シーン24 認め難い事実

「お前の、せいか」


 場面が切り替わるなり、公人は本に向かってそう言った。


 三人称視点はすべてを知っている。したがって、彼の真意も知っている。


 しかし、ここは会話調にしたほうが読者も読みやすいだろうから、あえてこう問いかけることにしよう。


 「お前のせい」とは?


 その問が、白紙の上に浮かび上がるのを見てから、公人は口を開く。


「今日の一連の出来事の最中、自分でも『らしくない』って行動を何度かした覚えがある。あれは、お前のせいか」


 その通りである。


 決して君の行動をすべて操っていたとは言わないが、『物語』の進行を優先させるため、君にはその性格に合わないような行動を何度か取ってもらっていた。


 三人称視点による描写は客観的な事実である。記述されてしまえば、作中の登場人物は必ずその通りに動かなくてはならない。


「じゃあ今、僕がお前に心底ムカついてるってのも、お前がそう記述したからなのか」


 それは違う。


 三人称視点が登場人物に強制的な行動を取らせることは、あまり良い手段とは言えない。


 そうしてしまうと、登場人物たちの動きはプロットというレールに従ったロボットじみた挙動をしてしまうから。


 簡単に言ってしまえば、「生きている」という雰囲気が出なくなってしまうのだ。


 生きた登場人物というのは、傑作になるために必要なファクターである。それを手放してしまうのはあまりに惜しい。


 だから、登場人物たちには自由意志が与えられ、基本的には自らの思考によって喋り、行動するのだ。


 少なくとも、この小説はそうやって描かれている。


 だから、君の怒りは君自身のものである。


「お前が嘘をついてないという保証はどこにある」


 公人はわかりきった質問をした。読者の便宜を図るためだというのなら、彼も『主人公』として身の振り方というものを心得てきたと言えるだろう。


「そうじゃない。ただ、僕の考えが合っているかどうか、はっきりさせておきたいだけだ」


 ならば答えておこう。


 一人称視点による記述であれば、たとえその描写が作中内の事実とは異なるとしても、その人物が誤解していた、あるいは嘘をついていたという理屈をつけられる。


 しかし、三人称視点による記述となるとそうはいかない。三人称視点による描写は先にも言った通り、客観的な事実である。


 いや、客観的な事実でなければならない。


 これは『設定』という意味ではない。小説を執筆する上で必ず守らなくてはならない第一原則なのである。


 細かな設定などであればこの三人称視点でも書き換えることは可能かもしれないが、それほど大きな原則ともなると、たった一つの作品程度では到底太刀打ちできない。


 この原則を守らず、「実は三人称視点が嘘をついていたという、これまでの小説の常識をひっくり返したギミックでしたー!」とドヤ顔見せたところで、読者に本をぶん投げられた後に低レビューをつけられるのがオチだ。そんなリスクは侵せない。


 したがって、この三人称視点は嘘はつかないし、つくこともできないのである。


 納得できただろうか?


「……ああ」


 公人は若干放心状態であった。


 彼には、もう理解できているからだろう。


 この三人称視点による描写が事実であるということは、つまり、再三述べてきたように、


「じゃあ、本当に、この世界は『物語』なんだな」


 そういうことになる。

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