月を飛ぶ蝶のように

@o714

月を飛ぶ蝶のように


 石を放り投げることの、一体何が楽しいのだろう?

 水切り。そんな高等な技術まで行き着けば構わない、だが博士のソレは水切りというよりももっと原始的な、鯉に餌をやるような仕草だった。しかし彼にとって気にはならない。要するに水面に石を様々な角度で投げ入れるという実験は、根を詰めた研究者にとっては気晴らしに他ならないからだ。

 

 事務用軍服サービス・ユニフォームをゆったりと着こなす一人が博士に近づいて、クルーカットの髪をまだ少し気にしながら話しかける。

「テニスでもなさりますか?」

「いや、生憎あいにくインドア派なんだ。ここまで出てくるのも大仕事でね」

「こうやるんですよ」そう言うと若い尉官は石を一つ取り、空気抵抗を避けるように低姿勢から水面に投げ込む。すると灰色のウサギは水面を五回も跳ね飛んだ。

「おぉ」

「簡単ですよ。大事なのは石の方です」

博士サー?ちょっといいですか」

博士プロフェッサーでも、ワイズマンでも構わんよ」

 別の軍服姿がワイズマン博士を呼び止め、博士は水切りの上手い尉官に軽く会釈をする。

「それでは。テニスを楽しみたまえ」


 二人は芝の感触を踏みしめながらモックアップ棟まで歩いていく。

「君は空軍かね?」

「ええ。開発部門に配属を」

「まず軍服を脱ぎたまえ。あとシェーヴィング・クリームは香り付きでない方が良いな」

「どうしてです?」

「ウチの局にご令嬢レディはいないよ」

「それはどうも」

「確か宇宙軍創設の話があったと思ったが。NASAとは競合するんじゃないか?」

「もちろん。時節が来れば呼び戻されるでしょう」

「陸軍もそうだが、派閥主義が過ぎるな」

「ミサイル開発に予算が回ってこないものですから」

「それは大統領に言ってくれ。それに大陸間弾道ミサイルミニットマンはもうあるだろう?核ロケットでも飛ばすつもりかね」

「それは」

「まあいい。もうすぐ着くぞ」


 九号棟に入ると、タイを外した大柄な男が一人待ち構えていた。こちらに気が付くと意外に人懐っこい顔で笑って握手する。

「こちらはスペンサー博士」

「どうも」

「こちらこそ。ウィキンズと言います」

「存じているよ少佐。ところで風洞実験を見ていくかね?」

「風洞?宇宙船は真空空間を飛ぶんですよね?」

「その通り。基本的には大気圏内の実験だ、特に降下時の。だが宇宙空間に大気が存在しないという訳でもない」

 ワイズマン氏は少し息継ぎをして続けた。

「真空中に含まれる様々な大気の残滓カスが機体にもたらす影響、無視できるのか否か。細かいように見えるだろうが、これでも国民の税金を使っているからね」

「いや、構いません。それよりデスクに案内してもらえば」

「ああすまん。じゃあ付いてきてくれ」


 スペンサー博士は少佐を先導し、3階の指令センターだけ軽く紹介してからシミュレーション・ルームへ案内する。

「これは何です?」

「標本だ、前任者の趣味でね」

「蝶ですか?」

「言ったろう、彼の趣味さ。日本では蝶には何度でも復活するという意味があるらしい。何と言ったか、マサカド・タイラ平将門?日本の武士で、死んだ後にも京の町を蝶の大群が襲ったらしい」

「奴はアポロ一号の打ち上げ管制官の一人だった」そうワイズマンは呟いた。「調査委員会が終わった後も部屋から出てこなかったよ」


 一通り説明が終わると、ウィキンズ少佐は管制室の場所を聞いてきた。

「打ち上げはケープ・カナベラルだった、管制室もそこだ。ここは有人飛行の試験センターでしかない」

「なるほど」

「仕事に戻ろうか?」

「それでは、コーヒーでも取ってきましょう」そう言って少佐は部屋から出て行った。


 少し経って、科学者として時間と空間に忠実になれば4分と38秒後、少佐とは違う軍服姿が見えた。先程のテニスプレーヤーである。

「そんなに私とテニスがしたいかね」

「ウィキンズ少佐はおられますか?」

「まだ来ていないな」

「東部司令部より通信が入りました。チャールズ・ウィキンズ少佐は3年前に殉職されています、ソ連領空侵入による偵察中の撃墜K.I.Aです」

 風洞実験室を出た二人は、休憩室、中央指令、浮遊実験室、そしてシミュレーション・ルームを見て回った。取り敢えずのところ、彼の荷物は無い。

偽旗作戦スパイ工作です。やられました」

 彼の机、IBMの電子計算機の横には、左の羽を折り曲げられた蝶がそのまま置かれてあった。そしてワイズマン博士は確信する。次のアポロ計画こそ、必ず成功するだろうと。



 

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