《第二週 相棒を見つければ、やる気が出るかも》

 今日こそは遅れないようにと早く出て早く来たのに、坂東碧生はもういた。

 挨拶を交わして、ドアを閉めることはせず、まっすぐにカウンターに向かう。カレンダーはもう変わっていた。

 椅子に座ると全身の力が抜けそうなので、先にワークをかばんから取り出す。今日は、理科。

 それからやっと座って、一息つく。水筒の麦茶がおいしかった。

 カウンターでは「高校入試理科 基礎これだけ!」なんて緑色の文字だけが表紙で元気そうにしていた。深呼吸をして、向かい合うのは物理。私は理科の中で物理、化学、地学が苦手だ。つまるところ、理科が苦手だ。

 物理は、一年の最初の光・音でKOされた。その光が今回のテーマだった。

 定規を出して作図をする。常温の風が首筋に触れる。角度のある鏡が、時計を映す。鏡に映った像がさらに鏡に映って、みたいなやつだ。この手の問題がなかなか解けるようにならない。

 こういうときは、いつも書いてみることにしている。まず時計の右半分が――

 うまくいかない。こんなの基礎じゃないだろうと思ってよく見ると「応用にも挑戦!」とこれまた表紙と同じ元気さで書かれていた。なんなんだもう……。何が「基礎これだけ!」だ。

 蝉の声が大きくなる。一気に集中力が切れて、頑張って生み出していたやる気が失せる。静かな本たちに向かって大声で叫びたくなる。

 坂東碧生の文字を書く音と蝉の声以外音のなかった図書室に、鈍い音が跳ねた。音のした方向を見ると、私の消しゴムが床に落ちていた。私が苛立ちに任せてはじいた消しゴムが、勢い余って落ちてしまったらしい。

 一回椅子を立ってカウンターを出ないとか……。だるいなあもう。

 いいやもう。ちょっと休憩しよう。ゆっくりしたい。

 私は机に突っ伏した。

「落ちてたけど、いいの?」

 顔を上げると、坂東碧生が手に私の消しゴムを乗せて差し出してきた。

「ありがとう。ごめん、私のなのに拾わせちゃったね」

 恥ずかしくなって体感温度が上がる。カウンターの奥の方の席に座っていて、私よりも遠いのに拾わせてしまった。

「おれはいいけど、物は大事にした方がいいよ」

 真顔で言われる。当たり前だ。自然と背筋が伸びて手が膝に乗る。

「はい……」

「うん」

 沈黙が流れる。生暖かくてべったりとした風で流されたりなんかしない重たい気まずさが、狭いカウンターをすっぽりと包み込む。

「それ、鏡の問題?」

 さっきの真剣な顔つきは嘘のように聞いてきた。

「そう、あんまり得意じゃなくて」

「井上なのにね」

「え……」

 名前をフルネームで覚えられていることに驚く。

「あ、いや、ごめん。バカにした訳じゃなくて」

 ごめんごめんと激しく謝られて、弁明する隙がない。坂東碧生がここまで必死になっているのを見るのは、ちょっと面白かった。

「怒ったんじゃなくて、フルネーム覚えてもらえてるんだなってびっくりしただけ。大丈夫だよ」

 「だって名前知るのに時間がかかったから」と苦笑混じりの小さな呟きが聞こえた。

「坂東碧生、くんは、何でそんなに勉強を頑張れるの?」

「そっちだって覚えてるじゃん」

 「だってめちゃくちゃ頭いいって有名だから」という私の発言は聞こえなかったのか、反応はなかった。

「相棒を見つければ、やる気が出るかも」

「相棒?」

「そう、この子と一緒にいるときは勉強頑張るぞっていう」

「坂東碧生くんにとってのそのシャーペンとかってこと?」

「まあ、そうだね。マリンは相棒というよりも、なんていうか、こう……パートナーかな」

「おお。マリンってすごいんだね」

 息を呑んだのがわかった。

「世界一だと、思ってる」

 告白するみたいに生真面目な声だった。告られたことなんてないけれど。シャーペンについての話だったのに、なんかちょっとどきっとさせられた。してしまった。

「いいね。私も相棒、探してみる」

 そう言うと坂東碧生は俯きがちに頷いた。

 坂東碧生のスイッチを入れた書きやすいシャーペン、マリンを家に帰ったら調べてみようと思った。

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