8章 疑わしきは先んじて討て

 時間は、僅かに遡る。

「ええ天気やねぇ」

 柔和な表情の神薙薫が雲一つない空を見上げながら、隣の男に話しかける。

「……え、ええ。まったく。その通りです」

 対して、隣の厳つい風貌のロシア人、イワロフ・カデンスキーは周囲をおどおどと見渡しながら、おっかなびっくり返事を返す。

 ケンディと別れてからというもの、二人の間に会話という会話はほとんどなかった。

 微笑ましい雰囲気で辺りを見回す薫だが、ホテルで彼女の殺気を浴びているイワロフにとっては恐怖の対象以外の何者でもない。

 できることならさっさと逃げ出してしまいたい状況だが、不用意に背中を見せれば即座に手にした日本刀の餌食になるのではないかと気が気でならなかった。

 能天気な話を振っている薫の一挙手一投足にビビり散らしている大男の姿は、見る人が見ればどこかシュールな光景にさえ感じるだろう。

「いわろふはんは、この国には観光で来はったんやっけ?」

「は、はいっ!」

「ふーん。でも、不思議やねぇ」

「?」

「最近の観光には、そんなもんが必要なん?」

 指を指す薫の先には、イワロフが背負っているライフルバッグ。

 不要かとは思ったがホテルに置いておくわけにもいかなかった代物は、事情も知らぬ者には確かに不審に思うことだろう。

 日本刀を何の気にも留めずに携えている彼女が言えたことではないのだが。

「あ、いや。私、ここには狩猟にも来ていまして」

「ああ、狩りに来はったんか?」

「そ、そう! そうなんですよ!」

「そうなんか~。最近は観光の幅も広うなったんやなぁ」

 どこか間の抜けた反応を示す薫。

 そんな彼女の様子に、イワロフは思わずほっと息を漏らした。

 その時だった。

「すみませーん」

 遠くから声がかけられる。

 不意を疲れたようにビクッと体を震わせた大男は、声がした先に視線を向けると、そこには警官らしき男達がいた。

 二人とも警官らしい恰好をしており、一人は薫達に声をかけて近づいてきており、もう一人は遠くで無線のようなものを手にして、どうやら誰かと話しているようだ。

「え、ど、どうされたのですか?」

 英語のわからない薫に代わり、イワロフが警官に尋ねる。

「ああ。おまえら、この辺じゃ見ない顔だな? 観光客か?」

「え、ええ」

「やっぱりか。いや、実はこの近くのホテルで騒ぎがあってな」

「―――――っ!?」

「そのホテルのフロントから通報があってな。何か知っていたら教えてほしい」

―――――いかん。騒ぎすぎたか。

 イワロフの額に、僅かに汗が流れる。

 ロシアからのスパイ目的で入国している彼の事情を考慮すると、目立つのはただでさえ悪手だ。

 にもかかわらず、事故とはいえ派手に騒ぎすぎてしまったのだろうか。

 こんな辺境の地に州警察がわざわざ出向いてくるのは、そういうことなのだろう。

「なんだ? なんで黙ってるんだ?」

「い、いや……」

「そもそも、その女の持ってるもんはなんだ?」

 眉をしかめる警官の視線の先には、黙ったままこちらを見つめる薫の姿。

 いくら銃社会の国であっても、白昼堂々と凶器を持ち歩いていいわけではない。

 彼女の手にしたその白鞘は、ただでさえアメリカの地では異彩を放つ恰好をさらに際立たせていた。

「……」

「おまえ、ちょっと来てもらおうか」

 何も言わぬ薫を不審に思い、警官は彼女の刀を奪おうと手を伸ばした。

 だが、

「お兄さん」

 その手より早く、薫の口が静かに動いた。

「?」

 日本語がわからない警官の手が、一瞬止まる。

 そして、彼女の目が、瞬時に細くなった。


「少々、血の匂いが濃いですぇ?」


 瞬間だった。

 白銀が、荒野に煌めいたのは。

 目を離していたわけではない。

 警戒していなかったわけではない。

 ただ、見えなかった。

 神薙薫という女が、いつの間にか刀の柄に手を添え、抜き放たんと手を滑らせていたことに。

 それは、あまりに自然な動きだったからか。

 飯を食うのと同じように。呼吸をするのと同じように。

 刀を抜き、人を切るということが、彼女の中ではあまりにも自然で当たり前のことであるかのように。

「……は?」

 警官は、わかっていなかった。

 自分が切られたということに。

 薫が知らぬ間に放った逆袈裟の一太刀は、男の脇腹を裂き、肩にかけての一文字に一片の容赦もなく切り捨てた。

「―――――ひっ!?」

 ロシアのスパイの口から悲鳴が漏れる。

 必死だった。

 突然の出来事に意識を持っていかれないように食いしばることに。

 ごろんと、彼の視界に何かが転がる。

 それは、拳銃だった。

 警官が携帯していたそれが、倒れた拍子に転がってきたのだろう。

 物言わぬものとなった男の血液の匂いが生々しく当たりに広がり、吐き気さえ催してきていた。

「おい! くそっ!」

 遠目で見ていた警官が、突如として起こった異常事態に、手にした無線機で連絡をとろうと捜査を始める。

「あれ、これは遠くて届かんやろうな」

 薫のいつもの柔らかい口調に、若干の焦りが混じる。

 このまま方っておけば、この警官の仲間が集まってくるだろう。

 そうなってしまえば、いくら剣術に長けた彼女であっても勝ち目はない。

「―――――っ!」

 彼女の行動は、早かった。

 己の刀を下段に構え、標的である男目掛けて走り出す。

 だが、それでも足りない。

 刃の切っ先が届くより先に、男の通信が終わる。

 そんな思考が、彼女の脳裏を掠めた。

 その時だった。

 一発の炸裂音が響いたのは。

「―――――は?」

 警官には、何が起こったのかわからなかった。

 男そのものには、何も起こっていない。

 だが、彼の手元。

 正確に言うなら、彼の手にしていた通信機が、下半分を残して抉られたように吹き飛ばされていた。

 警官の意識が手元の異常に動揺していたのは、僅か1秒ほど。

 しかし、そのほんの僅かな時間だけで十分すぎた。

 男の死角から近づいていた、薫の刀が振るわれるのには。

「―――――ふっ」

 一呼吸とともに、刀を薙ぐ。

 振られた得物は止まることなく、警官の首目掛けて突き進み、勢いをそのままに対象の首を切り落とした。

 砂塵の荒野に、血の雨が降る。

 溢れ出る血液が大地を濡らし、その勢いに耐えられなくなった男の体は地面に倒れ伏した。

「……ふぅ。一丁上がりやな。ありがとうな、手伝うてくれて」

 薫は一息とともに刀に滴る血をふるう。

 チラリと動く目線の先には、一つの銃口。

 いまだ硝煙を上げている銃を、震える手で握りしめる一人の男、イワロフ・カデンスキーの姿がそこにはあった。

 動くつもりなんてなかった。

 むしろ逃げ出そうとさえ思っていた。

 だが、彼の体は自然と動いてしまっていたのだ。

 それは、軍人としての性か。はたまたかつての戦場での経験か。

 どちらにせよ、なぜ体が反応してしまったのかは、本人でさえわからなかったのだが。

「……」

「お~い、お兄さ~ん?」

「……な、なんで」

「?」

「なんで、彼らを殺したんですか!? いきなり切る必要なんかなかったでしょう!?」

 黙っていたかと思えば突如捲し立てて糾弾し出した男に、薫は溜息をついて刀を鞘に納める。

「なんや、お兄さん死にたかったん? あんなに血の匂いさせた輩が来とったら、今はやらんでも必ずやられるぇ?」

「だからといって、こんな……!」

「そんなことより」

 男の話を断ち切って、日本の女侍は辺りを見回しながら口を開く。

「場所変えよか。こないな見晴らしのええ所、他の誰か来るかもしれへんし」

「……」

 どこか釈然としないが、とりあえずこの場を離れることには賛成。

 自分に何とか言い聞かせ、臆病なロシアンスパイは銃を放り捨てると、先を歩いていく女性について歩き始めた。

 少なくとも、この場で彼女をやりあうことは自殺行為だと、心に刻みながら。


 

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