シーン42 悪役の矜持
☆
気がつくと、なんだか狭くて臭くて暗いところに閉じ込められていた。
この埃っぽい臭いには覚えがある。
足を動かすと、爪先が何かに当たって、からんと金属質な音がした。
やはり、ここは掃除用具入れの中か。どうやら蹴ったのはアルミのバケツらしい。
何故こんなところにいるのだろうか。
フランスパンを手に持ったトンチキな連中が現れて、真城目たちが出撃したところまでは覚えているのだが、一体どういう経緯でこんな汚い場所に身を寄せる羽目になったのだろう。
僕は記憶を辿ろうとするが、どうやっても記憶と記憶の間に補えきれない空白があることに気付き、考えてもしかたないという結論に達した。
とりあえず、外に出ようと思って、よいしょと身体を動かす。
眼の前には扉らしきものがあって、隙間から外の光が漏れていた。僕は身動き取れないので、肩で扉を押す。
ぎいぃと錆びついた音を立てて扉は開き、僕はようやく、綺麗な空気が漂う明るみへと出た。やはり掃除用具入れの中だった。
そして、急激な光量に目を慣らすこと、しばし。
ようやくまともな視界が開けた時、眼の前には、浦原がいた。
「…………」
彼は何故かがっくりと肩を落として、椅子に項垂れていた。
サイレント映画だとしても通用しそうなそのガッカリ具合に、僕は思わず同情の念を抱いてしまうほどだったのだが、そんな場合じゃねぇと思い出し、
「浦原、なぁ、なんで僕、掃除用具入れに入ってたんだ?」
尋ねると、彼は顔をゆっくりと上げて僕を見た。返事はなかった。
「……お前、何でそんな死にそうな顔してるんだ?」
浦原の目は光を失っていた。ハイライトが無いというか、濁っているというか。
彼に関しては、初登場時から、イキイキと皮肉を飛ばして悪魔のような笑みを浮かべる性悪野郎という印象が強かったから、流石にそのやつれ具合には驚いた。
「あー、やっぱ、こうなンのね」
くつくつと、彼は笑い声を漏らす。
しかし、その笑みには、いつも彼が口に含んでいるような嘲笑の要素は微塵も感じられなかった。
むしろ、僕には悲鳴に聞こえた。
「おい、浦原。一体何があったんだ。お前、変だぞ」
「やっぱ、俺程度じゃ『主人公』にはなれねぇってことか」
「聞こえてるのか?」
「これでも策にゃ自信があったンだがな。まさか、あの女にしてやられるとはなぁ。どうすりゃ成功した? 迂闊にページを開かなきゃよかったのか?」
「おい」
「結局、俺はせいぜい『裏切り者』止まりってコトか。シナリオ通り。プロット通り。手のひらの上で踊る哀れな傀儡」
「浦原!」
「でも、ま」
そこで浦原はゆらりと立ち上がり、僕を見た。僕も彼の顔を見た。見合わせた。
「お前、何で、泣いてるんだよ」
「最後まで、足掻くとしますかね」
浦原の背後から、きらりと光るものが見えて、僕は咄嗟に身体をよじった。
「うおッ!」
はらり。
先程まで僕の頭があった場所に、鏡面のごとく光るナイフがあった。
ナイフが、あった⁉
自分で記述しといてという話ではあるが、その事実を自分の身に降りかかる脅威として捉えるのには少し間が空き、僕は一呼吸置いてから、おっかなびっくり驚いた。
「浦原お前、一体何――うおおッ!」
情けなく尻もち着いた僕に、浦原の追撃が飛んでくる。刃の切っ先が頭に向かって。
バックステップの回避動作を取らなければ、僕の頭頂部にそれがブスリと突き刺さっていたことは想像に難くない。
切れ味は初撃の際に髪の毛が数本持っていかれたことで知っている。
ガチのマジで刃物だ。あれ。
「避けるねぇ。ま、意識向けられてる状態だとこうなるわなぁ。主人公補正ってヤツ? だから不意打ちするしかなかったってのによ」
浦原は、はぁーと深い溜息を吐くが、それでもナイフの連撃は止まらなかった。
右。左。右。正面。左。また左。
浦原の突撃には一切の迷いが見られなかったが、それでも僕がナイフを避け続けることができたのは、彼のフィジカルが帰宅部の僕と比較しても貧弱だったせいだろう。
やがて、僕は足を使って逃げ回ることを覚え、部室内を駆け回った。
そして、僕らは机を挟んで向かい合う。
「浦原! お前、お前……マジでどうしたんだよ!」
僕も浦原も、肩で息をしていた。
「どうしたもこうしたもねぇよ。浦原罪は、プロットに従って『主人公』を裏切った。そンだけだ。二回も言わせんじゃねぇよ馬鹿が」
「初耳だ!」
「今のテメェにとっちゃそうなんだろうなぁ」
先程から浦原が一体何を言っているのか。僕にはまったく理解ができない。
ただ、浦原が本気で僕を殺そうとしてるってことだけはわかった。
そろそろ宣言通りに裏切るかもしれないとは薄々思っていたが、こんなにガチで殺そうとしてくるとは予想外だ。
これはコメディ作品じゃないのか!
「とんだ『裏切り者』だよ。お前は」
まさか彼の名前に、ジャンルそのものを裏切るという意味までもが含まれているとは思わなかった。
「ああ、そうだ。俺の名前は浦原罪。この『物語』において、『裏切り者』の役割を背負わされたシェイプシフター。そンでもって、ご存知の通り――」
浦原の白衣が、そこでばさりとはためいた。
「――『研究者』、だ」
結論から言うと、咄嗟にしゃがんで正解だった。
ひゅごっという掃除機が詰まった時みたいな音が、頭の上を通り過ぎた。
一体何が頭上を通過したのか。
それを目視で確認している暇はないと直感的にわかって、僕は四つん這いになって、なりふり構わず動き回る。
ばき、ばき、ばき、と、動く度に背後でなにかの破壊音が聞こえてくる。
足の爪先を、何かが掠る。
服の袖口を、何かが貫く。
そして、手をついた床のすぐ横を、白い何かがめり込んだ。
僕の見間違えでなければ、布だった。
いよいよまずいなと思って、僕は観念して後ろを向く。
「ズルいなぁ、畜生」
背後から僕を襲いかかっていたのは、巨人のような双腕だった。
色は白。見た目の素材はやはり布。一体どんなカラクリか。それらは僕の身代わりとなってくれた机や椅子をバキバキに粉砕するほどの破壊力を持っていた。
そして、その双腕の根本には、手をポケットに入れた浦原が突っ立っていた。
どうやら、身にまとった白衣を双腕の形に変形させているらしい。
「悪ぃな、手塚。俺ぁバトル要因じゃねぇって言ったが、ありゃ嘘だ。俺だって登場人物の一人。やろうと思えば、トンデモ発明品だって使えンだ」
布地の双腕が、両サイドから握りつぶすような形で僕を襲う。
右に行っても左に行ってもぺしゃんこなのは間違いなく、したがって、僕は後ろの壁に飛び退るしかなかった。
当然の帰結として、逃げ場はついに失われた。
詰みだ。
「……何で、最初っからこうしなかったンだろうなぁ。これも、主人公補正の影響ってヤツかね? ああ、きっとそうに違いねぇ」
何故か自分に言い聞かせるような口調で、浦原は呟く。
指を広げた双腕が、窒息させるかのようににじり寄る。
右にも左にも後ろにも退路はなく、手近なところに武器もない。
これがどうやら、万事休すというヤツらしい。
「頼むぜ、手塚。今度こそ、死んでくれ」
辞世の句を詠む時間すら与えられることなく、拳が僕に振り下ろされる。
こうなると人というのは無力だ。僕はせめて痛みに耐えようと、目を閉じ、歯を食いしばる。
――
しかし、いくら待っても僕の身体に痛みはやってこなかった。
死ぬ直前には脳が高速回転して主観的な時間間隔が遅くなるとは聞いたことがあるが、それにしたって長かかった。
恐る恐る、僕は目を開ける。
そこには……そこには!
「やぁ! 手塚くん! 遅くなってすまなかった!」
腕組みをして仁王立ちをする、真城目の姿があった。
その聞き覚えのある胴間声に、僕は心底安堵してしまった。
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