プロローグ③ ロシアン・スパイ

 極寒のロシア。

 首都モスクワから少し離れた地点にある軍の施設。

 激しく雪が吹きすさび、銃を手にした衛士達が守る施設の一室が、古風なランプに照らされてせめてもの暖かさを醸し出している。

 この部屋の豪奢なデスクに座った上級将校の勲章をつけた男が手元の書類に目を落としていると、部屋の扉が大きく叩かれる。

「入れ」

「はっ! 失礼いたします!」

 上官に淡々と入室を促されると、太く重い声とともに扉が開かれ、一人の大男が部屋を潜る。

 厳めしい顔つきの男だった。

 頬に走る大きな傷跡。

 2 mほどもある長身に宿した屈強な筋肉は、過去に培ってきた訓練や経験がどれほど過酷なものだったかを物語っているかのようだった。

「お呼びでありますか、ナビロフ中佐?」

「ああ。新たな任務だ、イワロフ・カデンスキー軍曹」

 ナビロフと呼ばれた男は対面の男に書類を手渡す。

 渡された書類に目を通していくと、イワロフは任務地の欄に目が留まった。

「……アメリカ、ですか」

「そうだ。かつての我々の怨敵だ。いや、今もなお我が大国にとっての最大の脅威だ。だが、今回は戦争をしに行くのではないがな」

「? と、言いますと?」

「今回はあくまで偵察任務だ。本来は専門のチームを編成して当たらせるのだが、おまえのかつての功績を讃え、君一人で潜入してきてほしい」

「……! お、お言葉、大変ありがたいであります!」

 過去を褒めたたえられた男は、感激のあまり敬礼で感謝の意を示す。

「うむ。場所はアメリカのテキサス。荒野で隠れている可能性のある連中の基地や周辺の町を調査してこい」

「はっ! 了解であります!」

 再度イワロフが敬礼でもって返事を返す。

 その瞬間、扉が大きな音を立てて開かれた。

「中佐! 本日の巡回、終了しました!」

 勢いよく大声を張り上げ、新兵と思しき男が部屋にずかずかと入ってきた。

「……ノックをしてから入れと、あれほど言っていただろう?」

「あぅ、も、申し訳ございません」

 やってしまったという感情が、あからさまに表情に浮き彫りにする男。

 彼は若干顔を青くして、隣に立つイワロフにも頭を下げた。 

「軍曹も、申し訳ありません」

「……」

「ぐ、軍曹?」

 おそるおそる反応を伺うが、大男からは何も返ってこない。

 不審に思った男が、無言の男に目を合わせた。

 だが、目が合わない。

 無言のままのイワノフは、白目をむいて仁王立ちしていた。

「……軍曹!」

「!? は、はっ!?」

 見かねたナビロフが大声を発すると、体をビクッと振るわせて大男がやっと返事を返す。

「とにかく! さっき言った内容が全てだ! 出立は明日! わかったらすぐに準備しに行きたまえ!」

「サ、サー! イエッサー!」

 上官の威圧に圧されたイワロフは再度体を振るわせると、敬礼とともに慌てて部屋を飛び出して行ってしまった。

「……行って、しまいましたね」

「……まあ、一生懸命なことはいいのだがね」

 溜息をつくナビロフは、どこか諦めたかのようにデスクに忍ばせていた棒付きキャンディーを口に含む。

 口の中に広がるほのかな甘味でわずかに気が落ち着いてくると、いまだ呆然としている新人に視線を向けた。

「あの男のようになりたくなかったら、君もしっかり任務に励むようにな」

「? 軍曹は一体、何の任務ですか?」

「? そうか。君は何も聞いていなかったのだな」

「?」

「そうだな。隠しておく必要もないし、君にも聞いておいてほしい。あの軍曹はな、いうなれば、左遷だ」

「!? さ、左遷ですか!?」

 上官の言葉に、新人は絶句していた。

 あの男、イワロフ・カデンスキーの先祖はかつてのソビエト連邦時代、冬戦争を生き残った英雄だ。

 そして本人も負けず劣らず、狙撃の腕に関してはこのロシアにおいて1位2位を争うほどの実力を持つ。

 それが知れ渡っているだけに、この左遷というワードが出るのは新人の男からすれば異常なことであった。

「知っての通り、イワロフ軍曹は狙撃の一点でいえば奴の右に出る者はいないだろう。だが、先程の奴を見ればわかる通り、あの弱すぎる精神力が全てを台無しにしている。我々は常に最強でなければならない。肉体であれ、精神であれな」

「……」

「日本では奴のような心のことを『トウフ・メンタル』と言うらしいが、まさに奴にはピッタリの言葉だ。そのため、奴をこのままこのロシアの大地に置いておくわけにはいかん」

「……では、もう戻ってはこないのですか?」

「今のところ考えてはおらん。まあ、何かしら功績を上げられれば考えんこともないがな」

 もうこれ以上話すことはないと言わんばかりに、ナビロフはもう一つキャンディーを口にする。

 新人は唖然としながら、窓の外に視線をやる。

 外の吹雪はさらに降雪量を増し、夜の闇夜もあってさらに一寸先さえ視認を困難にしていた。




 翌日、イワロフは空港からアメリカへ飛び立っていた。

 上官達の意図を知らない彼は、これからの任務に対してこれ以上ない緊張感を漂わせる。

 シートに腰を下ろし一息ついてもなお、心が晴れることはなかった。

 彼の脳裏に浮かぶ、かつての記憶。

 過去の作戦行動中に遭遇した事件によって、彼は初めて任務を失敗した。

 以降、ロシアの基地にて内勤ばかりで退屈な日々を過ごしていただけに、かつての汚名の払拭と上官の期待に応えなければという責任感が、彼の心を逡巡していた。

「……いかんな」

 溜息とともに頭を横に振る。

 気分を紛らわせようと、機内備え付けのパンフレットに目を向けた。

 目的地到着まで見られる映画が列挙されており、その内の一つ、日本のアニメ映画が目に留まった。

「……せっかくだ。これでも見て気を静めるか」

 そうつぶやくと、手近にいるキャビンアテンダントに声をかけ、モニターを操作する。

 緊張しすぎていても仕方ない。

 これからの成功のために、今はリラックスしていよう。

 深呼吸を一つすると、彼は始まったコミカルな映像に視線を向けたのだった。



 その後、空港へ到着する頃には彼イワロフは意識を失っていた。

 彼の選んだ映画の中にはわずかだがホラーなシーンが含まれており、このワンシーンが彼の許容限界値を超えてしまったためである。

 以降、彼は『子供向けアニメで気絶した男』としてキャビンアテンダント内で語り継がれ、アメリカに着いて早速伝説を作ることとなったのであった。

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