《第一週 そのドア、開けっぱなしで大丈夫》
私が朝ごはんのあと、優雅に朝のシャワーを浴びていたら、声がした。
「ひーちゃん、委員会は今日からじゃなかったかしら」
今日は何曜日だっけ。
水曜日だ。
頭から水をかぶったような――実際にかぶっていたのだが――衝撃を感じた。夏休みになって、完全に曜日感覚を失っていた。
「そうじゃん! 今何時?」
「今八時十五分くらいよ」
「けっこうやばい……! 教えてくれてありがとう」
コンディショナーは諦め、シャンプーを手際よく洗い流す。鎖骨につくぐらいの髪の毛をまとめてぎゅっとふきんのごとく絞る。暑いなかHOTのドライヤーをあてて……これまた暑い中を全速力で走った私は、無事活動開始の五分前に図書室に到着した。
坂東碧生はカウンターにいた。彼に向かって肩を上下させながら挨拶をする。
「おはよう~」
「おはよう」
坂東碧生は問題集から顔を上げて挨拶してくれた。
「あ、そのドア、開けっぱなしで大丈夫」
ドアをスライドさせる手を止めて振り返る。
「え? 冷房はいいの?」
「つけてないから。閉められると風が通らなくなって暑い」
つけて……ない?
冷静に考えてみると、暑い外から図書室に駆け込んだときに、ドアを開けなかったし冷房のあの涼しさも感じられなかった。
「おれ、あんまり冷房好きじゃなくて」
「あ……なるほど」
「つけたくなったら遠慮しないでいつでもつけていいから」
そう言われても、その前に好きじゃないなんて言われたらつけられないじゃないか……。この暑さがまだ生存圏内だなんて、衝撃だ。
広くはないカウンターに二人で座ると、ちょうどぴったりという感じだった。三人になった曜日は、一人カウンターに入れないな。誰も来ないからどこにいたって一緒なのだが。
ふと目に入った返却日カレンダーが変えられていないことに気がついて、手を伸ばす。
今日は、二十七日の水曜日。
日にちのカードと曜日のカードを抜き取り、向きを変える。
「ありがとう、忘れてたわ」
お礼を言われて、少し驚く。あの素っ気なさは性格の問題ではなく、声質とか喋り方のせいなのだろうか。
日付を変えると、いよいよ私も問題集と対峙することになる。
聞いたことがないような単語の名前がついている英語の問題集。それが英単語ではなくギリシャ語だと知ったときは驚いた、というか不思議だった。なんていう意味だったかは、忘れた。
宿題をやろうと付箋をつけたページを開くと、アルファベットの羅列。
見なかったことにしてしまいたい気分だが、受験生はそういうわけにいかない。ペンを握る。
ふと隣を見ると、ペンは私のとは対照的によく動いていた。摩擦がないみたいだ。数学だろうか。
いいなあ。羨ましいなあ。なんてったって彼は学年一位だ。私とは全然違う。わかってる。思ってもしかたないけど思ってしまう。
努力じゃこの差は補えないんだろうな。
ひねくれたことを考えてしまった。私は井上ひかりだ。坂東碧生じゃない。
ふっと軽く息を吐く。手が止まった。
「どうした?」
「あ、いや、えっと」
突然話しかけられてパニックになる。何か、何か言わねば。
「そのペン、書きやすそうだね」
当たりさわりの無さそうなことを言っておく。
とその瞬間、いままで見たことのないような笑みを浮かべた。私が拍子抜けするくらい。
「おれの? 去年から使っているお気に入りなんだ。この水色が綺麗なんだよねすごく」
大事そうに、丁寧に広げた両手に乗せて見せてくれた。よく見ると確かに不思議な透明感のある、まさに水の色のペンだった。この前胸ポケットに入って知的オーラを振り撒いていたあのペンだ。BAEなんてかっこいい文字が藍色で彫られている。
「なんて名前なの?」
「な、名前?」
「うん。そのシャーペンの」
「え、一応、マリン」
「マリンか。海っぽいもんね」
「う、うん。まあ、そう」
困惑されてしまった。変なことを言った気はしないのに。焦って質問しすぎたかもしれない。
まあとりあえず場が丸く収まってよかった。もう怪しまれたくないので大人しく羅列に向かい合うことにする。読み始めると物語文だったことがわかり、少し気分が乗ってきた。
文章に沿って出来事を順に記号で並べなさい。んー、D→B→A→E→C、と。
知っている並びのアルファベットになった。
BAE。シャーペンに彫られた文字。バエ。違うか、Eがあるからエイになってベイか。港? 違う、港はBAYだ。けど去年からってことは、彫ったときにはまだ学年一位じゃない頃かもしれないし。だとしたらありえなくも、いやさすがに舐めすぎか。B、A……ばんどう、あおい……? Eはなんだろう。エリックみたいな。坂東碧生エリック。そんなことあるかなあ……。もしかして、ばんどう、あお、いー?
しょうもないな。エリックよりもありえない。坂東碧生はそんな人じゃないはずだ。なんだか一方的に、距離が縮まった気がする。
蒸し暑い図書室で、私は赤ペンをノックした。
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