう僕の役目は、周囲の警戒と索敵（さくてき）である。

　散開してマティオロ氏らモントリー騎羽（きば）団を先導していく【草刈りの大鎌（おおがま）】の役目も同様ではあるが、彼らがいかに腕利きの冒険者だと言っても、その鋭い目が行き届く範囲は百メートルに満たず、意識の大部分は深く草が生（お）い茂った足下（あしもと）へと向けられることとなる。

　それを補うべく、より広範囲――数キロから数十キロを見渡しつつ、周囲を俯瞰（ふかん）するのだ。

　しかし、この“上空から見渡す”という行為には、更にもう一つ、極めて重要な意味がある。

　それは本ダンジョン【紅霧の荒野コユセアラ】固有の怪現象への対策だ。

　既に説明した通り、このダンジョンの中は、うっすらとした紅色の靄（もや）に包まれている。

　近距離の視界を遮（さえぎ）るほどの濃さではなく、数百メートル先の物がぼやけ、数キロメートル先が見通せなくなるという程度だが、当然ながら、これは単なる自然現象ではなかった。

　霧や靄とは呼ばれているものの、その正体は大気中に漂う微小な水滴にあらず。色付きの気体（ガス）……素直にそう呼ぶ方が実態に近い。

　幸い、人体に直接的な害を及ぼすものではないようだ。

　問題は……。

「ジェルザさん、そっちじゃないです。だいぶ右へ曲がっちゃってます」

「ハッ！　アタシの方向感覚がまるっきり当てにならないのは、ちょいと自信を無くすねえ！」

「仕方ねえっすよ、姐御（あねご）。全員で気ぃ張ってても真っ直ぐ歩けねえってんじゃあ」

　薄紅色をしたこの靄にまかれた者は、微（かす）かに色付き揺らめく景色に幻惑され、空間識……特に方向感覚を狂わされてしまうのだ。

　影響自体はほんの僅（わず）か、通常の行動では気付けないレベルの違和感でしかない。

　にも拘（かか）わらず、長時間、靄の中を進んでいると、無意識のうちに目標を見失い、方向を逸（そ）れ、気が付けばぐるぐると同じ場所を彷徨（さまよ）っていたりすることさえあるのだとか。

「……ッチ、めんどくせえ。不人気ダンジョンも納得だぜ」

「ええい！　ぼやくな！　我らには切り札がある！　うちの自慢のシェガロがな！」

　そう、そこで僕の出番となる。

　実を言うと、靄が立ちこめているのは地表付近だけであり、六七（ろくしち）メートルほど視界を上げれば、わけの分からない空間知覚異常に悩まされることはなくなる……という事実が、比較的早くから冒険者たちによって突き止められていた。

「道に迷ったら木に登れ！　高台（たかだい）を目指せ！　まぁ、あんなダンジョン行かねえのが一番だがな」と酒の肴（さかな）に吹聴（ふいちょう）される、ちょっとした攻略法だったらしいが……。

　それを小耳に挟んだジェルザさんが、空を飛ぶ能力（・・・・・・）を持つ僕に目を付けたわけだ。

「ハッハー！　空に浮かんだまま付いてこれる坊（ボン）はアタシらの命綱さ！　頼りにしてるよ！」

『さしずめ、僕はレーダーないし監視衛星といったところかな』

「ひとまず真っ直ぐ行くと小さな林。イチジクやバナナっぽい樹もあるなぁ。実を見てみたい。左手の遠くには大きな水場。川は見えないけど奥かな？　生き物はまだ……ああ、ずっと後ろにばかでかいゾウみたいなのが一頭いるけど、今のところはそれくらい。ザコオニはいませんね」

　ということで、頑張ってナビゲートを務める僕なのだった。